デュエット・二つの花弁

「残念ながらない」


 返答は短く、しかして誤解を生まぬよう的確に。

 佐刀の返答が理解の外だったのか、我道は表情を固めた。

 唯一時間の経過を告げる眉毛の痙攣は果たして動揺か、あるいは思惑から外れた憤激が為せる仕草か。どちらでも構わないと内心で笑い飛ばし、肩を竦めて佐刀は続ける。


「何せ、こっちの世界では全うな理由さえあれば人をぶった斬っても何のお咎めもない。

 最高だろ、気に食わない奴を手続き踏んで斬れる世界。少なくとも歳だけ食った老害に顎で扱われるよりよっぽどマシ」


 如何なる理由があろうとも殺人が許容されない元の世界と、理由さえ提示できれば斬殺が許容される世界。受け入れることで発生する危険を加味した上で、佐刀は後者を選択した。

 一瞬割り込んで来た赤毛の少女には、まだ被りを振る。


「……わ、私の実験に協力した暁には、一番に元の世界へ帰れるチャンスを与えるとしても?」

「それ実験の時に人柱をやれ、ってことだろ?

 ごめんだね、そんなリスクを背負うなんて」


 実験の最終段階。人間に世界を飛び越えさせる際の負荷実験。

 脳裏に浮かぶのは全身を拘束具に固定され、見るからに怪しく器具を正面に構えた状態。嬉々とした表情で我道が操縦桿を手前に引けば、器具に挟まれた鈍色の輝きが自らへと注がれ──

 そこで佐刀は想像の羽を畳む。

 我道が自身に望む役割は、詰まるところが実験台。それも、次に利用する彼女が少しでも安全を確保できるように条件が近しい実験動物モルモットである。


「残念ながら交渉の余地なし」

「そう、それは残念ね……」


 視線を落とす我道を他所に、佐刀は踵を返して部屋の出入口へと向かう。足元に積み重なる本の山を崩さぬように意識したのは、佐刀なりの慈悲か。


「あぁ、そうそう。最後に一つ忠告しておくわ」


 我道が殊更ゆっくり、わざとらしく口を開く。

 振り返ることもない佐刀に対して、表情に真意を覗かせないままに。


「夜道には気をつけなさい」


 扉を開き、室内の暖気が一斉に逃走を開始。空気の流れに便乗し、佐刀も足を踏み出す。


「チッ……!」


 直後、舌打ちを一つ。

 肌に突き刺さる濃密な殺気へ、腰の刀を引き抜き対抗。

 響き渡るは重低音。暗い廊下に煌めく火花は、佐刀の視界に下手人の容貌を映し出す。

 整った顔立ちに右側のみを伸ばした白髪、髪の先端だけが背景へ不自然に溶け込んでいるのは黒である故か。日本刀に反射する得物は、切れ味ではなく重量と速度を以って物体を両断する荒神の戦斧。


「取り損ねた、か」

「クッ……重いん、がッ!」


 当然、振り被られた一振りを右腕のみで抑え切れる道理もなく、質量と速度任せに振り抜かれた戦斧が佐刀を鉄玉の如く弾き飛ばした。

 地を滑る最中で刀を突き立て、乱暴に速度を落とす。

 揺れる視界が捉えたのは、光源に乏しい廊下で一際目立つ白の燕尾服を纏った男性。



 一方でフタバに迫る凶刃も、咄嗟に殺気を感じ取った彼女が振り返って迎撃した。

 両手に握る刃を交差させ、片足を下げて反動を軽減。振り下ろされた一撃に対して極短時間でかつ的確に対処する手を尽くす。

 大気を伝播して水槽を揺らす重低音が、喧しいまでに鼓膜へ響く。


「警備員……じゃないッ?」

「取り損ねた」


 フタバの視界に映るのは、整った容貌を備えた女性。

 左側のみを伸ばした白髪。二振りの刃に反射する得物は、切れ味ではなく重量と速度を以って物体を両断する荒神の戦斧。

 咄嗟に対処を講じたのは見事であったが、フタバの膂力があろうとも抑え切るには限界があり、質量と速度任せに振り抜かれた戦斧がフタバを鉄玉の如く弾き飛ばした。

 地を滑る最中で両手に握る刀を突き立て、乱暴に速度を落とす。

 揺れる視界が捉えたのは、光源に乏しい廊下で一際目立つ白の燕尾服を纏った女性。

 佐刀もフタバもタカナシも、侵入者達には把握できぬ事柄であるが、二人に奇襲を仕掛けた男女は外観が酷似していた。

 性差はある。髪型も左右対称の形状をしている。戦斧を握る手も左右が反転している。

 だがそれらの要素を除いた容姿──たとえば纏う白の燕尾服や一目見た時の外見、顔立ちに至っては眉の一つまでが瓜二つ。互いを鏡の前に立てば、先に立つのは相方の色違いに他ならない。

