暗示
「ほどほどにしとけって言っただろうが…」
早翔から帰省の理由を聞いた向井が、呆れたように言う。
「普通に大学行かせて教師にでもなるように言えばいいだろう。大学行かせてもらえるだけありがたいと思えと、なぜ言わない。兄貴が高卒で働いてるのに、どこまで甘える気だって一喝すればいい。お前は救いようのないお人好しの阿呆だ」
ベッドに寝そべりながら、向井が腹立たしげに言葉を吐き散らす。
早翔は壁にもたれて膝を立て、頬杖をついて黙って聞いていた。
「お前が弟に言えないなら俺が言ってやる。俺の経験も踏まえて言ってやるよ。ったく甘やかし過ぎだろうが。イライラするわ」
早翔が、ゆっくりと向井のほうに顔を向けて凝視する。
「何だよ」
「向井さん、他人のことで、よくそんなに怒れるなあと思って。それ聞いてたら、なんか最後に喉の奥につかえてたもんまで、全部下に降りた感じ」
「ったく、茶化すな。こっちは真剣に言ってるのに」
向井が眉根を寄せて、早翔に背を向ける。
「国公立なら授業料は出すと言ってきた。落ちたら諦めろと… 弟も最初からそのつもりだと言ってた。受かってくれれば、あと6年と数か月。何とかなるでしょ」
アホと呟く声が聞こえる。
早翔は、向井の部屋に来るまでの道すがら、監査法人に勤務するよりも向井の話に乗るほうが、色々と融通が利くのではないかと考えていた。
恐る恐る「この間の話なんだけど…」と切り出すと、「どの話だ」とぶっきら棒に返ってくる。
「蘭子さんの会社に入る話…」
「あれはもう決定事項だ。お前も了承しただろうが。今さら覆されんぞ」
向井は、有無を言わせない威圧するような言い方で早翔の言葉を遮る。
了承した覚えはない。そこまで強引に早翔の採用を進める理由もわからなかった。が、ここでそんな話をしても仕方がない。結論が同じならば、細かいことには拘らないほうがいいと咄嗟に判断する。
「…入社はするつもりだけど、雇用形態を非常勤にしてもらえないかなあ… 副業できるように」
しばらく沈黙が続いた後、「聞いておく」と不機嫌に返ってくる。
早翔がありがとうと言っても、向井は黙したままだった。
「女ってホントわかんないよね」
向井の背中でその心情を測りながら口を開く。
「お袋さあ、俺のこと散々親不孝者とか罵倒しておいて、嫌ってるはずなのに、夕食時にはテーブルに俺の好物ばかり並べて、唇がほころぶのを必死で堪えてるの。もうおかしくて。美味しかったなあ… 出汁が利いてて薄味は昔と変わらなかった」
しばらく間を置き、向井が「誰が誰を嫌ってるって?」と言って、フンと鼻を鳴らす。
「お前をどん底に陥れた張本人なのに、感謝されても親不孝者と罵られる筋合いはない。俺ならとっとと捨てる。そんな頭の悪い女」
早翔は向井の口調から、いくらか機嫌が戻っていることを感じ取り、ほっと一息つく。
「どんな親でも、生んでくれた母親だから」
「お人好しの阿呆が… この世の中には、子供の足を引っ張るどころか、もぎ取る親は五万といる。母親も所詮は女。女なんて愚かな生き物だ。親子の情愛にほだされてわかり合おうなんて思うもんじゃない。ただ、こんな生き物もいるのかと眺めてるだけでいい」
「でも、まあ、その愚かな母親のお蔭で向井さんにも会えたしね」
向井が再び黙り込む。
あたりを見回すと、相変わらず殺風景な仕事部屋に場違いなベッドが一台。その上で裸の男が二人、互いの息遣いを気にしながら距離を測っている。その光景が急におかしくなって笑いが漏れる。
「何だよ」
向井の不機嫌がぶり返したような口調だ。
「どうしたら向井さんの機嫌が戻るかなあと思ってさ」
しばらく黙した後、向井がおもむろに身体を起こして早翔のほうに向き直る。
「そんなこと言われなくてもわかるだろう」
言い終わる前に、早翔の頬杖をついた腕を強引に外すと、そのまま乱暴に引き寄せて、早翔をベッドに押し倒した。
久しぶりに店を訪れた蘭子は、向井とは対照的に上機嫌だった。
「弟が医者になりたいなんて、まだまだ苦労が絶えないわね」
「蘭子さん、やけに嬉しそうだね。頑張って試験受かったのに、全然連絡してくれないし… おめでとうの一言もない。もっと喜んでもらえると思ってたのにな」
多少嫌味を込めた言葉に、蘭子が真顔になって煙草を取り出す。
早翔が火を点けると、肩にしなだれかかりながら、その煙草を浅く唇に挟んでゆっくりと吹かす。
「だって、めでたくないもの… 借金もなくなって、試験も合格したらあなたはこの店を辞めるでしょ。その時、あなたはいとも簡単に、私からも離れていくことに気が付いてしまったの」
蘭子は上目遣いで唇の端に笑みを乗せて、早翔に妖艶な視線を送る。
「それとも、このまま永遠に付き合ってくれる?」
「永遠にって… 重いなあ…」
早翔が頬をゆがめて苦笑する。
蘭子の顔から表情が消え、しばらく黙したまま煙草をふかしている。
二口、三口吸ったところで、身体を起こし立ち上がった。
「今夜は疲れたから帰るわ」
「さっき来たばかりなのに、もう?」
早翔が立ち上がると、蘭子がニヤッと笑う。
「客が金も落とさずに帰るなんて言ったら普通は焦るのに、涼しい顔して早翔は平然としてるのね」
「蘭子さんの気まぐれには慣れてるから… それに蘭子さん、客だと思ってないし」
半笑いを浮かべながら視線を蘭子に向ける。
「それとも少し焦りを見せたほうが良かった?」
「嫌な子ね。あなたはさっさと指名客のもとにでも行きなさい。私は彼に送ってもらうから」
そう言うと、隣に立っていたヘルプのホストに腕を絡ませ背を向けた。
早翔が頼むとヘルプに目配せして、ふうと一息つく。
「早翔さん、ニブいですね」
テーブルを片付けながら別のヘルプが笑う。
「蘭子さん、早翔さんにプロポーズしたのに、軽くいなされて気分害したんですよ」
「プロポーズ?」と口にしたまま、早翔が固まる。
「永遠に付き合えって結婚しようってことでしょ。俺ならどこまでも付いて行くって言っちゃいますよ」
早翔は少しの間、言葉を詰まらせたが、すぐに「いや、違うよ」と返した。
「蘭子さんがそんな深い意味を、こんな場所で簡単に口にするわけない。それに、蘭子さんが気分を害する時はあんなもんじゃない。このテーブルの上のもの一切合切破壊される」
自分を納得させるように次々と言葉を並べて、わずかに感じていた焦りをごまかす。
「プロポーズが断られたからって、そんな暴れ方したら余計惨めでしょ。そりゃ、黙って帰るしかないですよ」
ヘルプが嘲るように笑う。
「君は蘭子さんのことを何も知らないのに、幼稚な憶測で大人の会話を曲解するな」
滅多に聞いたことのない怒りを含んだ早翔の口調に、彼は肩をすくめてすみませんと返した。
早翔は落ち着きを取り戻して、蘭子の言葉を思い出す。
「それとも、このまま永遠に付き合ってくれる?」
そんな深い意味があるなら、こんな聞き耳を立てれば他の人間にも聞こえてしまうような場で言うはずがない。ただのジョークだ。
早翔はもう一度自分に言い聞かせた。
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