クライマックスは突然に

 夏の暑さを超え、秋口の涼しさが帝都を包み込む。

 佐刀が元の世界とは異なる歴史を歩む世界に転移してから、一か月と一週間が経過した。

 既にミコガミとの修行も佳境。一月で間に合わせて欲しいという無茶ぶりにも彼は十全以上の成果を発揮している。

 御岳山おんたけさんの一角、獣も立ち寄らぬ未開の道を歩まねば辿り着かぬ場所で、夜闇に乗じた白刃が火花を散らす。


「ハッ。そうだ、その調子だ、足を止めずに動き回って斬り続けろ」


 受けに回っているのは、軍服を肩に羽織った男。

 六寸を越す体躯は立ち止まった場所から大きく足を動かさず、樹木の間をすり抜ける何かを軍帽の奥に潜む濁った茶の瞳でねめつけた。

 身に着ける多くを黒で揃えた相手は、闇夜という条件も合わさって純粋な視力だけで捉え続けることは困難を極める。彼自身、足裏の前半分を軸にした足捌きを成して接地面積の最小化と移動の効率化を成立させているため、音を頼りにすることもまた困難。

 なれば頼るはどの感覚か。


「だがなぁ、殺気が駄々洩れだぞ……っと」


 背中に走る悪寒を頼りに半身を捻り、右に握る刃を振り下ろす。

 するとどうだろう。

 骨身に沁みる痺れと共に再度舞い散る火花が、歯を食い縛る少年の顔を闇に投影するではないか。


「チッ……!」


 勢いのみを頼りに斬り抜けようと迫り地を蹴り上げた反動故に、少年の身体だけが矢鱈と距離を詰め、力を込めるには不向きな体勢を余儀なくされる。

 必殺を逃したとしても先程までと同様、蹴り上げた勢いで離脱できれば問題なかった。だがミコガミが力を受け流さず、正面から鍔競り合う格好となってしまえば後は体躯の問題。上からの押し潰しを選択肢に追加可能な彼に軍配は上がる。

 そう考え、無意識の内に思考から外していた。


「あ……?」


 軸足を払われ、体勢を崩すという可能性を。

 暗転し、視界に映る光景から師匠が退場、代わりに主演を命じられたのは、深緑を割って淡い輝きを地面へ注ぐ月であった。

 頭に響く落下の衝撃に悶絶を打ち、意識を切り替える前に地面へ白刃が突き立てられる。鏡の如く映し出される自らの表情が、何よりも雄弁に敗北を物語っていた。


「うーん……斬り殺すつもりでやれといって九日くらいか。どうにも殺気を抑えられんな。そこを改善できれば、もっと伸びると思うんだが」

「あんだけ、ズバズバ斬っといてよく言う、よ……!」


 倒れ伏していた少年──佐刀は背中を地面へ向けるだけで、立ち上がることもせずに視線をミコガミへと合わせた。

 肩が上下し、胸元が取り込んだ空気で伸縮を繰り返す。未だに口元には家庭用口部覆面が水を滴らせ、所々に切り傷を蓄積させた着物も十二分に水気を吸い取っている。証拠というべきか、着物には多量の泥も付着していた。

 修行開始当初は数分も動いていれば、全身の細胞が同業休校ストライキを引き起こして正常な動作すらも受け付けなくなっていた。だが呼吸と身体に悪影響著しい環境だろうとも三〇日間続けていれば、嫌でも身体は慣れていく。

 最初は数分しか続かなかった体力も、数一〇分、数時間と延長していき。

 今では普段の修行程度ならば、開始から終了まで足を止めることなく連続して続行できた。


「斬られることも経験だ。戦場でずっと無傷なんて虫のいい話、ある訳ないしな」

「頭では、理解しているつもりだが、なぁ……」


 既に時計は二巡し、一日の終焉と開幕を平等に伝えている。

 帝都オズ組による再度の襲撃を翌日に控えた今、深夜だからと身体を休める訳にはいかない。むしろ今の内に体内時計を夜型へと調整して、万全の状態で戦いに赴かねばならないのだから。

