少年は何故異世界を訪れたのか
話は大きく巻き戻る。
即ちそれは、佐刀鞘が何故剣戟の世界に足を踏み入れたかの前日譚。更に遡れば、根本的に彼が現在存在する世界に至るまでの物語。
佐刀鞘は両親から祝福されながら生を受けた。
そこに異論を挟む余地はない。彼の身体に蓄積した傷は大小あれど、心無い一撃を両親から浴びたことがないのも根拠を色濃くする。
だが、全く気味悪がられていないかと問われればそれも怪しい。
「お前、何食ってんだ……?」
「おとうさん? 美味しいよ、これ」
口元から血を滴らせ、五つにも満たない佐刀は屈託なき笑顔で父親に右手を差し出す。
テレビでも、保育園でも度々言われていた『人にされて嬉しいことをしてあげましょう』という言葉を実践するために。そして佐刀にとって美味しいものをお裾分けするというのは、間違いなく善行に該当するだろうと認識していたのだから。
故に彼は笑顔で、腸をぶちまけたドブネズミを差し出した。
「そんなもの食うんじゃないッ」
咄嗟に声を荒げ、ドブネズミを払い除ける父親。
地面を滑る命だった残飯を勿体なさげに見つめる佐刀だが、言語化できず曖昧としながらも理解していた。
あぁ、ドブネズミを食べるのはいけないことなのだと。
ただ、普段母親が真心を込めて調理している料理よりもよっぽど口に合ったため、度々ドブネズミを口に運んでいた。両親を悲しませないように、彼らの目には映らない場所で。
もしも異常がそれ一つであらば、佐刀も大して意識することもなかっただろう。ゲテモノ食いなど世界を見渡せば、積もるほど存在する。そも実食している彼らにしてみれば、自らがゲテモノを口にしているという自覚すらも持ち得ない。
所が、その後も定期的に佐刀は世界とのズレを実感していく。
時には触覚の相違という形で。
時には感性の差という形で。
一般常識として持ち合わせているべきものと、佐刀鞘という人間が持ち合わせているものが決定的に異なる。
それこそ、ドブネズミを好んで口にする程度なら気にもならない程。
「普通の人はドブネズミを口にしない」
「当たり前のこととして、人は殴られると痛い」
「常識的に考えて流血した人間を可愛いと思うのは間違っている」
幸いというべきものは、佐刀の周囲には異常を指摘する善良な人間が多数揃っていたということ。そして彼らの感性は全うなのだから、模倣する上での参考にできたということ。
ズレていることを認識できれば、調整できる。人とは異なる感性を有していても白痴ではない。
溝に手を突っ込んで食べ物を探さないように。
あるいは、殴られた時に痛い振りをするように。
もしくは、自分の感性にきたものに対して抱いた感情とは異なる感想を話すように。
そんな生活を十数年も繰り返せば、最初期の異常行動も無知な子供が抱く好奇心から来る行動であったと周囲は認識する。
薄皮一枚剥けば、異常行動を喜々として繰り返せる感性を宿したままで。
「おはよう、佐刀さん」
「おっは」
誰かの、もしくは集合無意識の上澄みを掬っていく毎日は、多少の負荷を覚えつつも耐えられる程度であった。
少なくとも己の感性を全開にし、他者から廃絶されるのと比較すれば遥かに上等な生活とは確信できる。
学校に通う中で集団から外れた結果、廃絶もしくは
そんな人間の集団にあって、眼前でドブネズミを貪ってみろ。
彼らを遥かに凌駕する廃絶の末、ビルの屋上から飛び降りる未来は明白である。
「あぁ、帰りてぇ」
故に取り繕い、誤魔化す。
誰かに見せても成り立つ皮を構築して、本性の上から覆い被さる。
もしくはそんなことは常識で、誰もが日常的に行っているのかもしれない。だがその常識とやらが、佐刀には耐えられる程度のストレスとなって心身を苛む。
