思惑
本店の閉店間際に向井が現れ、悪びれる様子もなく平然とVIPルームに入る。
ホスト達も向井の顔を見ると、何も言わなくても早翔にその来訪を知らせに来る。
「何だよ、こんな閉店間際に…」
思わず舌打ちして、愚痴が口を衝いて出た。
「なんか監視しに来てるんですかね」
愚痴に付き合う新人ホストの気遣いに、早翔がごめんと微笑み返す。
最後の客を見送って、向井のもとに向かったのは1時間近く待たせた後だった。
「遅いっ!」
向井は、言うほど不機嫌には見えない目を早翔に向けると、ニヤリと唇の端を上げる。
「何だよ、こんな時間に」
「何って… 迎えに来たら悪いか」
早翔が向井の前に座り、呆れ顔で息を吐く。
「そういう場合は事前に連絡してよ。突然はナシ」
向井が和かい瞳を細めて、黙って早翔を見つめている。
「何だよ。じっと見て…」
「いや… 今日はダメなのかなあと思って」
早翔がグラスに氷を入れ、水を注いで口に運ぶと、ふうと一息つく。
「別に、ダメじゃないけど…」と、視線を合わせずに言う。
向井が安心したように緩んだ表情を見せ、カバンから書類を取り出して早翔に差し出した。
「一応、草壁直也の勤務先候補。取引先の会社だから融通が利く」
「もう! 向井さん、こっちが本題でしょ…」
早翔は一瞬、顔をゆがめるが、ありがとうと頭を下げて書類を受け取った。
「今、社内では蘭子の話で持ち切りだぞ」
再び、早翔の眉間に皺が寄る。
「だからさあ、向井さん。それが本題でしょうが」
向井は「そうか?」ととぼけた顔を見せる。
「蘭子さんに何かあったの」
「幹部連中が勝手に右往左往して、次期社長や取締役の変更なんかを裏でこそこそ画策してるのを、蘭子がピタリと止めた」
「ふうん」
「何だよ、驚かないのかよ」
「別に不思議はないでしょ。蘭子さん、トップの娘なんだし」
向井は早翔が作った水割りを一口飲んで、ニヤけた笑みを浮かべた。
「蘭子は、今まで役員会議でも一切の発言をしてこなかった。それどころか、会議にすら出ないで若僧と遊んでたんだからな」
その嫌みな言い方に、早翔が不機嫌そうに息を吐いて視線を逸らすが、向井は気にも留めない。
「社長や庸一郎氏の意見に追従するのが仕事で、誰も彼女に意見を求めないし、お飾りのごとく無視していい存在。それが社内での蘭子の位置だ」
「蘭子さん、なんか言ったの」
「自分と庸一郎氏の離婚は、会社には何の関係もない。自分のプライベートなことが会社にどんな影響も与えてはならない。これから先、社長の交代があるとして、その候補から庸一郎氏を外す理由はないと… まあ、これで次を狙えるかもしれないと思った親族の動きは止まったな」
「蘭子さんらしいね」
フッと笑みを漏らす早翔を、向井が真顔で見据える。
「全く、お前は自分のやったことの大きさに気付いてない。これで、将来の社長候補が一人増えた」
「増えたって… 蘭子さん?」
「そうだ。まるで眠りから覚めたように、親父譲りの有無を言わさぬ傲慢なカリスマ性を発揮されて、幹部連中は今夜あたり、これから誰に付いて行くのが得策か、頭を悩ませてるだろうよ」
向井が豪快に水割りをあおり、不敵な笑みを浮かべた。
「シュールな絵だな」
早翔がふと気付くと、向井が少し離れた所に立っていた。
早翔は、向井との関係は身体だけだと割り切っていた。
会うのは、向井がかつて独立してあっという間に潰したという事務所。仕事場と言うわりに、書棚に法律書が並んでいる程度で、仕事に関するものは置かれてもいない。常に事務机の上は何もない状態で、早翔にとっては心置きなく荷物を置いて、勉強道具を広げるのには都合が良かった。
「情事の後、事務机に向かって素っ裸の男が勉強している図… 実にそそられる」
「邪魔するなよ。今日の課題終わらせるんだから… それにパンツ穿いてるし」
早翔が机上に視線を戻すと、向井が早翔に向かって上着を放り投げる。
「風邪を引かれたら困る… 次は勉強する余力もないくらいにヘロヘロにしてやる」
早翔は向井の声など届いてないかのように、無表情で無視している。
その姿を見て、向井が苦い笑みを浮かべた。