 両者は示し合わせるように戦斧の切先を敵対者へ注ぐ。

 自らの体躯に匹敵する長柄の得物を軽々と掲げ、片手で制動する様は武具への精通具合を察しさせた。


「ヒヒガミ・れん。貴様を抹殺する」

「ヒヒガミ・はす。貴様を抹殺する」


 互いの名以外に違うことなく同音を口にし、鏡写しに戦斧を腰低く構える。空いたもう片方でも柄を掴めば、掬い上げの体勢が成立。

 悠々と連の背後に回った我道が、紫色の眼光を佐刀へ飛ばす。


「あら。そういえば貴方は受付を介してないから、帯刀したままだったわね」

「そんな、初歩的なことにも気づかないなんて……天才なんて大層な名が泣きますぜ……!」

「黙れ劣等生物ッ。私の思い通りにならないものなど、それだけで不愉快極まりないッ」

「我道様を侮辱する愚者は、何であろうと許さない」


 機械的な、しかし言葉の端々に激情を滲ませて、連は柄を一層強く握り締める。研ぎ澄まされた眼差しは、佐刀の首筋を貫きながら我道の指示を今か今かと待ちわびていた。

 彼の態度に心中から胸糞悪い感触が抜け出し、我道は右頬をつり上げる。


「そうね、アレの処分は任せるわ。

 可及的速やかに、かつこれまでの人生全てを後悔させてやりなさい」

「了解」


 我道への返事と同時に、連は床を踏み抜き接敵。


「つッ……!」


 常軌を逸した脚力は長柄の間合いと合わさり、刀よりも遥か遠方より致死の一閃を振るう。

 掬い上げる一振りを片手での迎撃を試みるも、容易に佐刀の防御は弾かれ右腕に痺れを走らせた。

 一撃が重い。

 極めて堅牢な単分子炭素体で柄を、日本刀と同一の玉鋼を潤沢に用いて重鈍なる刃を形成する戦斧。刀とは比較にならない重量の代償として得た特性は、ただ振るうだけで万物を抉る荒神の猛威。

