誤算

 早翔は自分が立てた計画通りの年に、公認会計士2次試験に合格した。

「会社の会計部門の席を一つ開けた。実務経験を積むにはなかなかいい環境だぞ」

 向井は、早翔に合否の結果を伝えに来いと仕事部屋に呼びつけておいて、その実、勝手に合否を調べて、勤務先まで用意していた。


「監査法人に入ろうと思ってるけど」

「どうせ長く勤務するなら早く入った方がいいだろう。それに監査法人はうちの会社に入ってからでも行かせてやる。」

「長く勤務って… 俺が蘭子さんの会社に?」

 合格後の進路に関して、今まで話題にしたことはなかった。なのに既定路線のように、当然の選択として堂々と話す向井に、早翔が言葉を失う。混乱する頭を何とか働かせ、返す言葉を探す。


「お前の片割れはダメだったようだな」

 突然、話を変えられ早翔の思考が止まる。

「直は、プライベートで大変だったから…」

 草壁は、父親が脳梗塞で倒れて、しばらくは資格試験どころではなかった。

「まあ、逆に都合がいい。一度に二つの席は難しいが、来年ならあいつの分も用意できる」

 いきなり草壁の進路にまで話が及び、その予想外の先走った言葉に慌てた。


「向井さん、性急すぎる。直も自分の考えがあるだろうし…」

「お前は、うちの会社に何か不満でもあるのか」

 畳みかけるように話す向井に、「不満があるわけじゃ…」と返すと、またそれを遮る。

「蘭子も了承している」

「蘭子さんが?」

「自分で確認するか? ベッドの上で…」

 向井がニヤけながら言う。


 早翔がようやく気を取り直し、フンと鼻を鳴らして視線を逸らした。

「全然、連絡ないし、忙しいんじゃないの」

 向井が「まあな…」と頷いて苦笑する。 

「もう、自分のことのように喜んでたぞ。蘭子の満面の笑顔を見たのは初めてだ。むしろ笑うことができることに驚いた。いつもしかめっ面の女が笑うと、恐怖を感じる」

「何、言ってるんだよ。まさか蘭子さんは終始しかめっ面で笑わないとでも?」

 呆れ顔で笑うと、「違うのか?」と返ってくる。

「ベッドの上でも、しかめっ面してお前をいたぶってるんじゃないのか… どこ触られても無反応で」


 唇をゆがめ茶化す向井の顔を、ため息交じりに半目で眺める。

「蘭子さんに報告しておくよ。俺が入社したとしても、向井さん、クビだね。残念だ」

 冷めた口調で言い放つ早翔を、向井が押し倒す。

「悪党め。今夜は帰さんから、覚悟しろ」

 向井が眼鏡を外すと、早翔の唇を乱暴にふさいだ。



 早翔は、しばらくは達成感と開放感に包まれた気分で過ごしていた。多少、浮かれ過ぎているような気もしたが、たまには自分を甘やかすのも悪くないと開き直る。そして、それまでの、常に何かから追われるような生活にはなかった、心の余裕というものを初めて感じていた。


 セブンジョーへ行くと、京極は目を潤ませて喜んでくれたが、唇を少し噛んで、複雑な表情を見せる。

「合格おめでとう… でも、合格すると、いよいよ早翔とのお別れが近いってことだよね」

「そんなに慌てて追い出さないで下さいよ。監査法人に入るまでは、しっかり仕事させてもらいますから」

 早翔がことさら軽い口調で言うと、そうだねと京極が目を瞬かせる。


 セブンジョーに入った頃は、一刻も早くこんなところは出て行ってやると思っていた。

 高校を卒業して6年、ここから出て行くことに寂しさや切なさを感じる日が訪れるとは思ってもいなかった。

 早翔にとってセブンジョーは、一つの通過点に過ぎず、そこには何の感慨もないはずだった。

 それでも日々、緊張感を保ちながら仕事に臨み、その時々で自分のでき得る限りのことをしようと心掛けて来た。


「早翔にはなるべく酒を飲ませないように、うまくやってあげて」

 京極が同僚ホストにそう指示し、ホスト達の間ではそれが重要連絡事項のように、新人には必ず引き継がれるようになった。

「早翔さんは俺たちの給料計算、全部やってるんだから間違われたら困るし」

「早翔さん、会計の資格取る勉強してるらしい。会計するにも資格があったんすねぇ」

「京極さんが早翔さんに任せとけば、税務調査も怖くないって言ってたっすからね」

 理解の度合いは違っても、皆、それぞれ理解を示して協力してくれていた。


 気が付けば、単なる止まり木ではない確かな場所、大切な仕事仲間、貴重な時間となって早翔の胸に刻まれていた。

「俺、会計士よりこの仕事のほうが向いてるような気がしますよ。ここにずっと残ろうかな」

 そう呟くと、京極は目を丸くして眉をひそめる。

「何言ってるの。早翔は、本来ならこんなところで働いてる人間じゃないんだから。いい? 感情に流されて自分を見失わないで。君は、そういうところがあるから、時々不安になるんだよ」


