修行する佐刀

 帝都、新宿区。スメラギ病院。

 患者の足が途絶えて久しい病院にも、平等に朝日が訪れて日輪の加護が降り注ぐ。

 休憩室に腰を下し、頭を揺らしているスメラギの意識を夢の世界へと旅立たせていた。

 普段は袖を通している白衣をかけ布団代わりにしているのは、調子が狂いつつある空調設備が必要以上に冷気を排出するが故。

 既に製造会社へ修理を依頼するだけの予算も使い果たした。給金を払えないからと雇っていた看護師も大部分に暇を出している。残っているのは無給金にも関わらずスメラギに協力してくれた、診療所時代からの仲間だけだ。

 医療器具を揃える予算も、この調子であらば三か月と続かない。

 血清にしても薬剤にしても注射器にしても、使用しないからといって永遠に保存していい訳ではないのだから。定期的に新鮮な備品へ取り替えなければ、最悪腐り落ちてばい菌の繁殖したものを使用することとなる。

 市井に蔓延している薬物のように使い回しなど以っての外。

 患者が訪れないのは医師として好ましい状況だが、極道の手で追い払われているのであらば意味はない。


「……」


 頭を抱える問題は山積み。それでも寝息を立てられるのは、ひとえにそれだけの疲労が蓄積しているから。

 かけ時計に設定した時刻は、通り過ぎている。鳩が飛び出したのは既に一時間は過去の話。他の医師や看護師がスメラギを呼ばずにいるのは、彼が病院維持のために東奔西走の毎日を送っていると知っているからこそ。


「スメラギせんせー、おはようございまーすッ!」

「ん……この声、は」


 スメラギの夢を遮ったのは、出入口から響く聞き慣れた声色。

 寝惚け眼を擦り、スメラギは重い腰を上げてかけていた白衣に袖を通す。それだけの単純な行為で、一個人から一つの病院を預かる医師へと意識を切り替えた。

 とはいえ、彼にしても何故聞き慣れた声色の持ち主が足を運んだのか、理由が分からない。

 休憩室を後にし、受付へと足を進めれば声の主が赤毛を揺らして向き直った。


「あ、スメラギせんせー! おはようございます!」

「フタバ様か。何か御用かな?」


 動きに合わせて端を広げる純白の結婚礼装に少女の荷物として不釣り合いな二振りの大剣。元気な声色に相応しい花のような笑顔は、痛々しい右頬の傷への意識を少なからず逸らさせる。