 通常、市販されるものとは異なり常人が振るうことを考慮しない重量は、敵対する佐刀にとって脅威に他ならない。


「左が使えれば……なんて安い話でもないか……」


 たとえ両腕で防御姿勢を取ったところで、持ち応える時間が数秒伸びた程度であろう。


「連、蓮も呼んで一気に畳みかけなさい。

 男二人に女一人……果たして嬲られる男は、右か左か」

「蓮は第八研究室に侵入した相手と交戦中……既に研究者への被害と共にぱらいその試作品への被害も出ている模様」

「第八研究室に……? どういうことよッ、ふざけないでッ!」

「侵入者? なんだか知らねぇが、好都合ッ」


 我道と連の意識が佐刀から乖離する。その隙を突き背を向けると、佐刀は全速力で廊下を駆け出した。

 憤激を剥き出しにした我道は更に表情を歪ませ、肩にかかった髪を掻き毟る。


「ふざけるなふざけるなふざけるなぁッ!!! 連ッ、蓮にも命じて侵入者と佐刀を殺しなさいッ。可及的速やかにッ!!!」

「了解」


 主の激情に流されることなく、連は淡泊なまでに落ち着いた声色で応じる。

 我道の意志は、地上八階で戦闘を行う連を介して地下八階で戦闘を行う蓮にも瞬時に伝わる。

 剣戟の火花を散らし、長柄と二振りの刃が机を両断。握られた金槌が資料の紙吹雪に穴を穿ち、地を抉る。


「我道様は侵入者にお怒りのご様子。排除させてもらう」

「排除、なんて……薬物をばら撒く奴らが何を言って……!」

「全ては我道様の御意志のままに」


 足元の水溜まりを蹴り、踏み込んできたフタバの両刃を柄で受け止め、蓮は柄を蹴打。てこの原理に則って跳ね上がる重刃を躱すため、フタバは身を大きく仰け反らせた。

 結果として礼装の端を掠め取る程度の被害に留まるが、無理な体勢を取れば直後の動作は遅くなる。

 たとえば、大気の壁を引き裂く手刀の一突きへ反応できぬように──


「今のを避けますか」

「……また取り損ねた」


 瞬間、横合いから漏れ出た殺気に従って左腕を引っ込め、半瞬後に金槌が割り込む。

 金槌の柄に沿って視線を走らせれば、着流しの眼鏡の姿。


「ハァァァッ!」

「クッ……!」


 かけ声と共にフタバが体重を乗せて蹴り込み、身体との間に蓮が挟んだ左腕へ痺れが走る。踵から伝わる感触は、蹴打によって轍を刻む感覚か。

 純白の燕尾服を穢す足跡を嫌って腕を振り、フタバとタカナシを睥睨。

 並々と注がれる殺意に後退ることもなく、二人もまた蓮を睨み返した。


「薬物の方はある程度潰せましたが……彼女をどうにかしないことには逃走も不可能ですね」

「……」

「フタバさん、やはり武器が……」


 刀鍛冶であるタカナシには分かる。フタバが忙しなく柄を掴む手を弄っている様は、落着きのなさではなく得物の感覚が狂っていることによる違和感の占める所が大きい、と。

 弘法筆を選ばず、といっても筆からいきなり鉛筆に持ち替えても達筆を維持する域ともなれば一握り。まして、フタバが愛用するのは日本製の刀というよりも外国製の剣の方が設計思想としては近い。

 タカナシの懸念を察してか、話しかけられたフタバは朗らかな笑みを浮かべて応じる。


「大丈夫大丈夫。ちょっと軽くて普段通りの扱いもし辛いだけだから」


 左の小太刀は既に研ぎ直すべき域で刃毀れが目立ち、右の野太刀もまた刃が潰れている。

 雑な扱い、というよりも普段は頑強な大剣であるが故に力任せに振るう場面が多いのだろう。重量と力で強引に引き裂く剣であらば最適な扱いだが、それを一般的な日本刀に持ち込めば待ち受けるのは耐久年度を大幅に下回る摩耗。

 不安は拭えず、かといって逃がして下さいと頭を下げても、はいそうですかと逃がしてくれる相手でもなし。

 だからこそ、タカナシは視線を後方──中に収めていた薬液と紙をぶちまけた水槽へと泳がせる。

 瞬間、タカナシは地を蹴り、追撃に蓮も続く。


「製造費は分からないですけど、やたらと荒らしたくはないでしょう……!」


 水槽の残骸を背に、タカナシは蓮と相対する。

 彼の背後には、まだ使い回しが効く水槽や凶刃が及んでいない水槽も残っている。費用がどれだけかかっているのかは不明だが、可能ならば流用させたいのが企業というものであろう。

 だが──


「別にどうでもいい」

「?!」


 淡泊な返事と共に、蓮は左に構えた戦斧で横一文字に薙ぎ払う。

 水槽への配慮が欠如した一閃は辛うじて機能していた外枠を粉砕し、重力に敗北した上層の水槽を連鎖的に瓦解させる。

 表面の硝子が研究室狭しと破滅の合唱を奏でる中、タカナシは紙一重で荒神の戦風を躱し続けた。時には着流しの表面を撫でられ、時には肩口を掠めて刃を血で彩る。


「タカナシさんッ!」

「うるさい」

「こ、のッ……!」


 タカナシの危機にフタバが距離を詰めるも、蓮が振るう暴威の前では刃を重ねた防御姿勢が精一杯。


「厄介な、纏めて……ん、水槽の破壊は不味い……?

