師匠M/それは地下の闇に

 帝都オズ組がスメラギ病院を襲撃した翌日。

 太陽が照り輝く炎天下の中、舗装された石伝いに熱量を提供する。道行く人々は熱暴走を起こさぬように汗を掻き、地面へと滴らせた。

 この日、佐刀とフタバは帝都の道を歩んでいた。

 とはいえ、何も観光に訪れたわけではない。故にこれまで幾度なく客引きに足を止められ、それと同じ数を追い払ってきた。


「あっつい……ねぇ、炭酸飲も炭酸!」

「そっちが金を出すなら、どうでもいいですよ。てか、場所さえ教えてくれれば一人で行けるってのに」


 照り返る熱に不満をぶちまけるも、それで気温が下がる道理もなし。

 本日の用事は佐刀個人の問題であり、フタバはあくまで道案内に過ぎない。スメラギから特例として外出許可を取ったとはいえ、わざわざそこまでせずとも彼女は行先だけ教えるなり地図を描くなりして一人で観光に赴いてくれてもよかったのだ。


「いやぁ、気分はいいけどさ」

「?」


 横を向き、訴えるフタバの顔を見る。

 可愛い少女と共に街を歩く。それはともすれば、本来の目的を忘れてしまう程の誘惑である。今も、何を指して気分がいいのか理解しておらず、佐刀へ回答を求めている表情が堪らない。もしも携帯端末があれば即座に撮影機能を起動させ、写真に収めている所だった。

 ただ、一番いいのはやはり始めて目撃した時の、腹部から血を流してなおも戦意を滾らせた姿であるが。


「そっちだって、スメラギ先生に言ってたでしょ。困った時はお互い様ってさ」

「……! な、なるほどね……」


 満開の花を咲かせる少女に、少年は咄嗟に顔を逸らして頬を掻く。

 若干顔が赤く染まっている気がした。そしてこれは勘違いでもなければ、外界の気温が原因でもない。

 そうしていると、フタバの足が止まり、連動して佐刀も倣う。


「さ、到着したよ。帝都地下街」

「へー、ここがねぇ……ありがとう」

「いいってものよ、えっへん」


 両手を腰に当て、自慢気な顔をするフタバ。実に可愛らしい。

 改めて視線を地下街──厳密にはその入口へと向ける。

 通行の妨げとならないよう道の端に設置された入口の横には、看板に一筆で『帝都地下街』と描かれていた。佐刀に知識はないが、少なくとも雨水に濡れた程度で駄目になる材質でないことだけは、取りつけられた木材の腐食具合から予想できる。

 外観を見学するために訪れたわけではない。佐刀は足を進め、フタバも続く。


「で、ここにはいるんですよね。暇を持て余した師匠役が」

「うん。学校で剣術を習うだけじゃ駄目だって、誰かに師事することなんてしょっちゅうだし。学校側もそれや家庭直伝の剣術の妨げにならないよう、最低限の剣技や身体捌きだけ教えるってのが基本だし」

「なるほどねぇ」


 地下へと続く階段の往来は少なく、今は人二人だけである。

 地上へ吹き抜ける風、そして太陽光が遮断されたことで肌に張りつかんばかりの汗も既に引いている。頭上から照り注ぐ光は、人工的に精製された水銀灯の輝きに他ならない。


「てか、なんで地下街なのさ。地上にもあるんじゃないの、いやどこに屯してるんだかも分からないけど」

「地上は幕府の許可を取った剣術道場が乱立してるからねー。しかもそういう所は大体、基礎からみっちり教えるから一月なんて期限じゃ何も教えてくれないよ」


 ただでさえ道場は技術の漏洩に厳格だからねー、と末に続く。

 一縷の隙なくご尤もである。

 技として確立したものを抱えている以上、仮に全ての動きを理解されては勝算は限りなく低下する。

 何せどのような動きが何に繋がり、どこへ辿り着くかが克明なのだ。そうなれば後はただの後出しじゃんけん。移動先に刀を置けば勝手に切り裂かれるし、振り下ろされる刃の途中に刀を挟めば未来予知染みた防御が可能となる。

