下されたJudgment

 淡い緑に輝く薬液が、薄暗い室内で照明代わりの役目を果たす。

 成分の偏り防止のため、底部へ備えつけられた回転子が薬液を撹拌させ、その度に生物めいた気泡を上部へ浮かべる。

 気泡が行き着く先には、水温計。

 かつて万能薬のように扱われ、今では口にするのも憚られる致死毒をもたらすと周知された鉛が、薬液が一定の気温に保たれていると保証している。

 規律よく、奥の壁面を埋め尽くす程に並べられた水槽の内には、多量の紙が漂っていた。

 一枚一枚は五平方糎センチ程度の紙が、薬液の明かりに斑の闇を差し込む。時折浮上する気泡に持ち上げられる様が、一層有機的な怪しさを醸し出した。


「成分の割合はこれでいいはず……次は染み込ませる紙の成分……Aの紙よりもBの方が効率的に吸着するが……」


 水槽から廊下一つを隔てた先の机には、雑多な資料と試験管、そして盆の上に置かれた二枚の紙。

 盆に差す影は何かを呟きながら、手にした計測器を紙に接触させる。


「強度の方に難が出る……

 全く、私の専攻は科学であって薬学じゃないのよ……」


 繰り返し独り言を呟く影の周囲に他の人影は絶無。近寄りがたい雰囲気を醸し出す影は、水槽からの明かりのみを光源とした空間にあってなお暗い。


「そもそもこういうのを大量生産したいなら、せめて大型の培養槽でも用意しなさいよ。水槽なんてチンケな代物を大量に買ってカバーなんてどんな節約思考よ……

 正しい科学の発展には潤沢な資金による支援が不可欠……何が業界最大手よ、大事な部分でケチるなんて三下もいいところだわ……」

「我道様、社長より連絡で……」


 影の背より声をかけた男に待っていたのは、薬液による洗礼。

 振り向いた影の手にある試験管からは、分量を変えて調整したのか、桜色の光を放つ薬液が床へと垂れていた。当然のことながら内容物は全て男へ向けてぶちまけられ、昨日仕立てたばかりであった黒の制服を異色で彩る。

 あまりにも不躾な態度に顔色一つ変えない男へ、我道と呼ばれた影は更なる追い討ちをかます。


「私の研究室に入る時は、必ずノックをしろと伝えたわよね」

「……扉を叩く確認動作なら既に三度はやりましたが、生憎と返事がなかったので」

「だったら返事があるまで繰り返せってもんよッ。たかだかそんなこともわざわざ言わなきゃ分からないのッ? その脳味噌、ピーナッツに電極でも刺した方がまだ働くんじゃない?!」


 我道が額に青筋を刻み、烈火の勢いで捲し立てた。その度に白衣は乱れ、手入れもされずに波打つ茶の髪が一層激しい津波に飲まれる。

 そうしている間にも、薬液は皮膚と粘膜を介して男の内へと侵入を果たし、効能を人知れず発揮した。

 血流が、加速する。

 体温が、上昇する。

 心臓が無限に高鳴り、影の言葉すらをも遮る。

 そして音が、視界に写り込んだ。


『門外漢の私がいなけりゃ、薬物の一つも作れない役立たずの屑企業ッ。大人しく私の研究に金を貢ぎ続ければいいのよッ!』


 怒りを克明を刻み込む血の赤。全体的に刺々しい文字の形。それらが男には容易に読み取れた。

 視界に音が浮かぶのであらば、素直に我道の言い分を聞き終えるまで待つこともあるまい。

 そう錯覚し、男は声を出す。


「最近警備隊が慌ただしく配置替えを行っているらしく、近々何らかの行動を起こす可能性があるとのこと。

 よって警備隊が動きを見せるまでの間、売人を使った試薬の配布を停止せよ、とのご命令です」


 男の言葉を示す青の文字列が、我道の顔を覆い隠す。

 密着にも等しい間合いならば、間違いなく彼女も目を通しているに違いない。


『なんて言ったのよ、もう一度言いなさい。この無能ッ!』


 素直な感想を述べれば、男は我道のことが嫌いである。

 確かに彼女の頭脳が人並み外れて優れていることは認めよう。彼女の卓越した頭脳が語り烏の着想を実用化にまで漕ぎ着け、今もまた、新薬によって通信総合商社へ莫大な利益をもたらさんと研究を続けている。