 フタバ・タ・セーデキム。

 セーデキム家次女にして、数日前に帝都オズ組との揉め事に介入してしまった少女。


「御用はないから、先生を手伝いにきたよ!」

「……」

「ん、何々。嬉しいあまりに顔が見せられない感じになっちゃった?」


 希望的観測というべきか、それとも過剰な自信家と述べるべきか。

 どちらにせよ、フタバの気持ちに二心が存在しないと理解できるからこそ、スメラギは嘆息を悟らせないように顔を覆った。


「医師の仕事には免許が欠かせないんですよ、フタバ様」

「分かってる。だから備品を運ぶー、とか用心棒ー、とかそういうお手伝いができたらなって思って」

「……オズ組は来月来るって言ったはずだけど」

「それはこれまでの話であって、次も同じとは限らないでしょ。もう待ってられないー面倒だーすぐに焼き討ちしちゃえー、ってなるかもしれないしさ」

「……それは、そうだが」


 フタバの指摘も一理ある。

 既にオズ組は、用心棒にスメラギの四肢を斬り落とすように命令している。ここから更に凶行が加速しないというのは楽観視と評するに相応しい。

 故にこそ、初老の医師は頭を悩ませた。

 頭を捻って回して、そうして漸く彼女へ向けた言葉を探し当てた。


「そういえば、用心棒を買って出ていた彼はどうしたんだい? 治療費免除を条件にしていたのは彼だろう」


 佐刀鞘。

 日本帝国では滅多に用いられることのない、漢字のみで構成された名前の持ち主。最初に名前を見た時には、大陸の出だと錯覚していた彼の姿がどこにも見当たらなかった。

 最初は首級を求めて外で待機しているのかと思案したが、窓越しに外の光景を覗いてみても成果は上がらない。

 問いかけてみれば、フタバは快活に笑って返答した。


「アハハハ……佐刀はねぇ、修行に出たよ」

「修行?」



 帝都鉄線道路組合、通称帝都鉄道。

 彼らが運営する路面電車は、住民の足の座を賭けて鎬を削っている人力車の隙間を掻い潜り、忙しなく帝都中を動き回る。

 新宿区や渋谷区、中央区などの主要都市は勿論のこと、都市の活気からは大きく離れた青海区にも本数が僅かばかり減少する程度で線路が築かれていた。

 一定の調子で単調な音を鳴らし、電車内に座する人々へ微小の振動を届ける。


「どこに向かってんだ、この電車は?」

「山だ」


 弟子としてある種当然の疑問を抱いた佐刀の質問に、師匠を請け負うに至ったミコガミの返答は単純至極。


「本当ならまず、帝都中の道場に片っ端から挑んでずたぼろになって、それから本格的な修行に入ろうと思ってたんだが。一月となるとそんな余裕もない」

「なんだそれ」

「木刀ってのが癪だが、始めから山籠りよりもいったん実戦に似たものを体験した方がいいんだよ。相手を見てこそ気づけるものもあるしな」


 路面電車の一駅当たりの間隔は決して遠くはない。

 やがて甲高い音を立てて電車が止まり、内に座っていた人々へ慣性が訪れる。

 ミコガミの後について電車を降りれば、広がる光景は一面の緑模様。舗装された斜面のすぐ傍に野生を維持した森林が並び立ち、振り返れば四角い箱が頭上に張り巡らされた電線を伝って別の線路へと移動していく。

 斜面と平面の間に設置された看板に書かれた文字は、御岳山おんたけさん


「ここから電車はねぇからな。徒歩で行くぞ」

「了解」


 呆れた声色で師匠の言葉に従い、佐刀は後に続く。

 舗装されているからか、山を歩くという言葉の印象から受けるものよりも労苦は遥かに少ない。


「そういや、その服って予備はあるのか?」

「いや、他の服は持ってねぇな」

「そうか、だったら最初は着替えだな」


 道を進めれば、いずれ舗装された道では奥に向かうことが不可能となる。無闇に奥深くへ向かえば、山岳救助隊が出張る必要性が生まれ、管理人にとっても面倒なことに成りかねないのだ。

 故に一定の距離につけば、以降は奥地に向かわぬよう看板なり金網なりが設置されている。

 だが視界に映らないとでも言わんばかりに、ミコガミは舗装された道を抜けた。そして師匠に倣い、佐刀も続く。


「突っ込まないんだな」

「突っ込まないでしょ」

「ハッ、面倒がなくて助かるな」


 山の奥へ進むにつれ、不整地は急速に牙を剥く。

 荒れた道肌、突出した末枝、生い茂る草木。

 舗装された道にはあり得ない条件の数々が、佐刀の体力を着実に簒奪する。加えて夏の熱気と天井の深緑が捉え損ねた陽光が肌を刺突した。

 額から湧き出る汗を拭うも、後から後から汗が湧き続ける。


「もしかして、山道を歩いて体力つけよう。みたいなのだったりします?」

「いいや、この程度は修行の内に入らんよ」


 ミコガミの言葉を裏付けるように、一時間近く歩き続けてもなお目的地には辿り着かない。

 耳を澄ますと付近に川があるのか、水の流れる音が微かに聞こえる。

 音は徐々に近づき、ミコガミ自身の目的地が川の付近にあるのだろうと思わせる。


「いよぉし、到着だ」

「なんだ、水でも飲むのか」


 清流の水ならば濾過などの煩わしい手間もなく直接飲むことができる。

 元の世界で得ていた知識だが、魚の泳ぐ様が覗いて見れる清らかさは飲料としての条件を満たしているように感じた。

 目的地への中間地点なのか、いくつかある休憩点の一つなのかは不明だが丁度いい。

 佐刀が腰を下そうとした時だった。


「よし、まずは着替えろ」

「は?」

「安心しろ、着替えならここにある」


 ミコガミは持ち歩いていた鞄を開き、中身を漁る。

 取り出したものは、黒塗りの着物であった。


「野郎同士でも恥ずかしいってんなら、少し離れててやるからひとまず着替えろ」

「ここで何かやるのか?」


 佐刀の問いかけに、首肯で応じられればもう従う他にない。

 師匠の手にあった着物を受け取り、学生服から着替えていく。

 着物というものは着慣れない。佐刀の実家は名家でもなければ、茶道や書道のような家でもない。故に日本の伝統的な服装など身体に沁みついていないのだ。

 黒衣の羽織に紺の袴。

 ミコガミが指定したのか、着慣れないはずの様式でありながらも動き辛さは皆無であった。五〇メートル走程度ならば引っかけることもなく完走できるのでは、そう思考する程に。


