第一章──スメラギ病院編
ウェイクアップ・未知の都市
天井を覆っていた鬱蒼とした緑が薄まり、隙間から光だけではなく青も顔を覗かせ始める。樹木の生える感覚も徐々に広まり、深部から遠退いていることは明白である。
だが、なおも森は続いていた。
既にフタバが佐刀を抱えてから三〇分は経過している。
最初は肩を貸して共に歩いていたのだが、途中からフタバがまどろっこしく思い、佐刀を両腕で持ち抱え始めたのだ。
「俺、さっきまで悪漢から女の子を助けた男のはずだったんだけどなぁ……」
「文句を言わないッ」
フタバ自身も腹部に決して浅くない刀傷を受けているはずなのだが。鍛練の差か、もしくは血が吹き出てただけで見た目より深刻でもないのか、射られた一矢の如く駆ける姿に淀みはない。
結果、佐刀の視界は目まぐるしく様相を変える。
視界の端へ置き去りにした樹木が四桁を抜け、なおも積み重なる中。
「あ、そろそろ抜けるよ!」
眼前に立ち並ぶ障害の果て、木々の隙間から微かな光が顔を覗かせた。
漸く病院への一歩が成果を見せるとフタバが覗き込み、男一人を抱えて疾走している途中とは思い難い朗らかな笑みを浮かべる。
「あ……うん」
余所見をせず、前方を見ろ。
言葉にすればなんとも単純なものであるはずが、佐刀の口は殆んど無意識の反応を溢した。
一輪の花。
それも薔薇のような、ともすれば傷つく覚悟を要求する高嶺の花というよりも、野に咲くよくある雑多な花の一つを連想させた。
目を凝らして探索すれば、より見栄えよく咲き誇る大輪もあるかもしれない。注視すれば花弁の一枚二枚が欠け、どこか不揃いかもしれない。
しかし、しかし。
佐刀の心中には、不揃いな一輪の花が根を張った。根を張り、確かな存在感を発揮し始めた。
頬を僅かに上気させた佐刀の変化に気づかぬままフタバが顔を上げ、森を構成する最後の木を脇から抜ける。
「あ」
開けた先に広がっていた光景は、木造建築が立ち並ぶ雑貨街。
舗装された道を多数の人力車が闊歩し、車両用防護柵で仕切られた歩道を人波が往来する。建物に設置された多数の看板には日本語に酷似した、しかしてどこか違和感を覚える文字列が列挙。
とはいえ、文字の一つ一つは容易に理解できる。おそらくは文字の形状ではなく、視界に映る文字列としておかしさを覚えているのだろう。
道行く人々は精々肌の色に褐色が少ない程度で、それこそ佐刀が生まれ育った国と酷似している。
「よぉし、ここまで来れば後は見知った場所ッ。飛ばすから、舌噛まないでよ?」
「は?」
彼女の速度は現段階でも、競輪選手が漕ぐ自転車に相当している。確かに先が見えない森の中で全速力を出さないことは理に適っている。
それでも佐刀は考えてしまう。
ここから更に加速するの?と。
「行っくよー!」
瞬間、街並みが線に解けた。
全身に襲いかかる暴力的な肉体負荷。内臓がそのままフタバへ直撃してしまうのではと不安を覚える速度は、骨の軋む音を鼓膜にまで届かせもした。
「ッッッ……!」
「この調子なら、すぐにでも辿り着くから……耐えてよッ!」
「あ、ん……!」
声を出そうとするも、意味のある単語を紡げない。
フタバの足を通じて伝わる衝撃は、常ならざる足元──彼には理解できないが、人力車の屋根を足場としている証。傷に響きはするが、血が飛び出す程度で苦痛には程遠い。
彼女の宣言通り、人力車を飛び移る移動によって五分近い時間で二人は一つの病院へと駆け込んだ。
立ち並ぶ建物に囲われ、日の光を奪われたくすんだ白色。掲げられた赤十字は、紛争地帯ですら犯すことの許されぬ絶対聖域の証明。
スメラギ病院。
聖域の自動扉を蹴破り、フタバは息を吸う。
大声を張り上げるための事前準備として。
「先生ッ、急患ですッ!!!」
左鎖骨及び腱並びに回旋腱板切断。第一第二肋骨切断及び第三肋骨罅。血管損傷及び神経系切断多数。
連れて来られた病院で緊急手術を行い、なんとか五体満足のまま寝所の上で横になっている佐刀が理解できた症状の一部である。