 だが、類稀な知識を支える人格は酷く歪んでいた。

 そうでなければ、試験管の中身をいきなりぶつける異常行動になど出る訳がない。

 男は踵を返すと、我道のわめき声から二重の意味で目を逸らして三度は叩いた扉へ手を伸ばす。

 室内の気温で冷却された取っ手を掴み、全身の熱が奪われた。


「え……?」


 常識を越えて研ぎ澄まされ、気流すら感じ取れる肌が取っ手を介して根こそぎ熱を排出し、男の内にあるはずの熱が──体温が底を尽く。

 無論、これは過剰な触覚が招いた錯覚に過ぎないものの、現実と虚構の境目が壊れていた男には関係ない。心臓が活動を停止して男が扉の前で倒れたという結果だけが、彼にとっての真実なのだから。


「何薬物中毒で倒れてるのよ、この屑ッ。起きなさい、起きて用を果たしなさいッ」


 鳩尾を狙った蹴打。動きを止めた相手であらば、一科学者であろうとも痛打を与えるのは容易に過ぎる。

 故に何度も何度も、繰り返し蹴り込む。

 肋骨をへし折り、内臓を傷つけ、なおも腹に鈍い一撃を加える。


「「警備隊が不審な動きを見せているから、試薬の売買を一時停止せよとのことです」」


 影から浮かび上がるが如く、連なる存在が我道へ声を重ねる。

 血走った眼光を向けながらも、二人を認めて我道は熱の籠った息を吐き出した。

 最後に一発、顔面を蹴り上げると意識を足元の肉塊から二人へと差し替える。


れんはす……いいわ、アイツには了解したと伝えておいて」

「「了解しました。我道様も無理をなさらぬように」」


 そう言い残し、二人は気配を無くす。

 残されたのは獰猛な気性の犠牲となった男と、元凶たる影が一つ。



「糞がァッ!!!」


 豊島区。帝都オズ組本部。

 夜も深い時間帯、普段であらば寝静まり静寂に包まれているものの、組長室のみは例外的な喧騒が漏れていた。

 尤も、騒音の元凶はたった一人であるが。


「糞が糞が糞が糞がァッ。しくじりやがったなあの無能共ォッ!!!」


 常ならば整理整頓が行き届き、どこに何があるかが一目瞭然とした室内は散乱し、資料と本が足場を埋め尽くしている。机の背後に飾られた絵図には名画でありながらも、最早価値を提示できないまでに破られていた。

 部屋に佇む男は瞳孔を見開き、血管を狂的なまでに刻みつける。

 海外から取り寄せ、丁重に整えられた灰の西洋制服も大きく乱れ、全身から溢れる汗が幾重にも染みを刻む。

 組長室に立つ男など、正体は唯一一人。

 帝都オズ組現組長、カツ・シュウミ。


「たかだか病院の一つも陥落できねぇのかッ。無能ッ、役立たずッ、屑共がァッ!!!

 許さねぇ許さねぇ許される訳がねぇッ。なんのためにあの胡散臭い男と手を組んだと思ってやがる! こうなればオズ組の総戦力を以ってスメラギ病院をッ、爺の捨て土産を蒸発させてや──!」


 喉を枯らして吠え立てる獣を食い止める音、それは騒乱。

 悲鳴、断末魔、そして流血の音。

 カツの意識が部屋の外へと注がれる。


「誰が来やがった……!

 ここがどこだと思ってやがる……?」

「帝都オズ組本部、だろう。あまり粋がるものではないぞ、極道」


 障子戸を両断する一閃が、カツの左頬を抉った上で名画に追撃を加える。

 左頬から血が滴り、同時に障子が音を立てて崩れる。

 奥に立っていたのは、針の如く細長い刀身を持った男。鮮やかな青の陣羽織を真紅に染めた美丈夫の瞳は、手に持つ刃に匹敵する程に鋭利。


「あ、お前……なんで、セーデキムがッ……?」


 カツが呟いたのは日本四六貴族が一角、セーデキム家。

 四九代も続いた由緒ある名家の現当主が、幾ら帝都一の繁栄かつ闇市の元締めとはいえオズ組本部へ直々に足を運ぶのか。護衛の一つすら引き連れていないなど異常事態ではないか。

 血濡れの刃を振るい、手首を捻ることで返り血を払う。

 マドカの眼光が、一層に研ぎ澄まされる。


「既に調べはついているんだ。

 新宿区のスメラギ病院への放火疑惑。そして薬物の密売。

 どちらにしても、こと帝都においては重罪。斬首刑も免れない大罪だ……」


 一歩一歩、足を進めるマドカの声色はどこか穏やかで、一見すれば返り血を忘れてしまう。

 だからといって、彼の心中が溶岩で煮え滾っていることを否定する材料とはならない。


「そ、それがどうしたッ……今オズ組を潰せば、闇市を取り仕切ってる勢力に馬鹿みたいな空白が浮かぶ!