転機となったのは、一六歳の頃。
季節がどうであったかは記憶していない。少なくとも、鼓膜を震わすセミの鳴き声や大気を冷やす雪の結晶のような、四季を象徴する代物が現れていないことだけは認識している。
「ん?」
通学の途中、眼下に立つ異常。
二メートル近い巨躯が漆黒のトレンチコートに身を包み、右手には銃刀法違反のサバイバルナイフ。
歩道の真ん中を占拠し、歩いてきた佐刀を認めた眼光が怪しく輝く。獲物を見定めた捕食者の眼光を彷彿とさせ、事実として佐刀の直観は正鵠を得ている。
逃走しようと踵を返すも既に手遅れ。
白昼堂々真正面からの通り魔など異常なことこの上なし。意識の間隙を突かれ、気づけば数メートルは離れた距離を容易に詰められていた。
咄嗟に突き出されたナイフをほぼ反射だけ避け、転げ回るように歩道を走る。
周囲に通行人は多数いたが、突然の事態に対処できる者はそういない。反応を返せた者も多くは声を上げるのが精一杯で、止めに入るのは勿論として警察へ通報するよう電話をかけるまで意識を巡らせる者も絶無。
「え、あ……何これ」
知らない。知らない。知る訳ない。
不審者に襲われた時の対処など、一般生活の中で経験することも、目撃する機会すらない。
故に佐刀もどう行動すべきなのか分からず、ただ脇目も振らず走り出すのみ。
悲鳴は出ず、口にする程の危機感もなかった。
「イヤァッ!」
足を止めたのは、他方から噴出した悲鳴によって。
素早く振り返れば、最初の目標から早々に見切りをつけて足を止めた女性へ代替としてナイフを向けた異常。
ここで逃げるのが、正常なのか。
脳裏を掠めた疑問が、佐刀の足を鉛の如く縫い留める。
元より恐怖の類を抱いた訳ではないのだ。対処不可能な困難とも思い難い。ただ常識とやらに則った思案を行動に移しているに過ぎない。
別に逃げる必要はないのでは。
むしろ無関係の誰かを助けることこそ、常識ではないか。
思考と共に、縫い留められた足を不審者のいる方角へと駆け出す。
「……!」
足音に顔を向けた不審者が佐刀の姿を認め、背筋を凍らせる笑みを浮かべた。最初に目をかけた獲物が自主的に戻ってきたのだ、捕食者としては余程嬉しいのだろう。
だったら少し逃げただけで軽々しく獲物を切り替えるな。
「カスがッ!」
「が……!」
助走と振り抜かれた右拳。
握り締めた拳で殴りかかれば、不審者の身体が地面から離れる。
体勢を崩して頭をぶつけた相手が苦痛に顔を歪めた隙に馬乗りとなり、両拳を握り締めた。
生物の生殺与奪を握った時、人はどんな表情を浮かべるだろうか。
周囲の通行人は目撃できたかもしれないし、実際に顔を歪めた佐刀にも分からない。ただ頬がつり上がった感触だけは、嫌に鮮明な記憶として刻銘に残っている。
そして拳を振り下ろす。
何度も何度も、執拗に。
その度に骨の髄に振動が伝わり、皮膚が乖離する。ボクシングなどテレビの映像越しにしか目撃していない。当然適切な鍛錬など積んではいないのだから、どう拳を振るえば痛みを最小限にできるかなど知らない。
しかして、佐刀には殴り抜くことから来る痛苦は殆んどなかった。
「ッ、この……!」
反撃とばかりに深々と、腹部にサバイバルナイフが突き立てられる。
無駄な抵抗だと意識を傾けることなく、殴打を繰り返す。視界が霞むも、どうせ距離は皆無。どうせぼんやりとした光景でも殴れば当たるのだ。
やがて拳から内部に浸透する衝撃がなくなる。
実際に殴打した感触が失われるのは惜しいものの、別段必須事項かと問われれば首を横に振る程度。ないならないで割り切ろう。
「おい、も……止め……!」