 ……アイツラがやった」

「何を遊んでいる蓮。速やかに侵入者を排除してこちらに合流しろ」


 蓮が水槽を破壊する中、連は逃走を始めた佐刀の背中を追っていた。

 尤も、追うといっても常に彼の背中を見ていた訳ではない。

 獲物を発見した豹よろしく太腿を瞬間的に膨張させ、足に込められた力を開放。弾丸の如き速度で左側面の壁、右側面の壁、電灯のすぐ側の天井を蹴り抜き、斜め上方より戦斧を振るう。


「しつこいん、だよ……!」

「貴様こそ」


 首元に迫る凶刃に対して咄嗟に反転し、小太刀を盾にしてやり過ごすも佐刀の身体は大きく後退。同時に全身に走る衝撃が左腕の罅を不快に刺激する。

 先程から同様の流れを二人は既に幾度となく繰り返していた。

 連が度々三角跳びの要領で廊下の壁や天井を足場にし、佐刀の正面や上方から戦斧を振るう。

 その度に佐刀も小太刀で迎撃し、致命傷を避け続ける。

 淡泊に言葉を紡ぎ戦斧を振るう連の姿は、佐刀には感情の喪失した殺人機械を彷彿とさせた。なまじ斧という武具は処刑に際して用いられていた歴史的事実が、彼が抱く印象を助長する。


「化け物が……!」


 悪態をつく佐刀だが、それで状況が好転するでもない。

 帝都オズ組が呼んだ先生──薬願桜花流の使い手も化け物染みた様相を呈していたが、あちらは薬物中毒の結果であり、身体能力もこちらの世界の基準には準拠していた。

 だが連が保有する身体能力──出鱈目な膂力や機動性は転移後の世界を基準としてなお並外れている。

 かち合う刃を通じて手に伝播する衝撃だけでも、戦斧が如何にふざけた重量を有しているかが伺える。鈍色に凝縮した殺意を涼しい顔でかつ、片手で軽々と操る様は紛うことなき荒神の具現。