 そうすりゃ今までオズ組の下で冷や飯食ってた連中は、ここぞとばかりに暴れるぞッ。治安だって最悪だ! 何せ取れた時の上がりは莫大ッ。全戦力を投資するだけの価値があるッ!」

「そうだな、知ってるよ」


 今や帝都オズ組の影響力は絶大。

 幕府としても決して無視できず、警備隊も闇市の存在と合わせて頭を悩ませている案件である。無作法にオズ組だけを摘出するのは、癌細胞に侵されているからと臓器の一つを摘出するに等しい。

 だがもしも、宿主の命よりも病魔の根絶を優先する理由があるとすれば。


「今上げた二つは、あくまでこの国に於ける罪。

 無論のこと、遵守されて然るべきだが、首輪に繋がれた飼い犬であらば多少の越権も考えよう。

 だが──」


 マドカの目が俄かに開かれる。

 地獄の扉が開くが如く、漏れ出した何かがカツの背筋に冷たいものを走らせる。


「あがッ、グッ……!」


 一瞬で天地が入れ替わり、背中に衝撃が走ると共に右肩に鋭い灼熱が噴き出す。


「後一つ残された罪……これは看破できないな。

 お前達はフタバを傷つけた」

「フタ、バ……誰だ、そッ。あぎィ……!」


 突き立てられた刃が捻られ、穴を抉り、内の肉ごと血を噴き出させる。

 その度に肩から全身に激痛が伝わり、反射に近い動作でカツの肉体が痙攣する。

 死に損ないの芋虫を彷彿させるカツを見下ろすマドカの眼光はどこまでも冷たく、吹き荒れる絶冷の吹雪を連想させた。


「私の妹だ。十人いる弟妹の内一人の、な。

 極道とやらもそうだろう、家族は大事だ。当然、貴族にとっても同様」

「し、知らねぇ……他の奴らが勝手にやったんだよッ。今回の件は部下が暴走しただけの話……!」

「ならばお前に生きる価値はないし、帝都オズ組の存在価値もまた皆無だ」

「き……さっきの話を──!」


 カツの言葉を遮るのは、マドカの怜悧な眼光。

 即座に首を刎ねようとも一切の後悔はない。そう断言できる説得力が、彼の眼光には宿っていた。


「ここではっきり言っておこう。

 私の刃は十の弟妹を斬れない鈍らだが、この国の秩序であらば容易く斬り落とせるぞ」

「……!」


 言葉を失うカツに対し、マドカは刃を引き抜く。

 鋭い痛みが走るものの、最早カツに何かを話す気力はない。

 ただ、首筋に当てられた刃へ背筋を凍らせるのみ。


「この国の復興はまだ遠い。そのためには闇市の存在もまた、容認せねばならない。

 この言葉の意味が分かるな。帝都オズ組現組長、カツ・シュウミ?」

「わ、分かったッ。ちゃんと秩序だって闇市の統制を行う……薬物の売買も抑制するッ!」

「私の家族には?」

「ぜ、絶対に手を出さないッ。部下にも厳命するッ!」

「……よろしい」


 一転し、穏やかな口調でマドカは血を払うと、刀を鞘へと戻す。


「近頃は憂国軍拡同盟などという革命家気取りの暴力主義者達が水面下で活動しているらしい。

 まかり間違っても、手を貸すようなことがないように」


 警告を一つ残し、マドカは踵を返した。

 革靴の床を叩く音が部屋中に反響する間、カツは微動だにせず虚空を見つめている。目の焦点は合わず、ただ光景だけを視界に収めていた。

 組長室に蔓延する尿の匂いが、鼻腔を刺激する。


「マドカ……タ、セーデキムッ……!」


 吐き出された呪詛の声もまた、空虚に響いた。

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