「お前は何が面白くて勉強している? そんなに会計士になりたいのか」
早翔の手が止まる。
「…さあね。やればやるほど、これは本当に俺がやりたかったことなのか疑問ばかりが生まれる。親父の会社を失ったのがきっかけだったけど、今はね…」
「親父さんの会社はいいブレーンはそろってたほうだ。士稼業はどれだけ頭が切れても、クライアントの意向で良くも悪くもなる。厄介な商売だ」
自嘲気味に薄笑いを浮かべる向井の顔を、早翔がチラッと見て視線を戻す。
「でもやりたいからやる。あんまり会計士には向いてないし、別に興味もなかったことを自覚するための勉強…かな。それでも机に向かってると落ち着く」
「そう言うのを無駄って言わない?」
早翔がしばらく沈黙する。
「…言わない。贅沢っていうのさ。いくらでも勉強できる環境にいるヤツは気が付かない。それが奪われた時にしか感じない贅沢と幸せ。俺は机に向かうだけでそれを感じてる。今はそれだけでいい」
「学歴コンプレックスだな。学歴にこだわる必要はないのに。大学を卒業した後のほうが多くのことを学ぶ」
早翔が再び手を止め、向井に視線を向けた。
「それは何の疑問もなく大学に行ったヤツの言うことだよ… 向井さんは? 何が楽しくて法律を学ぼうと?」
「楽しいなんて思ったことない。弁護士になる手段として仕方なく勉強した」
向井が脱ぎ散らかした服を拾い集め、帰り支度を始める。
「帰るの?」
「このままいると、邪魔することになるぞ。それでもいいのか」
向井がフッと笑うと、早翔が首をすくめて視線を外す。
「お前は
「何だよ、いきなり」
早翔が訝しげに向井を見る。
向井は黙って身支度を整えている。早翔はしばらく無言でその様子を眺めていた。
髪を整え、早翔を見てニヤリと笑う。
「帰って欲しくなければそう言えよ」
「帰れよ… それより、ほどほどにしろって何が言いたいんだよ」
向井が視線を泳がせ、ふうと息を一つ吐く。
「俺の親父は兄貴… 俺の伯父貴のお蔭で大学まで行って大企業に入った。伯父貴は高卒で工場で働いて、親父の学費を稼いだんだ」
「俺の立場が向井さんの伯父さんってこと」
向井は頷くと、二つのグラスに水を入れ、一つを早翔に手渡し、もう一つを一気に飲み干した。
「会社の上司の娘と結婚して、俺が生まれた。出世して… 俺たち家族が伯父貴の家に行くと、いつも親父のことを誇らしげに眺めてたよ。だけど、親父は自力で出世したと思っていたし、母は、伯父貴一家を蔑むような目で見てた」
向井が切ない目で宙を見上げ、薄っすら笑みを浮かべる。
「伯父貴の末の娘が俺と同じ歳でさ。子供の頃、伯母さんが、大きくなったら結婚したらいいのにって冗談言っても、母は苦々しい顔してた。伯母さんは、俺に言ったんだ。兄弟は他人の始まりで仕方ないけど、悔しいって… 伯父貴にも大学に行って弁護士になる夢があったのにって…」
「だから弁護士になったの」
向井が苦笑しながら頷く。
「だから、お前も兄弟思いはほどほどにしておけよ」
ほどほどに兄弟を思うことなどできるだろうか。
早翔がそんな言葉を飲み込んだ。
兄弟が他人の始まりなら、できる限りのことをして、彼らを守りたいという単純な思いも兄弟だから生まれるものだ。
兄弟だけの存在から、別の守るべき存在ができた時に、他人の目線で損得を計り、裏切られたとか恩知らずなどの思いが湧くのかもしれない。
少なくとも、今はやりたいかやりたくないかという本能で、早翔は二人を扶養する道を選んだ。
一人っ子の向井に、そんなことを言ってもわからない。
早翔はグラスの水をあおった。
「いいさ。もしかしたら俺にも向井さんみたいな、伯父思いの甥っ子や姪っ子ができるかもしれないし… 今から楽しみだ」
向井が優しく微笑んで、そうだなと返す。
「風邪ひくなよ」
向井は早翔の髪をクシャっと軽くつかんだ。
「キスされるのかと思った」
「キスしたら止まらないけど… いいのか?」
向井がニヤリと笑うと、早翔がぶるぶると首を左右に振る。
向井は笑い声を漏らしながら部屋を出て行った。
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