流言

「吉岡さん、前職はホストクラブだっていうの、本当ですか?」

 早翔は蘭子の会社に入社し、財務部に籍を置いた。

 それと同じ頃に、総務部から異動してきた月島ゆかりが、早翔にずけずけと問いかける。

「そうだけど、なんで知ってるの?」

「履歴書にホストクラブの経験が書いてあるって人事課で噂になってました。特技はカクテル作ることとか、普通書かないですよ」

 ゆかりはキャハハと無邪気に笑う。


 確かに履歴書の趣味欄に「カクテルの探究と創作」と書いたが、職歴は飲食店勤務としか書かなかった。

 役員面接で飲食店のことを聞かれ、正直にホストクラブと言った。

 ある程度の規模の会社でも、個人情報が軽く取り扱われていることに、早翔は多少の驚きを感じた。

 隠すことでもないと考えていたが、バカ正直に明言する必要もない。もう少し慎重にすべきだったと考えを改める。


 月島ゆかりは、短大を卒業後、入社して4年目で早翔とは同じ年頃だった。

 財務部が比較的経験豊富な年配が多い中、若い早翔のことを考えた異動だったのだろう。同年代だからか自然と会話が増えるようになる。ランチタイムは、皆、外に出払う中、弁当組の早翔とゆかりは、電話番も兼ねてオフィスに残る。


「カクテル、ホテルのバーで飲んだことあります」

「へえ… 何、飲んだの?」

「私に合ったイメージのカクテルを特別に作ってもらったから、名前なんてありません」

 早翔が思わず苦笑する。

 大概は「よく知らないからお任せで」と言われ、客の好みを聞いて作るが、女性客の中には、簡単に「私のイメージで作って」と注文する客も多い。


「三角のカクテルグラスに、ピンクっぽい赤のお酒にチェリーが入ってたりした?」

 ゆかりが目を丸くして早翔を見る。

「どうしてわかるんですか? 気味悪~い」

「初対面の客からいきなり私のイメージで、って言われてもね。バーテンダーは『いや、君のこと知らないし』って言い返したかったと思うよ」

「ああ、そっか。本当にそうですね」

 そう言って、キャハハと甲高い声を上げる。

「若い女性が好みそうな可愛い系かキレイ系なイメージで、甘いカクテルを作ると大体は想像できるよね」


 すでにカクテルの話は終わったとでも言いたげに、ふうんと気のない返事が返ってくる。

 急に媚びるような視線を早翔に送ると、「ホストクラブ… 一度行ってみたいなぁ」と甘えた声で呟いて、つぶらな瞳をパチパチと瞬きさせた。

「君のような普通のOLが行くところではないよ。金持ちのマダムやホステスさん達の憩いの場だから」

「なぁんだ… 吉岡さんに頼めば連れて行ってもらえるかなぁと思ったのにぃ」

 くりくりとした目で可愛く早翔を睨み、不満げに頬を少し膨らませ、小さく口を尖らせた後、すぐ笑顔に戻る。


「吉岡さん、しゃべり方が和かいからですかね。監査室の人が言ってましたよ。あいつには、不機嫌なお局まで機嫌よく何でも話すって」

「監査室って… まだ出入りし始めたばかりなのに。月島さんの情報網すごいね」

 ゆかりがニカッと唇を左右に引き上げる。

「煙草休憩の場所に行くと皆、そんな話ばかりです」

「君、煙草吸うの…」

 ううんと、首を左右に振る。


「友達の煙草休憩に付き合うんです。飲み物持って。結構、色々な話が聞けます。吉岡さん、酒も煙草もやらないんですって?」

「…それも噂になってるの?」

「酒ダメでよくホストクラブなんか勤めてたなって…」

 また、キャハハと声を出して笑う。

「あ… でも、たまには付き合ったほうがいいですよ。酒が飲めないから飲みには誘いづらいし、ゴルフもやらない。昼は弁当だし、話そうと思っても接点が作れないって言われてましたよ」


