異端と罪科と後日談

 目が覚めた時、眼前に広がったのは一面の闇であった。

 本当に目蓋を開いたのか。実は目を瞑ったままで勘違いしているのではないかと疑い両手を目線の高さまで持ち上げるも、何故か肌色は克明に浮かび上がっていた。光源の一つも見つからないのに。


「なんだ、ここ?」


 呟いた声は反響を重ねるも、徐々に勢いを失くす。

 佐刀は疑問を抱いて、周囲へ首を振る。

 しかし、右を見ても左を見ても広がるのは永遠にも錯覚する無明の闇。

 足元へ視線を落として、自身が立っていることを確認すると、佐刀は足を持ち上げて足を進めようとした。

 足は脛の辺りまで粘度の高い液体に飲まれていたのか、重油を彷彿とさせる黒が付随。歩き難い印象が佐刀にこびりつく。


「足が、重い……」


 一歩踏み出す度に、多量の液体が足の自由を妨げる。さながら、この地へ縛りつけることこそが目的であるかのように。


「よくも殺してくれたな……?」

「おぉッ、なんだ?」


 突然の慟哭に声の方角へと振り向けば、眼前には洋式制服を纏った男が両手を恨めしそうにぶら下げていた。

 見覚えは、ある。

 スメラギ病院を襲撃した帝都オズ組の内、現地で指揮を担っていた男であり、佐刀が頸動脈を斬り失血死した男でもある。

 そして彼が、生涯初めて殺害した男。


「痛かったぞ、素直に首を斬らないからなぁ……?

 なんで殺した?」

「邪魔だったから」


 亡霊の疑問に端的な回答を示し、腰に携帯した小太刀を抜刀。

 一太刀の元で男は再殺され、首を失った肉体が重油の底へと沈む。

 同時に、男を糧に重油が沸き立つ。源泉を振り当てたのならば喜ばしい限りだが、残念ながら佐刀の右手に握られているのは刀の一振り。


「どうして殺したぁ?」

「何故だぁ?」

「しつこい」


 肉体を形成した構成員を、直後に切り捨てる。

 この時点で、佐刀は謎の現象を夢だと解釈していた。

 夢は本来、脳内の情報を整理するために行われるもの。なれば、寝る前に印象的な出来事──初めての殺人など起こしていれば、強い衝撃を伴って脳に刻まれて何の不思議もない。


「こっちでは合法なんだ、向こうの法律になんで付き合わなきゃならない」


 嘆息交じりに呟いてみても、目覚めの兆しはなし。むしろ足を動かす中で、更なる疲労の蓄積すら感じてしまう。

 そして記憶の整理ならば、今日の体験でアレに勝る印象の持ち主などいない。

 それを証明するように、次に沸き立つ重油は六尺を優に超える。


「逢いたかったぜぇ、佐刀ぉ?」

「ま、そりゃ出ますよね。アナタも」


 三編み笠に防刃性に優れた帝国軍服。左の肩掛を注視してみれば、確かに下に何かがあるようには思えない。三編み笠の奥で夜闇を照らす三日月も、さながら前世の写し取り。

 ツシマ・シマズ。

 薬願桜花流の使い手にしてヒロカツという薬物乱用者。過剰投与から来る極度の興奮状態を突かれ、可燃性液体で焼死した男。

 身体の端々で炎を燻らせ、ツシマはただ爛々と眼光を輝かせた。


「で、その姿を借りて次は何を言う気だ。恨み辛みは聞き飽きたぞ」

「そんなこと言う気はねぇなぁ」


 間延びした口調は亡霊としてのあり方と噛み合い、墓場で会えば悲鳴の合唱団が出来上がることだろう。

 亡霊が口を開く。続く言葉は、佐刀の思慮が外。


「祝福って言うのかぁ?

 そういうのをやろうかとなぁ」

「は?」

「脱殺人童貞おめでとう、ってことだぁ。俺も上官からはこう祝われたんだぜぇ?」

「知るか」


 自らを狙った者の生前など興味なく、夢である以上は事実という確証もまたない。何せ下手人は死亡したのだ、こうであって欲しいという願望が混入していて当たり前。

 そんな状態で語られる言葉など、泥酔した酒乱よりも信用ならない。

 わざとらしく肩を竦めると、ツシマは言葉を続ける。


「戦場で殺すのと街で殺すのに、違いなんて殆んどない」

「……だな」

「つまり元軍人の俺とお前も同類ってことだぁ。これは祝福、しなきゃだろぉ?」


 同類。

 ツシマが零した単語に、虫唾が走った。

 言っていることは、佐刀自身も納得できることである。だが、何故かツシマが自分に対して用いているというのが、どうしても許容できなかった。

 相手が薬物中毒だからか?

 それともあくまで心象で描かれた想像の産物故か?