 故に水を吸い、肉体の駆動を阻害する着物を連れて起き上がろうとする。

 その時だった。


「カァー!!!」

「なんだ、こんな時間に語り烏か?」

「なんだ、それ……?」


 深緑の屋根を抜け、鳴き声を引き連れて一つの影が二人の元へと向かって来る。

 影は距離を詰めるにつれ、一つの輪郭を形成。

 腐肉を啄む嘴、戦場をも踏破する大翼、地を這う獣の背を抉る爪。

 即ちそれ、漆黒の翼を広げた渡り烏なり。


「語り烏。なんだ、知らねぇのか。

 通信総合商社が躾けた、遠方への連絡用動物だ」

「なるほど、お前の知り合いか……」


 自分当てではないと腰を下すものの、羽ばたく烏はミコガミから軌道を変えて佐刀へと向かう。


「カァー! 佐刀鞘、オズ組ガ攻メテ来タッ! 今スグスメラギ病院ニ戻レ!!!」

「オズ組が、攻めて来た……襲撃?! まだ一月経ってねぇぞッ?!!!」


 困惑は一瞬。

 続く言葉は、衝撃の色を帯びていた。

 帝都オズ組による襲撃は翌日だったはず。スメラギ自身もそう口にし、年表期を通じて視覚化もしていた。もしや、ここにきて時期を早めてきたのか?

 一月、という単位を聞き、ミコガミが溜息を一つ。


「なんだ、予定が変わったのか……せめて最終日くらい、なんか奢ってやろうと思ったんだがな」

「ヤケに冷静だな?! 悪いが、時間がズレたッ。礼は後でやってやるから、まずは向こうに行くッ!」

「そうだな、予定が変わったなら仕方ない」


 ミコガミは樹木の一つに括りつけてあった竹筒を掴むと、駆け出した佐刀へと投げ当てた。


「あだッ」

「そこの清流で掬った水に塩をまぶした。道中で飲んどけば、いい感じに体力が回復するはずだ」

「チッ……なんか欲しいものがあるなら持ってきてやるよ!」

「そいつはいいな。だったらアレだ、蛇を持ってきてくれ! 皮を裂いて焼けばうめぇんだよ!」

「ゲテモノ好きがッ。上等なの探してやるよ!」

「俺もいい感じに肥えた鼠を探して待っててやるから、死ぬなよ!」


 これより死合の場に向かわんとする弟子に、どこか呑気な声をかけ、師匠は後ろ姿を見送った。

 漆黒の羽織が闇に解け、やがてその背中を視認出来なくなる。

 するとミコガミは首を幾度か鳴らし、足元を探った。

 彼が生還した暁に行う祝勝会、その食材を調達するために。



 時間は多少遡る。

 夜闇が帝都を、新宿区を包み込み、僻地のスメラギ病院にも静寂が訪れる。

 休憩室に腰を下している初老の男性は、瞳に光を宿してはいない。諦観とも安堵ともつかない表情は、これから起こる出来事を理解しているかのように。

 年表期に刻まれている丸は、佐刀と始めて出会った日から一か月が経過したことを意味する。


「遂に、訪れたか……」


 スメラギの言葉に呼応するように、外から喧騒が訪れる。

 惨劇を告げる音、悲劇の幕開け。この日、未だ戦後の混乱から抜け出せていない帝都から、病院が一つ喪失する。


「出て来い、スメラギ呆け粕こらァッ!!!」


 怒声に合わせ、窓の砕ける音が響く。

 一つや二つではなく、病院の窓という窓を割り砕くことが目的だと言わんばかりに。

 重い腰を上げ、スメラギは断頭台へと足を進める。

 慣れ親しんだ廊下を歩めば一九年前、診療所だった時代が走馬灯のように思い出された。

 最初は患者一人に処置を行うだけでも一苦労だった。

 何せ技術はともかく物資がない。たとえ帝国一の名医が勢揃いしたとしても、包帯の一つもなければ消毒液すら浪費を避けねばならない状態とくれば、どうしても助けられない命は積み重なる。