「着替えましたよー。次はどうするんで──」


 着替え終わり師匠の方へ振り向いた佐刀だが、途中で言葉が遮られた。

 突然降り注いだ多量の清流によって。

 全身を飲み込む水が佐刀を包み込み、足元にまで水気を滴らせる。

 水も滴るいい男というのは比喩表現の一種であり、何も本当に水浸しにする必要性はどこにもない。だというのに、眼前で桶を片手に持った男は澄ました顔で水を引っかけた少年を見つめていた。


「よし、濡れたな」

「よし、じゃねぇよ!」


 突然の嫌がらせに当然の抗議を行う。

 着物は修行着の類だと予想していた。

 どのような修行なのかは不明だが、少なくとも発汗が凄まじいことになることだけは確実視できた。故に私服から着替えるのだろうとも。

 だが実際はどうだ。

 あろうことか、ミコガミ・テンゲンは唐突に水を浴びせてきたではないか。夏とはいえど、風邪を引いてはどうするつもりか。


「いったい何のつもりだ、これは?!」

「修行の一環、もとい下準備だな」

「下準備ぃ? 着替えた服をいきなり濡らすことがかッ?」

「そうだよ、だから私服の方は脱がせただろ」

「そういう問題かッ?」

「そういう問題だ。次に修行中はこれをずっと装着していてもらう」

「あ? 次は濡れたマスクだぁ?」


 ミコガミが次に差し出したのは、おそらくは川で濡らしたばかりの不識布製家庭用口部覆面マスク

 意図が読めない、最初は精神面から始まるのか。


「なんだこれ、精神を鍛えようってアレなのか?!」

「あぁ、そういうことか……俺も師匠なんて初体験だから細かい手順分かんねぇんだよな」


 佐刀の訴えの本質を理解したのか、ミコガミは面倒そうに頭を掻く。


「そうだよな、修行の意図が分からんと不安だよな……

 これはな、一月で鍛えろって無茶ぶりに対する答えだ」

「答えだ?」

「そう。動き辛い服装に呼吸も難しい状況、それに慣れれば普段の一挙手一投足にも変化が生まれる……全身に重りをつけて、実戦の時に外すのと理屈は同じだな」

「……なるほど、そういうことか」

「それに風邪でも引けば、重しはより一層重量を増すしな」


 風邪を引くことも前提か。

 鋭利な眼差しをミコガミへ注ぐも、彼にとってはどこ吹く風。渋い顔色で口部覆面を受け取ると、不愉快な感触に顰めながら口を覆う。

 ミコガミの主張を証明するように、肺へ送られる空気に湿ったものが混じる。


「それじゃあ、次だ」


 下準備が終わったためか、ミコガミは全身を濡らした佐刀を連れて移動を再開。

 濡れた着物の感触は、控え目にいって最悪だった。

 水気を充分に吸着し、重量が増した着物は一歩歩くだけでも体力の消費を増加させる。その上呼吸も不全となれば、失った体力の確保性も低下。

 佐刀としては、真夏の気温が付着した水気を可及的速やかに乾燥させることへ期待する他にない。


「そうだな、ここらでいいか」


 ある程度歩き、周囲に樹木が生え揃った場所でミコガミは足を止めた。

 佐刀もそれに続き、辺りを見渡す。

 四方八方を樹木に覆われ、足元には獣も立ち寄らぬ証明として草木が生え揃っている。雑草の中には腰の高さにまで達しているものもあり、移動の不便さだけは留まることを知らない。

