変化
黒田株式会社。それが蘭子の会社である。正確には、蘭子の父、黒田晋太郎が社長を務めるオーナー企業である。が、会社の筆頭株主は蘭子である。
「祖母が、母の実家ばかり大事にする父と母が気に入らなくて、祖父から受け継いだ財産のほとんどを私にくれたのよ。女の執念て、すごいわね」
久しぶりに訪れたマンションで、蘭子は早翔の質問に軽く答える。
「これでも結構手放してるのよ。ま、父の言いなりだけど。だって、もともとは父が受け継ぐべき財産だったんだから当然よね」
いつもならそんなピロートークは眉間に皺を寄せて嫌がりそうなものだが、珍しく素直に一つ一つ質問に答える。
元は織物屋から始まったという。
「嘘かホントか知らないけど、世の中、裸で歩いてる人はいないから、織物業は廃れることはないと思って始めたそうよ… まあ、作り話よね」
そう言って蘭子がフンと鼻で笑う。
「まあ正しいよ。平時でも戦時でも関係なく、廃れない産業には違いないし」
「あら、戦時中は大変だったわよ。戦時統制で企業も整備されて、規模によって統合されていったから、生き残れたのは奇跡よ」
「まるで見て来たみたいな口ぶりだ… 蘭子さん、戦前生まれだっけ?」
早翔がふざけた口調で薄く笑って、ベッドから立ち上がった。
「子供の頃からさんざん聞かされたから。父はもちろん、祖母や伯母たちから。ほら、耳にいっぱいタコあるでしょ」
蘭子がいたずらっぽく髪をかき上げると、早翔が鼻で笑う。
「何か飲む?」
リビングに向かう早翔の背に、蘭子が「紅茶」と投げかける。早翔の脚が止まり、振り返った顔が目を丸くして、ぽかんと口を開けている。
「何よ、その顔」
「もしかして聞き間違い? 紅茶を使ったお酒を飲みたい… とか?」
「そんなもん飲みたくないわよ。紅茶が飲みたい気分なの!」
蘭子がシルクのガウンをサッと羽織って立ち上がった。
「は・や・く・し・ろ」
おどけた顔の蘭子に、早翔が口をへの字に曲げて「明日はきっと雪だ」と苦笑しながら、リビングに続く扉を開け、蘭子が出るのを待って自身も後に続く。
蘭子がバーカウンターのスツールに浅く腰掛け、早翔を見つめる。
「ロイヤルミルクティーがいい」
「牛乳なんて保存がきかないもの、ここにはございません」
「あっちの冷蔵庫を見て来ればいいでしょ」
早翔はため息交じりで「はいはい」と返事をして、キッチンに向かった。
相変わらずモデルルームのように、人が住んでいる気配の感じられないリビングを通り、白を基調にしたキッチンに入る。リビングダイニングと同じように、シンクも新品かと思わせるほど水垢一つなく磨き上げられ、白のキッチンカウンターはオレンジ色の温かな灯りを眩しいほどに反射している。
供えつけられた冷蔵庫を開けると、牛乳とジュース、ミネラルウォーターが入っているだけで、以前は少ないながらも入っていた食材が何もなかった。
「なんだよ…これ。一体、何食べてるんだ…」と、思わず呟く。
「何も食べてないわよ」
突然、背後から聞こえる声に、早翔がビックリして振り向いた。
「ここでは食べてないわ。父が一人だから、なるべく家に帰るようにしているの…」
蘭子は、キッチンカウンターのスツールに腰掛け、テーブルに肘をつく。
「なんだか、私に遠慮して庸一郎を食事に誘うことも少なくなってね。本当に余計な気遣いなのに…」
宙に向けられた瞳には、愛おしさを含んだ優しい憂いを浮かべている。
白い鏡面テーブルに反射した光が蘭子の肌を包み、妖美な輝きを放っていた。
思わず、早翔の口からため息が漏れる。
「何?」と問いかける蘭子に、早翔が軽く笑って首を横に振る。
「後悔してるの? 別れたこと…」
「今さら…?」と、世慣れた笑みで早翔の純情を包み込む。
「どうかしらね… ただ、父も私も庸一郎を守りたいという気持ちが、以前より強くなったような気がする」
「守る?」
「彼は敵が多いから。離婚したなら黒田から追い出せと平気で言う親族がたくさん。父方の従兄は皆、結構いい歳で父の次を狙って必死なのよ。血の繋がった自分たちよりも、庸一郎を息子のように可愛がる父が、昔から気に入らなかったんでしょ」
「同族企業ならではのドロドロだね」
早翔が軽く口にすると、蘭子の目の色が変わり冷徹さを帯びる。
「ドロドロになんかさせないわ。トップに立つのはまず有能であること。同族だから、なんてことを理由にするような規模じゃない」
「有能プラス、カリスマ性だね」
早翔が蘭子の前に紅茶を置いて和かく微笑む。蘭子が一口すすって「美味しい」と、冷めた表情を少し緩ませた。
「カリスマ性ね… 祖父が戦後の焼け野原を見て、この国の発展のためには不動産業だと思い立って、戦後の好景気でピークを迎えてた繊維業を、周囲の反対をよそに、あっさり捨てた。父は持前の嗅覚で企業買収を進めていった。この二人にはあるんでしょうね、カリスマ性」
「同族ならではのトップダウンの利点があったけど、これからはそんな簡単じゃないってことか」