 体幹や足捌き、あるいは視線でさえも同じこと。

 既知は戦いに対して絶大な特典となる。故に彼らは無闇矢鱈と技を見せるのを忌避し、門下生かつ技を担うに当たると判断した持ち主にのみ直伝する。

 江戸時代に於ける御留流の考えであろう。


「で、地下にいる人々の出番か」

「そういうこと」


 最後の一歩を踏み、永遠にも思えた階段が終焉を迎えると、二人の足が止まる。

 地上からでは予想のつくはずもない、途方もなく広大な面積。

 地上から一〇尺近く下った天井は見上げるほどに高く、降り注ぐ水銀灯の輝きは人工的な太陽の再現か。勝手な話であるが熱の伝播が発生しない分、地下に住まう人々にとっては太陽よりも利便性が上。

 通気性がどうなっているのかは不明だが、空調の不備を感じられない程度には心地よい。

 そして一〇尺はある巨躯を以って人々を睥睨するのは、高層建築の数々。

 爛々と煌めく色鮮やかな蛍光冷極ネオンの輝きは、佐刀には夜の繁華街に色彩を加える下品な輝きを蜂起させた。もしも特別な用事がなければ、自主的に足を運びたいとは思えぬ程度には。


「本当にここにいるのか。野良師匠……」


 一目して佐刀の視界に入り込んだ人々は、昼間にも関わらず悪酔いを極めて千鳥足の男共。そして羞恥の概念を地上に置いてきたのかと不安になる煽情的な服に身を纏った女共。

 纏った、と呼んでいいのかは懐疑の念を抱くが。

 ともかく、全うな剣豪が近寄る場所とは思い難い。


「正直私もあまり来たい場所じゃないけど……極道が纏めてる闇市に行くよりは安全でしょ」

「あぁ、納得……」


 オズ組の誰かに後ろ姿を目撃されてしまえば、夜道を歩くことすら不安になってしまう。

 二人は周囲の人々から目を背けつつ、地下街を歩む。

 第二次世界大戦終結から二〇年は経過したとフタバに教わっているが、どうも統治機構は未だ回復し切っていないらしい。警備隊の姿も──道の端々で胃の中身をぶちまけている制服組を除けば皆無。

 元より警備隊とは別に、地下街独自の統治組織が存在するらしいものの、にしても彼らの勤務態度は問題と言わざるを得ない。

 最初に二人が訪れたのは、大陸から輸入した蛍光冷極の色合いで『カラーイズマネー』と描かれた施設。

 この店を選んだ理由は、最初に暖簾を潜る泥酔した男がいなかったこと。

 次に店の周辺に吐瀉物がなかったこと。

 続けて周辺に意識を失った男が存在しなかったこと。

 結論を述べれば、蛍光冷極以外に繁華街を思わせる要素が存在しないことが理由である。


「それじゃあ、お邪魔しまーすっと」

「おっ邪魔しまーす」


 場違いとも言える呑気な声で暖簾を潜り。

 そして両者揃って赤面した顔で退店した。


「……俺は何も見なかった」

「私も見てない私も見てない私も見てない……」


 店内の様子を説明する必要はない。

 彼らの反応と幼気な少年少女には度を越した光景が繰り広げられていたとだけ、評すれば充分であろうか。

 悲しいかな。地下街は否応なく警備隊の目を意識せねばならない闇市とは異なり、身体と肉欲が主製品であるのだ。故に、警備隊の中でも地下街担当に回された者はご褒美と捉える者が多い。

 何せ治安は維持されているのだ、最低な方向性で。

 その上地下街独自の防衛機構があるとまで重なれば、後は任期を昼酒と女で埋めれば無事職務満了。

 尤もそれは警備隊の欲望であり、剣の師を求める二人にとっては大問題である。


「ゲロと酔っ払いだけじゃ、店内の中身は判断できないってか……」

「私は見てない私は見てない私は見てない……」


 目的意識の差か、赤髪と同様の色に顔を染め上げたフタバと比較し、佐刀には些かの余裕が伺えた。少なくとも、肩口の裂けた学生服の内側に入れていた布で鼻血を拭う程度には。