 理由は釈然としない。ただツシマを形取った重油に、佐刀は殺意にも等しい怒気を抱く。


「女でなくて悪かったが、せめて拍手の一つで──」


 これ以上喧しくなっては腹立たしさこの上ない。素早く、重油の喉を小太刀で刺突。


「うるさいんだよ、亡霊が。死んだんなら大人しくしてろ」

「そうかい、だったら最期に一つ。おめでとう人殺し──」


 突き立てた小太刀を振り払い、重油の喉より黒が殺到。

 視界を黒が際限なく飲み込み──



 空気の吐き出された間の抜けた音が、鼓膜を優しく震わす。


「んあ……?」


 手の甲に柔らかい感触が伝わり、薬剤の刺激臭が鼻腔をつんざく。

 沼の底から這い出るように意識が覚醒していき、佐刀は微睡の中から目を覚ました。

 鉛の如く重い目蓋を、時間をかけてゆっくりと開く。しばらくすれば、天井へと焦点が定まっていった。白磁を彷彿とさせる白で埋め尽くした天井は、並々ならぬ整備の賜物か。

 佐刀が首を左に倒すと、掛け布団の上には包帯で雁字搦めとなった左腕が露わとなっている。


「あぁ、昨日のアレな」


 意識の覚醒に伴う記憶の回復に、佐刀は左腕の包帯に合点がいった。

 スメラギ病院、正確にはその土地を狙った帝都オズ組の襲撃とそれに端を成す攻防戦。

 病院側の戦力は佐刀自身とフタバのたった二人。対するは帝都オズ組の構成員が三〇人余り、加えるは第二次世界大戦を駆け抜けた“一〇〇人斬り”ツシマ・シマズ。

 もしも賭博が行われていれば大穴間違いなしの情勢でありながら、結果はスメラギ病院側の大勝。用心棒も佐刀の手で討ち取られている。

 だが代償として佐刀も左腕に皮膚損壊の大怪我を負い、胴体にも浅くはない裂傷を帯びている。


「用心棒を倒した後、緊張の糸が切れて意識を失ってしまった。と」


 勝って兜の緒を締めろ、とは誰が言った言葉か。

 あまりの情けなさに佐刀は顔を覆う。


「もっとこう、勝った後には色々あるだろうが……」

「あ、佐刀! 起きたのッ?」

「フタバか、おはよう」


 扉の開く音と共に、赤髪を揺らして繋ぎ服の少女が姿を見せる。

 快活な笑みを浮かべるフタバであるが、象徴的な得物である二振りの大剣は所持しておらず、また肌の覗ける各所には包帯や綿紗ガーゼで処置をしていた。

 佐刀も来訪者に対し、上半身を起こす。


「もう平気なの?」

「平気も何も、なんというか……あんまり痛いって感じないんだよ、昔からさ」

「昔って記憶が戻ったの?!」

「あ、そ……そうなんだよ、少しだけだけど……ハハハ」


 ショック療法ってヤツ?などと惚けてみせつつ、佐刀は視線を逸らす。

 記憶喪失の男が昔からの出来事を語れる訳がないと、気づくのが一手遅れた。始めての実戦を経て、未だ調子が戻っていないのか。

 誤魔化しの笑みを浮かべると、フタバは頭上で点灯した疑問符を消して視線を落とす。


「そう。私はてっきり悪夢でうなされて夜も眠れない……って感じかと」

「悪夢? なんで寝床で寝てるかの因果関係を考えると恥ずかしい、みたいな?」


 掛け布団から出た上半身は、昨日着用していた着物ではなくスメラギ病院指定の病院着である。そこに当時病院にいた人材から佐刀を抱えて移動できる人を絞り込めば……

 つまりはそうなる訳なのだが、フタバの表情は僅かばかりの冗談も交えていない。


「そんなのじゃなくて……私も最初はご飯だって通らなかったよ、人を殺した次の日には」

「あぁ、そういうの……」


 沈鬱そうに表情を暗くするフタバとは対照的に、佐刀はどうするべきかと頬を掻く。

 なまじ冗談を口にしたばかりに、今更本当は徹夜していたなどといっても説得力が欠如する。

 やれ決闘だの組だのといった要素にばかり触れていたため錯覚していたが、別にこの世界の人間も倫理観が欠落している訳ではない。誰かを傷つければ良心の呵責で痛むし、殺せば罪悪感で圧し潰されそうになる。

 佐刀には理解できない感情の機敏ではあるが。


「いや、まぁ極道と元軍人だし……それも病院を焼こうなんて屑の典型ですし」


 仕方なく、相手の咎を前面に押し出していく。

 無辜の市民に危害を加えたのなら問題だが、市民に害成す悪人ならば正義の鉄槌。罪悪感を抱かなかったとしても、おかしくはなかろう。


「それはそうだけど……うん、君が気に病むことじゃないから、励まそうと思ったけどその調子なら大丈夫かな」

「励まして貰えるなら今から病もうかな」

「こらッ。そういうのじゃないから!」

「ハハハ、ごめんごめん」


 頬を膨らませて両腕を振るフタバの姿に、佐刀は微笑む。怒っているのだろうが、その仕草が子供か小動物を連想させたためにどうも可愛らしかったのだ。

 本音を言えば、スメラギ病院を守り切った報酬として充分な程に。


「で、何しに来たの。寝覚めるか心配だったとか?」

「それもそうだけど」


 逡巡は僅か、フタバは口を開く。


「兄さんが病院に来たらしいの」

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