 早翔は言葉に詰まり、京極を黙って見つめていた。

「何、その鳩が豆鉄砲を食らったような驚いた顔。俺だって長年この仕事してるんだから、人を見る目はあるつもりだけど」

「すみません。失礼な態度をとって…」

「そういう律儀さが、早翔はずっと変わらない。もったいないよ。こんなところで止まっているのは」

 早翔が首を左右に振ると、京極が早翔の髪をくしゃくしゃと撫で、寂しそうに笑った。



 そんな様々な感情にもまれながら日々を送っていたある日、家に帰ると留守番電話に母、冴子の声が入っていた。

「早翔… お前のせいだから… 葉月が水商売なんかしてるのは、お前がそうさせたんだから… 本当にお前の異常な性格のせいで皆、人生が狂っていく… 許さないから…」

 乱れた息とともにくぐもった声でとつとつと言葉を発した後に、断続的に低いうめき声のような慟哭が続いていた。


 葉月は、手に職を付けたいと、高校の衛生看護科に進学し、准看護師として働きながら正看護師の資格取得を目指しているはずだった。

 取るものも取りあえず帰った早翔の前で、葉月は泣き崩れた。

「せっかく看護科に行かせてもらったのに御免なさい。だけど、私、春太の学費稼ぎたいから」

 狭いリビングの小ぶりのソファに腰掛ける早翔の足元で、葉月はへたり込んで頭を垂れたまま、ただごめんなさいと繰り返して泣いている。


「春太の学費って、春太の大学に行く費用は何とかする。なんで、葉月が看護師辞めてまで水商売なんかする必要があるんだ」

「僕のせいなんだ」

 弟の春太は、会わない間に身長も伸びて、すっかり大人の男になっていた。春太は葉月の隣に座ると頭を床にこすりつける。

「僕が進学先を医学部に変えたから、だからお姉ちゃんは看護師辞めて… 僕のせいなんだ… 僕が一番悪いんだ… ごめんなさい… お兄ちゃん、ごめんなさい」

「違う! 私が悪いの。春太に医者がどんなに素晴らしい仕事か話してたから、私が… だから私が春太の学費を稼ぐの」


「ほどほどにしとけよ」

 ふいに早翔の頭に向井の言葉が思い浮かんだ。

 自分と同じように、全力で弟を助けようとする葉月を前に、「ほどほどになんてできないよな」と呟く。


 キッチンテーブルの椅子に腰かけて、子供達のやり取りを黙って聞きながら、冷たい視線を早翔に送っていた冴子がフンと鼻を鳴らす。

「早翔、お前のせいで、金を稼ぐと言えば水商売しか考えられない娘になって… お前のせいだから… お前が葉月をあばずれにしたんだから…」

「うるさい!」

「黙れ!」

 それまで泣いていた二人が一斉に冴子に向かって怒号を放った。


 冴子は驚いて口をつぐむと、ぶるぶると唇を震わせ顔をくしゃくしゃにして泣き出す。

「皆、異常なお前の悪い影響を受けて親不孝になってくよ… お前のせいで何もかもが滅茶苦茶になってく… 皆、お前のせいで…」

「お兄ちゃん、ちょっと待ってて」

 春太が顔を上げ立ち上がると、黙って冴子の元に行き、泣いている彼女を立たせる。

「お母さん、あっちの部屋に行ってて。乱暴なこと言ってゴメン。三人で話したいから」


 春太が冴子を別室に置いて戻ってくると、神妙な面持ちで再び葉月の隣に小さくなって座った。

 早翔が思わず吹き出し、笑い声を上げる。

 葉月と春太は顔を見合わせ驚いていたが、そのうち二人とも早翔に釣られるように笑い出した。

 ひとしきり、狭いリビングに三人の笑い声が響いた。


「春太は、葉月に看護師辞めさせてまで医学部に進学したいの?」

 早翔が和かな表情で春太に問いかける。

 春太の目がみるみる潤んで、大粒の涙をポロポロと流す。その顔は、最後に見た中学入学の頃と変わらない泣き顔だった。

「僕ね、精神科医になりたいんだ。お母さんがどんどん壊れて行っちゃって…。お母さんも頑張ったんだよ。ずっと引きこもってたけど、頑張ってパートに出たりして… だけどイジメに遭ったり、トラブル起こしたり何やっても長続きしなくて」


 早翔が呆れ顔でフウと息を吐く。

「精神壊れるくらいなら、大人しく家事に励んで二人の面倒看てくれてたほうが役に立つのに… 昔は料理上手だったのにな」

「お母さんだって、最初はお兄ちゃんにばかり苦労させられないって頑張ってたんだよ。だけどお嬢様育ちだから…」

 ためらいがちに言葉を選ぶ葉月に、早翔が苦笑する。

「葉月は甘やかし過ぎだよ。春太もな。お母さんだっていい大人なんだから」


 春太が鼻をすすり上げて、袖で顔を拭うと笑顔を見せる。

「お兄ちゃん、今でもお母さんは料理上手だよ。お味噌汁も鰹節を削って出汁取って、手抜きしないよ。今日も、久しぶりにお兄ちゃんが帰ってくるから、朝からお兄ちゃんの好物ばっかり用意してたよ」

「お母さんが…」

 しばらく早翔の思考が止まって言葉を無くす。


 久しぶりに帰ってくる息子のために好物を作るのは、母親として普通のことだろう。しかし、冴子との親子関係は、父が亡くなるよりも前に破綻していた。

 自分の望むような息子になってくれない早翔を早々に切り捨て、冴子の愛情は素直で優しい次男の春太に向けられていった。

 高校入学と同時に家を出て寮生活になると、たまに帰ってきても最低限の会話しか交わさない。むしろ、父が亡くなったことによって、長男として頼られ、少しばかり会話が増えたほどである。


 母親から愛されることも、わかり合うことも、とうの昔に諦めていた。

 好きにはなれない息子でも、好物を作ってしまうのは冴子の中に、早翔への愛情が少しは残っていたということか。

 軽い混乱を来たし、理解することを諦める。


 放心したようにぽかんとしている早翔を、葉月と春太が顔を見合わせ微笑んでいた。

「久しぶりに家族がそろうね。お兄ちゃんが帰ってきてくれて嬉しい。キャバ嬢になったのも無駄じゃなかった」

 早翔の顔に笑みが戻り、「調子に乗るなよ」と、ため息交じりに言う。

 葉月がペロッと舌を出して無邪気に笑った。

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