実際はより多くの専門用語を絡められ、より深く人体の部位と今回の刀傷による損傷を説明された。ただ、医大卒ではない佐刀にはこれ以上の理解が不可能であったが故に歯抜け状態となっているだけで。
「意外と動くな」
身体を起こし、佐刀は幾重にも巻かれた包帯と状態堅持のために装着された補助布で固定された左腕を持ち上げる。
後五分も遅れていれば、切断面同士を固定してくっつける手段は取れなかった、と目を血走らせた先生に警告されてから一週間は経過した。時の経過によって自然治癒した左腕は、神経に走る不快感を抜きにすれば斬られる前の状態に戻っている。医者の技術様々と言ったところか。
指先の感覚も多少痺れる程度に回復しており、その気になれば箸も難なく扱える。
「大丈夫、佐刀? 神妙な顔しちゃってさ?」
「ハァ……人の心配できる状況ですかい。そっちは」
呑気に佐刀へ話しかけたのは、同じ病室で横になっているフタバ。
佐刀と同様に病院衣を着用しているが、小柄な体躯に頬の傷と、よからぬ方向へ妄想の羽を広げてしまう。
自身を抱えたまま滅茶苦茶な速度で駆けていたため忘れそうになるが、彼女も腹部に相応の刀傷を刻まれているのだ。それこそ、我が身可愛さで佐刀を見捨ててもおかしくないような重症を。
だというのに、フタバの表情に翳りはない。傾げる首にも純粋な疑問だけで、他意は微塵も伺えない。
「心配できる状況って………だって私が運んだんだし、ここで倒れてもあれじゃん。うん……あれ」
「後味が悪い、とかか?」
「そう、それ!」
手を叩き指を指す所作は、さながら
そも万全でも出せるか怪しい速度を、腹部を斬られた状態で完走したのが異常である。
だというのに、自分は何もないとでも言わんばかり肩を竦めて、佐刀へ言葉を向けた。
「それにさぁ。ないんだっけ、記憶? そりゃ心配もするよ」
「あ、あぁ、そんなもんか……?」
適当に相槌を打ち、佐刀はにわかに表情を歪めた。
佐刀鞘は自らの名前と申し訳程度の教養を除く、記憶の一切を喪失している。と、いうことにしている。
実際は鮮明そのものであり、一週間前の夕飯すら諳じられる。ならば何故、記憶を失ったという嘘をついたのか。
こちらの理由もやはり鮮明。
佐刀にとって、今の世界が完全に未知だから。
現代日本において決闘行為は犯罪であり、懲役刑に該当する。ましてや真剣を用いた代物など、殺人罪は免れない。
ところが今はどうだ。
フタバも先の剣士も、佐刀の手術を担当した外科医さえも決闘に違法という認識を有していない。看護士が咎めるのは肉を切らせて骨を断つ強引な戦法に対してであり、そもそも決闘を行わなければよかったとは暗喩ですら表現しない。
「そんなもんだよ。だって家族も師匠も思い出せないなんて辛いよ」
家族の後に並ぶ師匠が何の師であるかなど、論ずるまでもない。
ここまで剣に傾倒した変化を見せれば、嫌でも理解する。理解せざるを得ない。
佐刀鞘は日本に酷似していながら、剣に大きく偏った並行世界に移動してしまったのだと。
「記憶がないからかな、実感が湧かないな」
そうと分かれば、後は記憶がない体でこの世界の情報を収集するのみ。
幸い、相手を選んで記憶がないから教えて欲しい、と口にするだけで情報は容易に入手可能。前提条件がお誂え向きに情報を聞き出しやすい。
始めからないも同然なのだから、同情されても反応に困る。というのは自然であろうか。
佐刀は伏目がちな目線を僅かに上げ、フタバへと向ける。
「そう……まぁ、これも何かの縁だし。何か知りたいことがあったら私に聞いてよ! こう見えて、剣の腕だけじゃなくてちょっとだけ物知りだからさ!」
ちょっと、というのが引っ掛かりを覚える上、自称物知りという要素に加えて物知りなら早々しないだろう親指を天に突き立てる仕草は、佐刀の不安を徒に煽った。
尤も、最初に知り合った友好的な彼女に頼るのが一番効率的なのは事実な上、佐刀個人としてもフタバと話ができるのは悪い話ではない。
故、同室の彼女の好意に甘えることは自然であった。
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