 早翔が軽い絶望感で顔が引きつる。

 会社には仕事以外に、職場ならではの付き合いがあるのは知っていたが、蜘蛛の糸が張り巡らされているような、弱い拘束感を覚えて不自然な笑みを浮かべていた。

「まあ、常勤じゃないし気にしないほうがいいですよ。制約されない身軽さが非常勤の良さなんですから」

 ゆかりが無邪気な笑いを見せると、甘えるような上目遣いで早翔を見つめる。

「ホストクラブがダメなら、今度、バーにカクテル飲みに連れて行って下さいよぉ」

 戻りかけた早翔の頬が、再び引きつる。

「…カクテルくらいならいつでも御馳走するよ」

 ゆかりが、やったぁと大袈裟に声を上げて笑った。



 それからしばらく経ったある日のことである。

「吉岡君、君、何かやらかした?」

 直属の上司の佐野が、困惑した表情で早翔に声を掛けて来た。

「役員フロアの会議室に吉岡君を寄こしてくれと、向井取締役から電話があった。とりあえず行って」

「なんだよ、一体…」と、ぞんざいな言葉が出そうになるのを飲み込んで、役員フロアに向かった。

 プライベートでは対等に付き合っている向井の名前を、役職名付きで耳にするのが少し滑稽に感じ、思わず口元が緩む。


 役員フロアのエレベーターホールに出ると、早翔より幾つか年上の若い男が待っていた。

「君が吉岡七瀬か」

 早翔を見てもにこりともしない。はいと頷くと、挨拶をする間もなく、男が身体の向きを変える。

「俺は向井の秘書、田辺」

 言うが早いか、足早に歩き出し早翔を先導する。

 こんな仕事をさせられてイラついているのか、もともとの気質か、顔つきも身のこなしも上司に似て神経質そうな空気をまとっている。

 無言で会議室のドアを開けると「ここで待ってて」と、目も合わさず言い捨て、さっさと行ってしまった。


 広い会議室には、いかにも重要な意思決定が為されてきたらしい、重厚感のあるマホガニーの大きな楕円形テーブルがあり、その周りには革張りの椅子が並んでいる。

 今のところ、向井とは仕事上の接点はなく、こんな部屋に呼び出して何の話があるのか、早翔はその意図を図り兼ねていた。


「この部屋の感想は? どう?」

 背後からいきなり声がする。

 驚いて振り返ると、化粧もヘアも派手さを控えた蘭子が、いつもより地味な色のスーツに身を包み、立っていた。

「蘭子さん…」

 言葉を失っている早翔に、蘭子がいつものいたずらっぽい視線を送る。

「滅多に入れない場所でしょ。後学のために見学するのもいいんじゃないかしら」


 早翔が深いため息を吐いて、蘭子と言いかけた言葉を止めて「黒田取締役…」と言い直す。

「やめてよ。役職で呼ばれるのは好きじゃない。いつか全員『さん』付けで呼び合う会社にするんだから」

「へえ…」

 ようやく早翔の顔に笑みが浮かぶ。

「役員フロアに大会議室、こんなわかりやすいヒエラルキーの最上位の場所を設置しておいて、呼び方だけ変えても意味あるのかなあ」

「生意気よ。ガキは黙っててください」


 ふざけた調子で言う蘭子に、早翔が呆れた笑顔を見せる。

「何、会社で呼び出してんの。ったくもう、佐野課長から不審な顔されたんだから」

「あら、これでも気を遣って向井に頼んだのよ。今度から直接私が呼びに行くわ」

 早翔の顔に焦りの色が浮かび、「冗談やめてよ」と顔をしかめると、蘭子が声を出して笑う。

「それでなくても、色々噂されてるのに。この上、蘭子さんとの関係まで噂されたら困るでしょ」

「別に構わないわよ。噂になってもいいじゃない」

 平然と答える蘭子とは対照的に、早翔がおろおろと困惑していく。


「何言ってんの。蘭子さんにも立場があるように私にも立場があるのに」

 蘭子がニヤリと片頬で笑う。

「オレ、だったのに、ワタシ…ねえ」

「そりゃ、TPOに合わせて一人称も変わるのは当然だろ… 当然です、黒田取締役」

 目を泳がせ慌てる早翔を満足そうに眺め、うふふと笑みを漏らすと、「悪くないわね」と呟くように言う。

 早翔は半ば呆れ、半ば腹立たしげにため息を吐く。

「茶化すなよ。ここはベッドの上じゃない。話がないなら戻るから」


「あるわよ。本題はこれから」

 蘭子の顔からサッと笑みが消え、真顔で言い放つ。

「アンタさあ、何のために会社に勤めてるの。非常勤だから付き合い悪いのは仕方ないとか周囲からは言われてるのに、若い女とはちゃっかりデートってどういうことよ」

 蘭子の顔が険しさを増している。

 早翔は蘭子から視線を逸らして、はあと息を漏らした。


 何日か前、以前の約束を果たすために、月島ゆかりをバーに連れて行った。ゆかりが自分から言いふらしたのか、二人で会社を出るところを見た誰かが広めたのか、ほんの数日で蘭子の耳に入っていることに、早翔は驚きを通り越して諦めの心境に陥り、無気力な笑いで取り繕う。


「デートじゃないよ。カクテルを御馳走して欲しいって言うから、バーに連れて行っただけだよ」

「世間ではそういうのをデートって言うのよ」

「デートと言うより、見識を広めた感覚だったけどね」

 蘭子が小バカにしたようにフンと鼻を鳴らし、「何、言ってんの」と口をゆがめる。

「実際、いつも会話する女性とは違う若いOLさんの話は新鮮だったし、色々と参考になったよ」

「何の参考よ。言い訳がましいったらないわ」

 蘭子は顔を背けて吐き捨てた。構わず、早翔が穏やかな口調で続ける。


「蘭子さんからもらったカクテルバイブル、名前とレシピが書いてある文字だけのプロ仕様だよね。月島さんと話してて、カラフルな写真やカクテル言葉、由来や物語なんかが載った、若い女性向けのカクテルバイブル書きたいなあと思ったよ」

 しばらく沈黙していた蘭子が、「いいわね、それ…」と呟くと、悪かった機嫌が吹っ飛んだような笑顔に変わる。

 早翔は心の内で「リカバリー成功」と呟き、勢いづく。


「蘭子さんと国内や海外の店に行って、撮りためた写真とか、聞いた話をまとめると面白いと思ってね。せっかく書き溜めた記録をちょっとした形にできないかなあと考えてる」

「今度の休み、空けておいて。知り合いの出版社に出すように言うから」

 一瞬で早翔の笑顔が固まった。


 いつかそんな本が出せたらと思ったことは確かだが、今はそんな余裕はない。だが、ここで正直に言えば、せっかく直った蘭子の機嫌がまた悪くなる。

「わかった。簡単な企画書を書いておくよ」

 強張った顔を隠すように、無理やり満面に笑みを湛える。

 早翔は笑顔で蘭子と別れ、エレベーターに乗って一人切りになると、疲れ切ったように深いため息を吐いた。


 それから一か月も経たず、ゆかりは再び総務部へ異動になり、代わりに総務部の女子の間で煙たがられていたらしい中年の女性社員が異動してきた。

「同年代の女は使いづらいわ…」

 佐野が早翔に、小声で愚痴をこぼす。

「月島さん、なんでまた異動になったんだか… 何かやらかしたの? 吉岡君、知らない?」

 早翔は引きつった笑顔で首を横に振った。

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