 ましてや技術も帝国一には程遠い。

 足りないものは多数、やがて廊下には野戦病院さながらに患者だけが積み重なる。


『ここがスメラギ診療所か。まるで戦場だねぇ』


 廊下に浮かび上がる幻影が、一人の男を形作る。着流しを纏い、顔には天を穿つ竜の入れ墨を刻む男。

 往年の友。終生の恩人。リュウバ・オズ。


『患者は足りてるねぇ。じゃあ何が足りない?』

『……物資だ。包帯も消毒液も縫合糸も、清潔な水すらねぇ』

『そうかい。だったら俺らもアンタらのため、一肌脱ごうかねぇ』

『はぁ?』


 後に酒の席で聞いた話では、帝都オズ組所有の土地を不当に占拠している一団に相応の報いを受けさせるために足を運んだらしいリュウバは、あろうことか一団の責任者とも言えるスメラギに手を貸すと言ってのけたのだ。

 そして後日から届けられる物資の数々。

 出所を聞くことはない。聞けば、良心の呵責から治療を拒む者も現れるかもしれない。故にスメラギもその一団も、オズ組の人間も正体を詮索することなく供給を受け続けていた。

 これから、その思い出も灰塵に帰す。

 全てが灰に帰り、ただ帝都オズ組だった残骸の養分に吸収される。


「……!」


 一滴、二滴、三滴。

 知らず、床に涙が垂れる。次々と止め処なく、嗚咽を漏らして。

 やがて施設を外部と隔てる壁の奥より、焔が網膜を焼きつく。夜闇を殺す熱気と光源がたった一人の生贄を要求して一層激しく炎上する。


「待ってたぜ、スメラギ粕呆け糞がッ。いいか、これが最期通帳だ。

 今すぐ病院潰すか、薬物の密売を認めろ。今なら四厘程度の利益なら提供してやるって話だぜ?」

「断る」


 口を開いたのは、幾度となく病院を訪れた柄の悪い構成員。背後にはこれまでと同様に、嘲笑を浮かべたワジマが付き従っている。

 更に後方には、帝都オズ組の構成員が三〇人は下らない。手には松明や可燃性の液体を詰めた瓶、ドスに至っては極道の嗜みとでも評するが如くに配備されている。

 尤も、スメラギの否定に男は更に口端を歪めたが。

 自身どころか病院内の全てを蹂躙し尽くすに容易い戦力を前にして、なおも彼は主張を覆さない。

 その様が余程面白かったのか、嘲笑を浮かべた男が猫背を押して前に乗り出す。


「これだけの数の武力を前にしても信念を曲げない様は確かにカッケェよ。だけどさぁ、お前一人の自己満足のために他の医師や患者を巻き込むのはダッセェんじゃねぇの?」


 舐めた口を証明するように舌を突き出す。

 が、それでもスメラギは意を曲げない。


「医師? 患者? 冗談を言うな。

 医師は既に全員解雇済みだし、患者はお前らのせいで誰もいない。ここで死ぬのは私……」


 言い淀み、一つの訂正を加える。

 決して欠けてはならない男の存在を、付け加えるために。


「いや、私の肉体と奴の魂で二人だけだ」

「カッコつけ、いいねぇ……先代様と二人で一つってかぁ?」

「奴はお前達にとっても大事な存在なのではないのか?!」

「さぁね。俺が大恩持つのは今の組長だけだよッ!」


 ドスを構え、男が突貫。

 爬虫類の如く伸ばされた四肢が躍動し、スメラギに対して刃先を煌めかす。

 スメラギは動じない。

 今更碌な戦闘経験を積まなかった男に抵抗する意味はない。

 医師は解雇した。患者はいない。なればもう、残るは老いぼれの命一つ。

 強いて後悔を上げるとすれば、リョウバの支援の元に作り上げたスメラギ病院を残すことができなかった事程度か。それも地獄で再開できれば、奴に謝罪を示すだけの話。

 刃の切先がスメラギの胸元に触れる。

 後一刹那でスメラギの肉体を刃が刺突し、内から血を噴き出す。


「たぁぁぁッ!!!」

「ガァッ」


 結末を遮るように、横合いから足裏が男の顔を蹴り抜く。

 人一人の体重を乗せた一撃に肉体が吹き飛び、何度も地を転げ回り、跡地の一つに歯が転がる。

 男を蹴り飛ばして着地したそれは、純白の結婚礼装の端を風に浮かべて優美に足を隠す。赤髪が風に揺れ、普段は快活に開かれる目は敵意で研ぎ澄まされ、両手に握る二振りの大剣は鳥の翼を彷彿とさせた。