蘭子が、そうねと頷く。
肘を付いた右手の指が、顔の横あたりで所在なげに艶っぽい曲線を描いていた。
「ちょっと煙草取ってくるね」
思いついたように早翔がキッチンを出ようとすると、いらないわと返ってくる。
「私、煙草止めたの」
蘭子の右手が紅茶のカップを清楚に持ち上げ、涼しげな笑顔を見せている。
しばらく無言になっていた早翔の口から、「だからか…」と言葉が漏れた。
「何よ」
「蘭子さんから煙草の匂いがしなかった。いつもするはずのキスの香り…」
「そうなの?」と驚き顔で早翔を見返す。
「キスの味が煙草… それちょっと嫌だわね」
「今さら何言ってんの。それ、俺のセリフだし…」
蘭子がキャハハと甲高い声で笑う。
「煙草を止めて、紅茶を飲んでるなんて、やっぱり明日は大雪だ」
「ちなみに、紅茶も今日だけじゃないの。私、お酒も止めたから。酒と煙草から足を洗ったの」
はにかむように笑って肩をすくめる蘭子を、早翔が呆然と見つめる。
「…煙草もやめて、酒も止めた? ウソだろ…」
「ホントよ」
「どういう心境の変化だよ。煙草はともかく、酒を止めるなんて… 大酒飲みなのに」
「もう、この間行った米国と欧州旅行で一生分飲んだから… あなたは飲めもしないのに、酒場に入り浸るし、自分は舌を漬ける程度の味見で私にばかり飲ませて…」
わざとらしく眉根を寄せながら、無邪気な笑顔を見せる。
「あれは楽しかったね。色々な国の酒の製造元や酒場を巡るなんて経験めったにできないし、蘭子さんが居なかったら一生行けないところばかり… ありがとう」
蘭子がかすかに頬を上気させながら、満足そうな笑みを浮かべた。
米国・欧州旅行。そのきっかけを作ったのは、早翔自身である。
「頑張って試験受かったのに、全然連絡してくれないし… おめでとうの一言もない」
店に来た蘭子に、そんな皮肉を冗談めかして言った。
「それとも、このまま永遠に付き合ってくれる?」
同じ日に蘭子から言われたその意味深な言葉ばかりが脳裏に残って、おめでとうを催促したことなどすっかり忘れていた。
その日から数日後、向井の仕事部屋でパスポートがあるかと訊かれた。
「ないなら用意しておけよ。お前が祝いの一つもないと言ったから、ご褒美に海外旅行に連れて行くらしいぞ」
「そんな勝手に…」
早翔が言葉を詰まらせる。
蘭子と国内を旅行したことはある。一泊か二泊程度で悩むこともなく了承し、温泉や観光地を巡るついでに、ワイナリーや酒蔵に立ち寄りながら見聞を広める意識で同行した。
しかし、海外旅行ともなれば話が変わる。
耳にした瞬間から軽い恐怖が早翔を襲った。
見えない檻に入れられ逃げ場を失うような、そんな感覚。
「海外なんて無理だ」
「海外、行ったことあるのか?」
早翔は黙って頷いたまま項垂れる。
高校2年の夏休みに、学校からイギリスへ短期留学したことがあった。遠い昔の、幸せを意識することもなく過ごしていた生ぬるい記憶である。
「海外旅行なんて、滅多にできないことだぞ。しかも蘭子が一緒なら、その辺のシケたコースとは桁違いの贅沢な旅行だ。この先、会社に入って馬車馬のように働き始めると、行く気も起らなくなる。行けるうちに行っとけ」
向井が真顔で軽く言う。
「簡単に言うな…」
「簡単なことだろう。蘭子のベッドルームが海外に行くだけだ。働かなくても金は入る。こんな美味しい話はないぞ」
早翔が生気のない目で向井を見やると、なんて顔だと鼻で笑う。
「どうせ行くなら楽しんだほうが得だ。我まま言って行きたいところへ蘭子を連れまわせばいい。面倒になったら、飲ませて酔わせて寝かせろ」
向井のぞんざいな口調が、早翔の沈んだ心を緩ませ、自然に笑みが浮かぶ。
「まあ… その代わり、行く前と後は立てないほどにお前を虐める」
表情一つ変えずに言う向井を見て、早翔が思わず吹き出した。
「やめてくれよ…」
「お前があの女に抱かれてるのを想像すると、嫉妬に狂って燃えるんでね」
「向井さん、立派な変態」
向井が無表情のままフンと鼻を鳴らす。
「変態で結構。覚悟しておけ」
「帰って来てから好きにするのはいいけど、行く前は困るよ」
「安心しろ、車椅子に乗せてでも蘭子のもとに届けるから」
早翔が「車椅子!」と間の抜けた声を出して、破顔した。
それを見て、ようやく向井の頬が穏やかに緩む。
「向井さん、いいこと教えてあげる。俺の初体験は、高校2年のイギリス短期留学先。金髪碧眼の美青年だったよ」
緩みかけた向井の顔が固まる。
「なんだと… この不良学生が」
苦々しく眉間に皺を寄せて、早翔を強引に組み敷いた。
「そんな昔のことで…」
向井がフンと鼻を鳴らして頬をゆがめる。
「昔のことでも何でも、お前を虐め抜く口実を探すのが特技だ。どんなことでも理由をつけて刑を下す」
「冤罪だ…」と呟く早翔の口を、向井のねっとりとまとわりつくような唇が塞いだ。
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