「全ては我道様より承りし恩寵……見えるぞ、貴様の動きも」


 侵入者に対応して光源を絞られた廊下の中、連の拡張された視界にだけは水銀灯が灯すのと何ら変わらぬ光景が広がっていた。

 佐刀がすぐ側を通過した花瓶に植えられた一輪の雛菊の花びらすら、連には黄色と正確に認識している。

 それは当然のこととして、佐刀が次に行う動作も視認していることを意味し──


「死ね」


 大振りに薙がれる重厚の刃を避け、タカナシは足元に左手を振れる。


「この、いい加減にッ……!」


 戦斧を振るった蓮は手元を軽く捻って刃の向きを変え、手早く一閃。

 タカナシも迫る刃に対して、真横に跳躍することでやり過ごそうとするものの、一手遅い。もしくは蓮が一手早いと評するべきか。


「やらせないよッ!」

「邪魔、だァ……!」


 響き渡る重低音は、二振りの刃と火花を散らす合図。

 タカナシと戦斧の間に割り込んだフタバが刀を交差させ、重厚なる刃と正対。その隙に灰の着流しは刃の致死圏内から脱出を果たし、蓮から一定の距離を取った。

 がなり立てる音が意味するのは互いに得物を細かく制動し、少しでも好機と捉えれば一気に押し込む予備段階。

 フタバはそれぞれの刀を、蓮は両手で戦斧を掴み、互いに渾身の力をふり絞る。


「ア゛ァ゛ァ゛ァ゛ァァァァァッッッ!!!」

「クッ、このぉ……!」


 吠え立てる激情は肉体にも作用し、過剰分泌された脳内物質が普段は奥底で眠っている底力を引き摺り出す。それは奇しくも、薬願桜花流に於ける猿叫が目指す作用。

 常より振るわれる大剣によって培われた剛力は、臨時で手にした野太刀を過剰にたわませ亀裂を残す。

 大気が軋みを上げ、剣呑ならざる気迫が一時は拮抗していた戦斧を徐々に押し戻した。


「馬鹿、な……! 我が押し負けるなどッ……!」

「そんな道理ィッ!!!」

「こ、のッ。馬鹿力がァッ!」


 けたたましい轟音を上げ、均衡が崩れる。

 硝子片が如く両者の間に飛び散る刀の欠片は、フタバの柄から離れた代物。

 哀れ刀匠が鍛えし一振りは彼女が振るう膂力と蓮の得物たる戦斧の間で限界を迎え、無残な残骸となり果てたのだ。

 担う小太刀が代行を果たすも、既に摩耗著しい対の刃もまた限界が近い。後幾度、戦斧の成す荒神の権能に耐え切れるか。

 故に行動へ起こすのは、二人から距離を取っていたタカナシ。


「数秒でいいんで時間を稼いで下さいッ」


 駆け出すタカナシが握る左手には、細かな光源を受けて乱反射を繰り返す硝子の欠片。


「来ると分かっていて待つ馬鹿がどこ、に……?」


 この場に留まるべきではないと蓮は足を引くものの、長柄が追随することはない。

 視線を柄へ注げば、鈍色に混じる不自然な白磁の色合い。


「逃が、さないッ!」

「離せッ!」

「離さないッ!」


 フタバの双腕が長柄を掴み、乱暴に振り回そうと腕を操る蓮の動きにも動じない。

 そうこうしている間にタカナシの要求していた数秒は過ぎ去り、彼の姿がフタバの背後から覗き出る。

 振り被る左手は、投合の構え。


「離れて!」

「はい!」

「しまっ……!」


 タカナシの言葉を合図に、フタバが頭を下げて横へ跳躍。

 長柄にかかっていた力が不意に抜けたことで蓮が体勢を僅かに崩し、タカナシが左手を開く様子をただ眺めることしかできない。

 掌の内より姿を晒したのは、硝子片の残滓。

 タカナシが破壊し、また蓮も破砕した薬物培養にも用いられていた培養槽。蓮が戦斧の猛威を振るう中で破損した部位を拾い、いざという時の目潰しとするために温存していたのだ。

 視界の中で乱反射する輝きは蓮の視界を明滅させ、一欠片でも目に入ろうものならば致命的な隙を晒す。


「邪魔を、するな……!」


 故に左腕を振るい、少しでも欠片が目に混入する事態を妨げる。

 しかして、必要なものは隙そのもの。

 長柄にかけた力で体勢が崩れた今、最早硝子片に価値はない。

 掬い上げるは右の金槌。

 地を削り、遠心力を加算した一撃が目指す先は蓮の眉目麗しい頭部。

 数秒に満たぬ一瞬の果て、生々しい音と共にタカナシの手に骨の砕ける微細な感触が伝わる。

 絶大な力に長柄を手放し、鳴り響く音に合わせて蓮の肉体はたたらを踏んだ。


「損ねましたか……」


 呟くタカナシの視線の先には人体として不自然に折れ曲がる左腕を力なくぶら下げ、左側頭部の髪を鮮血で塗装する蓮の姿。


「ハァ……ハァ……ハァ……」


 咄嗟に金槌と頭の間に左腕を差し込むまではよかった。しかしタカナシが振るう魔槌の勢いでは誤差に過ぎず、彼女の左腕は枯れ枝の如き気軽さでへし折られている。

 燕尾服に赤を滲ませ、半端に関節を曲げたままの指を伝って足元にも血の池を生成する。

 利き手を失い、敵は未だ両名が生存。

 片手一本で事を交えるには不足極まりない。今から戦斧を拾った所で戦況がひっくり返る訳もなし。


「あっ、逃げた!」


 なれば、施設の防衛を放り投げての敵前逃亡も止むを得ず。

 反射でフタバが手を伸ばすものの、側に立つタカナシが手で制する。


「今は地上を目指すのが先決です。時期に、ここにも警備員が退去して訪れます。

 フタバさんの武器が見繕えれば、二手に別れるのも手なのですが……」


 辺りへ視線を送りながら、タカナシは酢いた匂いが蔓延しつつある研究室を散策する。手早く、目的の品を求めて研究員だった肉塊にも手を伸ばす。

 研究員にも剣士としての誇りが残されていたのか、二体も漁れば刀の一振りも見つかるというもの。


「二手に別れたら、それこそ個別にやられちゃうんじゃ……」

「逆ですよ、逆。二手に別れるからこそ、相手の戦力が分散されます。

 敵を全滅させるのならともかく、逃げ切るのでしたら頭数は少ないに越したことはない」


 拾った刀を手渡し、どうですかと問いかける。

 砕けた野太刀の代替として渡されたのは、先の小太刀と大差ない刃渡りの一振り。研究職故に筋力に自信がなかったのか、中抜きされた刀身は見た目以上の軽量さを誇るが、フタバにとっては硝子細工に似た不安を抱く。

 時間が許すのであらば別の刀を探すのだが、微かに聞こえる靴の音が刻限の時を否応なく告げる。


「大丈夫。この程度の不慣れ、むしろ好都合だよ」

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