 舞い降りたそれは貴族の一角、セーデキム家の次女。


「フタバ様……!」

「弱い者虐めしといて、格好よさを主張しないでよ……!」

「テ……メェ……!」

「ハハハ、珍しく真面目に働いたと思ったらこれかよ。ざまぁねぇな!」


 嘲笑を怒りに変え、指揮を担う男が顔を向けて嘲笑う。


「丁度いい。あの糞餓鬼もどうせ滅殺対象だからなぁ、病院諸共にぶっ殺せぇ!」


 男の言葉に呼応し、背後に控えた構成員が堰を切る。

 三〇もの人々が一斉に動けば、地響きで大地が揺れ動く。揺らぐ視界の中でスメラギはたった一人の友軍の背を見つめた。

 本来続くべき少年が欠けているが、事ここに至って意識している暇はない。


「スメラギさんはどっかに隠れていてッ!」

「どっかとは雑な指示だ……!」

「私はそういうの、得意じゃないの!」


 低く身を屈め、フタバは地を跳躍。

 二振りの大剣が風を切り、空気抵抗を斬り落とす。

 狙うは眼前に迫る男。たかだか小娘一人に負ける訳がないという油断が、無策に突撃する様からも見て取れる。

 生と死が交差する場に浸ればまずあり得ない油断。一方的な虐殺しか知らぬが故の、敗北を思慮の外に置く思考。

 故にこそ、フタバが遠心力と反動を利用して身を捻った時にも、思考が追いついていない。


「たぁッ!」

「な──にぃ……!」


 咄嗟に大剣と肉体の間にドスを挟むも、得物の質量差が著しい。

 一閃でドスが細切れに引き裂かれ、続く一閃で胴体が宙を飛ぶ。意志に反して動く視界が理解を超越し、胴体から流れる血の濁流に男の意識が掻き消される。

 血を振り撒き、軸足を回すフタバは空いた足で更に地面を蹴り上げ、新たな標的へ照準を合わせた。

 身体を駒のように回転させ、遠心力を以って二振りの大剣を振るう。見た目だけではなく、戦闘面でも恵まれた猫のようにしなる体躯のフタバだからこそ可能な力技。

 始動に用いる膂力さえあらば、後は勢いを殺さぬだけで外に引っ張っていく大剣が勝手に加速へ尽力する。


「らぁッ!」


 短いかけ声を漏らし、洋式の正装を着込んだ構成員に深い切り傷を刻み込む。

 形無しであるが故に予測も叶わず、我流であるがこそ適解も不明。

 縦横無尽に戦場を駆け回るフタバは、さながら暴風雨。

 姿を捉えた一瞬後には刃の一閃が叩き込まれ、あるいは背中から襲い来るドスを大剣の腹で受け切る。並外れた膂力と大質量が出鱈目に運動する様は、敵対者にとっては悪夢そのもの。