「どうすりゃあいいんだ……一かバチかで酔っ払いを師匠にしろってか?」

「私は見てない私は見てない私は見てない……」

「ちょっと純情過ぎません、フタバさん?」


 初心な反応を見せる少女を他所に、佐刀は鼻から噴き出した血の分も冷静に思考を回転させる。

 実際問題、師を求めて地下街まで足を運んだというのに、現状で成果を得るのは絶望視せざるを得ない。何せ、店内の捜索すらも勇気を持って行わねばならないのだ。

 かといって千鳥足の酔っ払いでは信頼に欠ける。


「いったい、どうすればいいんだよ」


 呟き、鼓膜に小さな虫の音が響く。

 意味するものは、食料の枯渇。空腹。

 自覚症状が現れた途端、まるで条件反射が如くに体力の低下を実感してしまう。左手で腹を抑えてみても、胃の訴えは激しさを増すばかり。

 佐刀の目線が周囲、そして足元へと注がれた。


「なんかねぇか、食い物は……?」


 往来で埋め尽くされた地下街で、原形を留めた料理が地面に転がっている訳もなし。しかして、佐刀に全うな支払い能力があるのなら問題はここまで複雑化しない。

 だが、幸運の女神は彼を見捨ててはいなかった。


「お……!」


 人の足を掻い潜り、逞しく地下を駆け抜ける小動物が一匹。

 下水周辺や河川など、水分と湿気が充分に摂取できる場を好む齧歯類。胴体と比較して少しだけ短い尻尾に、自らの名を関する色合いの体毛。

 全長七寸近い体躯の動物は、佐刀の目に煌めきを添付する。


「ドブネズミだ……!」


 知らず頬を吊り上げ、滴りそうになる涎を啜る。


「ちょっと厠行ってくるから待っててくれ、フタバ!」

「私は見て……え、なんて?」


 相手の反応を聞かず、佐刀は駆け出した。幸い、人波が激しいとはいえ、動きが抑制される程ではない。

 鼠側も迫る捕食者に気づいたのか、一八〇度方向転換して四肢を回転させた。

 体格差は圧倒的。小動物が数十は要求される歩幅をたった一歩で詰め、両者を隔てる距離は急速に近づく。多少の往来程度であらば、小回りよりも単純な速度が求められた。

 それでも距離の差を埋めるには足りぬと、溝鼠が路地裏へと逃げ込む。

 一部始終を人々の足で覆い隠せれば逃走成功も夢ではなかっただろうが、不幸にも捕食者の眼差しは鼠色の体躯を捉え続けている。


「逃がすかッ」


 路地裏に入った場面さえ目撃していれば、後は幾度もの経験則に則って隠れそうな場所を捜索するばかり。否、足を早めれば隠れる途中を目撃できるかもしれない。

 速度を一段階上げ、怪しい店と不埒な店の間の路地裏に走り込む。

 路地裏には無数のごみ袋や木箱、そして一人の男が屍のように建物を背にしていた。


「どこ行った……」


 目を血眼になって輝かせ、佐刀は獲物の居場所を捜索。

 ごみ袋。蠢く様子はなく、昇るにしては早すぎる。

 木箱。確かに昇降に支障はないだろうが、生気のようなものが感じられない。

 屍。服に潜り込んだなら不自然な凹凸が生まれているはずだし、肉体に穴が穿たれていない限りはあり得ない。


「……匂いはしねぇな」


 鼻を膨らませて匂ってみるも、腐食の心配はない。

 死後数日と経過していないのだろう。端から見れば、冗談みたいに静止していることだけが死体であると主張していた。

 昨日目撃した用心棒が着用していたのと同一の装飾が施された軍服を肩に羽織り、内に煤と穴で塗れた衣服を纏っている。肩掛の色は赤、帝国においては相応の高位に当たる階級を示す。顔を覆うように被せられた帽子には日本帝国の象徴たる太陽の輝きを模した紋章──旭日が刻まれていた。