「これ以上……と死ん……!」
鼓膜も正常な仕事を放棄。
過集中によって無用と判断した感覚を切り捨てたのだろう。しかし、代替として研ぎ澄まされる感覚が存在しない。
視覚も聴覚も触覚も、味覚や嗅覚すらも止め処なく加速度的に鈍化する。
これは不味い状態ではないかと脳裏を過った時には、既に遅かった。
「……アレ?」
最初に回帰した感触は、拳が地面を打ちつけたことを証明する堅牢な触覚。
体勢は変わらず馬乗り。しかして乗られていたはずの男は消え去り、周囲にいたはずの大衆もまた姿を消している。
代わりに生えているのは、見渡す限りの樹木の数々。
緑に包まれた世界の様相は、佐刀一人を残して文明が滅亡したかの如く。
「どこだ、ここ……?」
立ち上がり、ふと腹部に手を当てる。
滑った感触はなく、傷口を焼く激痛もまた存在しない。
夢を見ていたのか、それとも今広がっている光景こそが夢なのか。痛覚が正常な以上、佐刀自身に判別はつかない。
とはいえ、立ち尽くしていても仕方ない。
「ひとまず、歩くか」
足元を見下ろし、影の向きを確認。
正常な方向感覚も不明な以上、まずは一定の方角へひたすら進むのが吉であろう。その目安として、影が指し示す方角を利用することにした。
幸いにも本日の通学に利用していたのは、普段使いのスニーカー。慣れない靴で動き辛いという心配は無視できる。むしろ、深緑に阻まれて蓄積していた湿度による高温の方が脅威ともいえた。
故に、優先すべきは一刻も早い脱出。
「頼むから最深部ってのは勘弁してくれよ……」
嘆く佐刀の言葉は深緑に吸い込まれ、誰の耳目にも届かなかった。
鼓膜を揺さぶる剣戟の音。
最初は認識できるかどうかも怪しい音量だったが、徐々に激しさを増していく。
鋼が重なり、その度に世界が甲高さを享受する。一定の
敢えて歌の
度を越した高速度によって雑音に堕したと思えば、かの四分三三秒を彷彿とさせる静寂。規則正しい調子のぶつけ合いに、直後から掻き鳴らされる怒涛の連撃。
それが竹刀や木刀による模擬戦でないこと程度、剣に対して完全なる素人である佐刀にも理解できた。
「近づいてんな。なんでもいいから人に会うのは好都合だろ」
別に顔を合わせる必要はない。
二人以上で行われている戦闘を、草木に紛れて見学するだけでもいい。
話しかけるのは決着が着いた後、余韻を堪能し終えた相手に向けてでいい。そこから円滑な交流を築けばいいのだ。
幸いにも、道中で一振りの日本刀を拾っている。いざとなれば、剣士の真似事でもすれば逃走の目くらいは現れよう。
そう判断し、佐刀は危険領域に足を進めた。
そして、目を奪われる。
「ハァ……ハァ……ハァ……!」
それは片膝をついていた。
それは白無垢の結婚礼装を穢す異物を、腹部から赤を垂れ流していた。
それは額に多量の汗を流し、肩で息をしていた。
だがしかし、それが敵へ向けた視線は手に持つ二振りの刃よりもなお鋭利であった。
「……」
息を飲むのも忘れて、佐刀はただ呆然とそれを見ていた。
それと敵対する者など些事も些事、心の片隅にすら残さず綺麗なものへ心奪われる。
腹部から流れる血染めの花と同色の髪、頬に刻まれた傷。
果たして綺麗なものが有しているからそう見えるのか、それとも逆か。どちらか佐刀には判断できないし、判断するまでもない。
自身の感性が他者と隔絶しているのは、薄々と実感している。
だが、今だけは一般人と同じことを思考していると確信している。
即ち──
「何やってんだ、三下?」
好きになった女の子を守るのは、当たり前であろうと。
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