 対処の叶う存在とは、即ち悪夢を喰らう魔人の類。


「キェェェェエェェェェイィッッッ!!!」

「ッ……!」


 戦場に鳴り響く獣の咆哮。

 絞め殺された鳥の断末魔がフタバに最大限の警戒心を抱かせ、第六感だけで身体を側面へ逸らす。


「ら、べ……ツシ、マ……!」

「あぁ、カンがいいなぁ……!」


 直後、フタバがいたはずの場所を敵諸共に両断。のみに留まらず、地面に極大の亀裂を植え付けた。

 振り向いた先には、濡れ烏の軍服を纏った大男。三編み笠で隠れた表情には、味方を両断したことなど塵程度も思考していない狂的な笑みが覗ける。

 帝都オズ組の用心棒。

 そして咆哮を直に叩きつけられたことで、フタバの予想が確信へと至る。


「その剣筋にあの猿叫えんきょう……やっぱり薬願桜花流やくがんおうかりゅう……!」

「随分と有名になったもんだなぁ、俺の剣術もぉ……!」

「大戦末期に徴兵した兵士の促進育成用に作られた流派。知らない訳がないよ」


 薬願桜花流。

 研鑽を積む時間も師事を仰ぐ時間も欠落し、可能な限り短期間で戦場へ送り込めるようにとだけ構築された剣術は、たった二つの技のみを是とした。

 指し示すもの、即ち猿叫と斬り下ろし。

 ただ叫び、ただ振り下ろす。

 朝には三千、夕には八千と木刀を斬り下ろさせ、戦場で敵を恐慌させる咆哮を繰り返させる。そうして生まれた急造兵から恐怖を斬り捨てるため、戦意高揚を名目に薬物を投与すれば、世界各国に狂気と共に呼び伝えられる帝国軍隊の完成。


「そうだよ、先生は大戦に参加した筋金入りだッ。その上、戦場では一〇〇人斬りを達成した大剣豪! たかだか小娘に歯向かう術はねぇッ!!!

 キェェェェェェェェエイィ!!!」


 再度刃を持ち上げ、烈派の気迫を以って隻腕で振り下ろされる。

 薬願の一振りを防いではならない。貴族の間で言い伝えられる言葉を思い出し、フタバは後方へ飛び退く。


「クッ、ウゥゥウッ!」


 咄嗟の判断故、大地を割る衝撃を大剣越しに浴びてしまう。

 全身を吹き抜ける剣圧に身体を痺れさせ、大剣の背でも受け切れない分が皮膚を切り裂く。

 右の大剣を地面へ突き立てると、滴る血が柄を通じて刃を伝う。

 漏れ出た血は腕のみにあらず。

 顔にも、服に覆われた部分にも、純白の衣服を鮮血の斑で染め上げる程に。フタバはその身を赤く彩っていた。


「これが、二の太刀要らずと謳われた剛剣……!」

「そしてよぉ、先生にばっかり関わる訳にはいかねぇよなぁ???」

「ハッ……!」


 男の指摘に振り返ってみれば、スメラギ病院には既に数人が取りついていた。その手には赤熱を発する松明を携えて。

 不味い。

 奴らの本懐を考えれば、現状況は最悪にも等しい。

 最悪を変えようとフタバは身を翻すが──


「キエエェェェェェエイィ!!!」


 直後に迫る断首の一振りに、大剣を手放して身体を汚泥で汚さざるを得ない。


「おぉいおい、剣士が剣から手を放しちゃ駄目だろぉ?