「無精髭とは……剃ってる前に逝ったのか」


 髭も乱暴に剃られた状態であり、生え方も均一ではない。身嗜みを整える途中で死ぬなど、死に化粧にしても情けない。

 手元に剃刀でも落ちているのかと視線を落とせば、左手に蠢く何かが伺えた。

 胴体より多少短い程度の尻尾を振り、必死に肉体をくねらせて穴から抜け出そうと藻掻く生物。


「お、んな場所にいたのか。っと」


 佐刀が手を伸ばし、哀れな抵抗を見せる小動物を掴もうと迫る。

 が、不意に左腕が持ち上がった。


「んあぁ」

「な、死体が動いた……!」


 屍だと認識していた相手の肉体が駆動した。

 その事実は佐刀に夏とは思えぬ冷や汗を垂らさせ、開かれた大口と垂れた涎が後の結末への予想を遅らせる。

 即ち、獲物の横取り。


「ん!」

「俺のッ……!」


 比較的肉の詰まった腹部に噛みつかれ、割れた水風船の如く出血して溝鼠の四肢から力が抜け落ちる。

 下品に咀嚼音を垂れ流し、血の滴る鼠へ更に一齧り。屍は屍で余程腹が減っていたのか、左手にまで食いつかんばかりの勢いで動物としての原形は損なわれていく。

 その度に佐刀から漏れ出る声は、獲物を奪われた慚愧の念か。


「火が通ってねぇ。生は不味いんだよ……ったく」

「不味いんだったら俺に寄越せよ、おっさん」

「俺はまだ三九だ」

「ッ……」


 帽子の奥で、濁りを秘めた茶が音を立てて佐刀を睨む。

 一瞬、首筋に刃が通過したような感触が伝わり、息を飲む。首を絶たれたのかと錯覚する、鋭利な殺意が。


「待ってよ、佐刀ッ。急にどうしたの?」


 話を聞ける精神状態でなかった故か、佐刀の後を追ってフタバが駆け寄ってきた。

 その事実は更に佐刀を追い詰める。

 食べるために溝鼠を追跡し、眼前で倒れている浮浪者に横取りされたなど、何一つとして正常ではない。どこもかしこも言えたものではない。


「あ、あぁその……さっき言ったじゃねぇかッ、厠行くってさ!」

「路地裏じゃんここ……そ、そういうのは、良くないよ……」

「なんで顔を赤くするッ?」

「なんだなんだ、地下街に来てまで逢引かよッ。こいつは傑作だ、そこらの客引きよりよっぽど目を引くじゃねぇかッ!」


 カッカッカッ、と。

 わざとらしさを覚えるまでに屍は大笑を上げ、店の周囲を歩く人々の視線を釘付けにした。天に顔を向ける様は先程まで屍同然だった男の雰囲気は皆無。


「チッ。フタバ、行こうぜ。さっさと師匠探さねぇとだし」

「あ? 人捜しか? 何なら俺が手伝ってやるぞ」

「いいよ、屍同然のおっさんの施しなんざいらん」

「随分な物言いだな。これでも、ここには詳しいんだ。美味い酒と肴を出す店からいい寝床まで、何でも御座れだ」

「ハッ、だったら地下街一の剣士……いいや、帝都一の剣士でも呼んでみろよ」

「佐刀、それが人に頼む態度?」


 フタバに対して露悪的な笑みを返す佐刀。

 無茶ぶりという自覚はあるが、目の前で獲物を盗られた鬱憤晴らしを兼ねているのだ。嫌がらせなのだから無理難題を押し付けてこそ。

 当然、目の前のくたびれた男が要望に答えられる訳がないと確信している。食うに事欠いて不味いと自覚しながら鼠を食らう程、切羽詰まった男だ。そんな奴が相応の人材に宛てを持つなどあり得ない。

 だというのに、男は話を聞いた直後こそ目を開けていたが。


「クックックッ……」


 まずは喉を鳴らして。


「カッカッカッカッカッカァッ!!!」

「な、なんだ、壊れたか?」


 続いて火薬が破裂したような哄笑。

 まるで心底面白い冗談でも耳にしたかの如く。

 全身を震わせて、大気にすら振動を伝播させて。


「帝都一の剣士だぁッ。そんなの目の前にいるじゃあねぇかッ。

 !」

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