 一体ここで何をする気なのか。まさか木々を一つ残らず斬り落とせと言うのではなかろうか。

 佐刀が次の指示を待つと、ミコガミが口を開いた。


「それじゃあ。御子派全刀流、初の修行を始めるか。

 といっても、やることは単純。お前はひたすらに落ちてくる木の葉を斬り落としていけ。途中で俺が小石をぶつけるからそっちは避けろ。

 単純だろ」

「なるほど、了解」

「あぁ、それとお前は刀もないんだったな。まずはこれを使え」


 手渡された小太刀は二尺少々と刃渡りが短く、小回りは効きそうである。樹木が生え渡る環境では好都合な間合いか。

 鞘にしても柄にしても黒を基調とした色合いは、所持者であるミコガミの趣味であろう。


「そら、やってみろ。なんかあれば言え、そしたら助言の一つでもくれてやるよ」

「へいへい、分かりましたよ……っと」


 一陣の風が吹き抜け、肩にまで迫った木の葉を両断。

 二つに分かれた木の葉が地面に落ちる頃には、佐刀も次の木の葉へと足を動かした。

 だが、綺麗に両断とはならない。

 腹で殴りつける形となり、緑をひしゃげさせる葉。

 斬り落とせず、歪に破れる葉。

 足を止めて迎撃に徹していては、落下量の半分も触れられない。だからといって、このまま不揃いな葉を量産してもミコガミの納得していない視線は不変。


「クソッ、全然斬れねぇぞ……!」

「どうしたどうした。半人前にも満たない奴が集中できなきゃ、もう何人前だよ」

「だぁッ。ちょっとタイム!」

「たいむ? 大陸の言葉か、まぁいいか」


 落ちる木の葉からミコガミへと視線を移し、佐刀は足を進める。


「あんな斬れ様じゃお前は納得できないだろ、なんかコツでもあるなら教えてくれ」

「独力じゃ駄目とすぐに助言を求めるか……いいぜ、何が知りたい」

「地下街でやった斬り方。アレを知りたい」


 雷の如き速度で距離を詰め、不安定な姿勢のままに敵を斬る。

 あの動作は佐刀よりもなお機敏で、太刀筋も素人同然の彼よりも遥かに上。

 だがその正体が天性の才覚ではなく、体系化された技術ならば佐刀にも同様のことが行るはず。そも、それを可能とするからこその流派であろう。


「あの時のか。アレは握りが大事なんだ。

 といっても握力がどうとか掴み方がどうじゃなく……あぁ、言葉にするよりも見せた方が早いか」


 言い、抜刀。

 片手で刀を握った右腕を佐刀へと向ける。


「まず右手は鍔の真下に当たるように。そして余った柄は腕に密着させて、固定させる。欲を言えば左腕で柄を肘の近くまで持っていければいいが、そこは臨機応変だな。

 こうすれば動いても刃が腕に固定されるから……」


 足元の葉が舞い散る。

 佐刀にも見えるよう、背後への足捌きと共に降り注ぐ葉へ一閃。


「後は素直に刃の部分で切り裂けば、木の葉なんざ簡単に斬り捨てられる」

「へぇ……なるほどなぁ」


 掲げられた刃の軌跡に添い、木の葉が二つに裂かれる。

 ミコガミがやってみせたように佐刀も小太刀を握ってみると、腕に硬い柄の感触が触れた。改めて意識すると、掌に伝わる漆塗りの柄糸の感触は手に馴染むというよりも滑らないことを意識した作りか。

 刀の造形に詳しくはない以上、適当に振るって手からすっぽ抜けさえしなければどうでもいい。


「ありがとうございますわ、師匠」

「ハッ、弟子の疑問に答えるのは師匠の勤めだからな」

「それはありがたい……」


 頭上の深緑が改めて木の葉を落とす。

 風に揺れ、不規則な軌道を描く葉は力任せに刃を振るった所で即座に軌道を変え、刃をすり抜けてしまう。故に必要なことは、空を斬る鋭い振り。

 無意識、もしくは木の葉の揺らめきを幾度となく目撃したが故の脳内映像が、最適な軌跡を脳裏に描く。

 後は、それを現実に投影。


「なぁ!」


 見様見真似の足捌きで動きを、先程習った柄の掴みで刃の軌跡を再現すれば、当然の帰結として木の葉は両断される。


「よし、その調子だぞ。一回やれたなら、後は反復運動ってのだ。身体に沁み込ませろ」



 月日は巡り幾星霜。

 佐刀がミコガミに剣を習い、フタバがスメラギ病院の手伝い兼護衛をする間にも時間は経過する。そして一月後に向けて、準備を進めたのは何も彼らだけではない。

 善良ならざる者も、悪徳を以って財を成す者も時間を有効に扱う。

 多くの大衆にとって、無ですらない損失になろうとも構わずに。


「ハハハ、随分頭かしらも気前がいいもんだ。まさか三〇人も回してくれるとはな」

「用心棒がダサくて使い物にならねぇ、って言えば簡単に揃えてくれたもんだ」

「なぁ、もう斬ってもいいんだろぉ……我慢できねぇんだわ、もう」

「あぁ、ありったけ斬っていいぜ。もうスメラギ病院は取り壊しだってさ」

「おいおい、また途中で薬切れなんてダサいオチは勘弁してくれよ?」


 悪意は蠢く。

 善意を踏み躙り、私的な財を成すために。

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