 ましてや戦場だと、斬って下さいの暗喩なんだぜぇ。それさぁ」

「あんたに構ってる暇は……!」

「ホラ、さっさと始めるぞ」


 構成員の一人が、手に持つ松明を外壁へと近づける。

 無駄な工程など必要ない。可燃物と酸素供給体、点火源の三つさえ揃えれば燃焼は引き起こされ、後は放置していても不当に占拠していた病院を焼き落とす。

 用心棒を前にしては、今更あの少女の介入も間に合わぬ。


「止めてッ!」


 背後から聞こえる悲鳴を意に介さず、燃え盛る炎が病院との間合いを詰める。

 熱せられた外壁が黒ずみ、後数秒もすれば火種となってしまうだろう状況下。


「邪魔だぁッ!」

「ガッ……!」


 背後から迫った飛び回し蹴りが頭部に炸裂し、男の肉体が宙を飛ぶ。

 手を離れて弧を描く松明は地面と衝突、燃え盛るべき種を失った結果としてその熱を散らした。

 男を蹴り飛ばして代理に立つのは、黒衣の羽織に紺の袴。腰には動きを阻害しない刃渡りの小太刀。何故か若干濡れているのはご愛敬といったところか。

 突然の来訪者に男は目を見開き、フタバは歓喜の声色を以って迎え入れた。


「さ……佐刀ッ!」


 佐刀鞘。御子派全刀流を携え、ここに見参。


「チッ、話が違うじゃねぇか。明日来るんじゃなかったのか」

「間に合ったんだッ! よかったぁ……!」

「何も良くない。お陰でミコガミに上等な蛇を渡す羽目になっちまった」


 フタバの声色に反応し、佐刀は顔を覆って地に俯く。


「つうか、突然過ぎて着替える暇もなかったぞ……濡れてるから別のにしたいんだよ」

「随分舐めたこと宣ってんなぁ、塵糞がぁッ!」


 眼前でドスを振るい、男が佐刀との距離を詰めた。

 彼には砂をかけられた挙句、顔面を殴打された恨みがある。

 頭から命じられたスメラギ病院放火の他、彼個人が固執していたのが佐刀への報復。殴打された分の痛みは数千倍にして返さねば気が済まない。


「死ねや、ゴラァッ!」


 男が迫る中、佐刀はミコガミから叩き込まれた戦闘技能を懐古していた。


『視界から外れる方法?

 そうだな、まずは緩急と上下を意識するんだ』

「相手が目を離さないよう、急速に距離を詰め……」


 佐刀も身を屈めて腰の刀へ手をやり、男に応じて駆け出す。

 両者が高速で足を進めれば、彼我の距離は急速に縮まる。


「おらぁッ!」


 先手を打ったのは男。

 ドスを横薙ぎに振るい、間合いに入った佐刀の両断を図る。


『先に敵が振ってきたなら好都合』

「屈伸の要領で更に身を屈めれば……」

『ほら簡単、眼前の敵は姿を見失うってな』

「あ……?」


 刃が一筋の軌跡を描いた末、視界の内から佐刀の姿が喪失していた。

 右を向いても、左を向いても、彼の顔面に殴りかかった少年の姿はない。当然、ドスの白刃に血は付着していない。

 右でも左でもなければ、残る選択肢は下。

 そこに気づくまではよかったものの、些か遅い。


『屈んだ後は跳躍して相手の横を通り抜ける』

「その中で撫でるように首を斬ればッ」

「あ……?」


 視線を向けた直後、佐刀が跳躍する。

 通り抜けた後、男の首元から血が噴き出す。


「外したか……!」

「あ、ぱ……!」


 佐刀で斬りつけた部位から、縦笛のような奇妙な音が鳴る。

 ドスを手放して首元を押し付けるも、噴出する血も滑稽な音を鳴らす首も収まらない。やがて身体を循環する血液が枯渇し、男が地面に倒れ伏す。


「ぁ、か……け……」


 伸ばされた右腕は、果たして何を求めていたのか。

 腕が力なく倒れたのを最期に、男の目から生気が失われた。


「実戦だと話が変わるな、本当にッ!」

「来るぞ! 構えろッ」


 地に足をつけ、土踏まずより先のみを頼りに佐刀は駆け出す。

 自らに迫る来訪者を見、構成員も身構えるが意味などない。

 一人は振り下した刃を、右足を軸に回転することで回避され、勢いのままに薙がれる一閃で腹部に深々とした太刀筋を刻まれ。

 一人は突き出したドスを斬り払われ、素早く逆手持ちに切り替えられたかち上げによって心臓部から上を切り開かれる。

 残る一人は対処を論じる前に、首筋へ押し当てられた切先で絶命した。


「なるほど、確かに柄を腕につけると振り易いな」


 腕に密接した柄が、さながら刃と一体化したように切先を固定する。刃先が乱れてしまえば、得物の質とは別に支障が現れる。

 現に、逆手で切り上げた構成員は左目を潰されながらも苦悶に呻くだけの余力を持ち合わせていた。尤も、あの様子では事実上の戦闘不能であろうが。


「後は骨を避けて剣を振るえ、だったな」


 屍となった男を蹴り、反動で刃を引き抜く。

 顔に付着した血が煩わしい。着物の裾で拭い、溜息を一つ。

 瞬く間に三人を殺し、一人から視力を奪い去った形となるが、なんとも実感が湧かない。人体を抉る感触に不快感もなければ、足元に転がる死体に何の感情も湧き上がらない。

 かといって一か月ぶりに人を斬ったことによる、湧き上がる高揚もどこか薄い。

 冷静にミコガミの言葉を反芻する余裕すら持ち備えているのは、冷静なのか冷淡なのか。それとも存外、極限状態に陥った人間は誰もがこの程度のものか。


「……なんでもいいか」


 しゃがみ、佐刀は背後から迫った殺意の視界から外れる。

 後に続くドスが空を斬り、振るった男の顔を彩るは困惑の色。

 地を這うように身体を回し、脛を小太刀で撫でる。


「ギャッ……!」


 後は、体勢を崩した所で落下地点に刃を立てるだけで、相手の方から勝手に死にに来る。

 そう思考し──


「キイィエエェェェェェエエエエエェエイィ!!!」

「ッ……!」


 天と地を分かつ烈波の殺意。

 命を漏れなく引き裂く獣の咆哮に、咄嗟に両手を地面へ押し付けて反動で飛び退く。

 直後に、死の一閃が大地を穿つ。

 静寂すら錯覚する死が、佐刀が一瞬前までいた空間ごと味方を両断。骨だなんだといった理屈すら通用しない、背筋が凍る程に綺麗な縦一閃が実現された。


「大将首取られちまったなぁ。だったら次は取り返さねぇとなぁ!」

「用心棒か……」


 地を滑り距離を取ると、佐刀と用心棒が正対する。


「ごめん、そっちに行かれたッ。私もそっちに……!」

「大丈夫だ、フタバ。それよりも残りをなんとかしてくれ」

「……やれるの?」


 フタバの疑問も至極当然。

 何せ佐刀は記憶を失い、剣術を改めて習ったのも一月前。その上、最終日の予定が早まったことで最終調整にも不安が残る。

 実際には記憶の喪失以前に剣技を習ったことなどないのだが、どちらにせよ大差はない。

 彼が素人そのものの技量から一月でなんとか戦力として間に合わせたという事実は同じ。

 ならば、佐刀が答えるべき回答はたった一つ。


「大丈夫だ」


 真っすぐに、正面からフタバを見据え、佐刀は宣言する。


「……分かった、もしも嘘だったら許さないからね」


 向けられた言葉を信じ、フタバは周囲に蠢くオズ組へと足を走らせた。

 視線を変えれば、眼前に立つは三編み笠を被った大男。


「おいおいぃ、二人でかからなくて良かったのかぁ。どっちにしろ関係ねぇけどよぉ」

「知らねぇよ。男なら、ここはカッコつける場面だろ。そっちの方が俺には大事だ」


 小太刀で用心棒を指し示し、刃先を数度持ち上げる。

 意味するものは挑発。

 やれるものならやってみろ。返り討ちにしてやる。

 言外に込めた意味を感じ取り、三編み笠の奥で歯を剥き出しにして歓喜を発露。同時に、周囲を取り巻く空気が変わる。


「帝都オズ組ぃ。薬願桜花流は一〇〇人斬り、ツシマ・シマズ」

「無所属。御子派全刀流初手許し、佐刀鞘」


 薬に狂った男の名乗りではなく、一人の流派を背負った剣士が名乗る。

 対する佐刀もまた一月のみなれど、この世界のあり方に倣い名乗りに応じる。

 剣士二人が名乗りを上げれば、後に残るは血風羅刹。血に濡れた闘争に他ならない。

 ツシマが右肩に野太刀を乗せて蜻蛉の構えを見せれば、佐刀は半身の姿勢で小太刀を腰に隠して陰剣の構え。

 じわり。

 石を穿つ水滴の如く緩慢に、摺り足で彼我の距離を詰める。

 そして距離が一定にまで迫った時、ツシマの表情が変わった。


「キエェエェェェェェェェイィ!!!」

「ビビらせんじゃねぇよッ。テメェッ!」

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