決別

「お前、恋人はできたのか?」

 遅い時間にセブンジョー本店を訪れ、当然のようにVIPルームで酒をあおる向井が、あからさまな秋波しゅうはを早翔に送る。


 早翔が部屋を探していた時、向井は下心を隠すことなく、自身の仕事部屋に住むよう誘って来た。以降、店に顔を出すたびに「恋人はできたのか」と繰り返し訊いてくる。

 早翔の中では、そもそもの恋愛観が違うのだから、それ以上発展することはないと思っていた。が、どうやら向井にとっては、早翔の恋愛観は若さゆえに理想を求めているだけで、時間と共に変わるものだと考えているらしい。


 早翔を攻め続ければ、そのうち落とせると見極めたのか、執拗に言い寄ってくる。

 早翔は、それもあながち間違ってはいないと自嘲する。

 プライベートな時間のほとんどを勉強に当てている早翔に、新しい恋人を探す余裕もない。しつこく繰り返される言葉のやり取りにも、うんざりして、どうでもよくなっていた。

 向井は、そんな早翔の内面を見透かすように、自信に満ちた視線で早翔を見つめている。


「重要な話ってそれ? だったらVIPルームの料金も酒代も全部払ってもらうけど… 大体うちは女性同伴じゃないとダメだから、仕事がらみじゃなければ帰ってください」

 ろくに視線も合わせず、冷めた口調で淡々と言葉を並べて返す。

「まだ、いないのか…」

 向井がニヤリと目を細めてほくそ笑む。

「俺は経営者の一員だ。俺が居なかったら2号店の話もスムーズに進まなかったし、本店に影響なく軌道に乗せて今に至ってるのだって、俺が諸々の問題をクリアしてきたからだぞ。少しは感謝しろ。それに、重要な話もある。蘭子夫妻のことで…」


 早翔が目を剥いて向井を睨みつけた。

「そっちが本題でしょ。蘭子さんのこと、どうなってるの?」

「俺にとってはお前に恋人ができたかどうかが本題なんでね。どうせお互い独りなんだから、付き合ってもいいだろう」

 いつになく前のめりに攻めてくる向井から視線を逸らす。

 半ば投げやりに腹を据えてはみたものの、簡単に落ちたと思われたくない気持ちが、早翔を押し黙らせる。


「新しい恋人ができるまででもいい。俺と付き合いながら、新たな出会いを求めても構わない… お互いに新しい恋人ができるまでの間、付き合わないか」

 向井がフンと鼻で笑う。

「俺は結婚してるがレスだ。結婚してないお前は相変わらず蘭子のオモチャだ。どっちがどっちに対して誠実か考えなくてもわかるだろう。それとも何か? お前、これを機にノンケにでもなるつもりか?」

「ゲイもノンケもなろうと思ってなるもんじゃないだろうが」

 不快感を装い深いため息をつきながら、頭の中では「ギブアンドテイク」と呟いていた。


「いいよ、付き合っても… 立ちんぼして拾われたと思うことにするから」

 向井は、苦い笑みの中に、どこかほっとしたように頬を緩めた。

 その顔に、早翔が冷めた視線を投げる。

「条件がある」

「…何だ?」

「拒否権は俺のほうにある。断った時は大人しく諦めて。酔いつぶして抱くとか、絶対ナシだからね。それからもう一つ」

「何だよ、面倒くせーな」

「草壁直也の就職先を探して欲しい。受験勉強と両立できるような残業の少ない会社」

 向井は半眼の意味ありげな目つきで早翔を見つめ、しばらく黙した。

「わかった。探しておこう」


「で、蘭子さんの話は? どうなってるの」

 向井が視線を外し、ふうっと息を吐く。

「お前、庸一郎氏に何言ったの? 正式に離婚したいと言ってきた。しかも離婚するに当たって慰謝料請求したいと」

「慰謝料!」と、思わず声を上げた。

「だって、別の家庭を作ってるのはあっちでしょ。慰謝料取れるわけない。むしろ蘭子さんが慰謝料請求すべきだ」


 向井がふふんとニヒルな笑みを浮かべる。

「そうでもない。庸一郎氏に子供がいるということは結婚前に知ってたそうだ。それでも結婚することを選択したのは蘭子だ。庸一郎氏が蘭子との結婚生活を望んでいたのに、拒否し続けたのは蘭子のほう。その上、若い男と肉体関係持って、ホスト遊び三昧… まあ、離婚は専門じゃないが、不利だよな」

「蘭子さんはどう言ってるの」

「唖然として言葉を失ってたよ。慰謝料請求の理由の一つに『金銭の浪費』があったが、そもそも浪費してる金は蘭子自身の金で、庸一郎氏もそれは知ってるはずなんだがな」


 早翔の唇が薄っすらとほころぶ。

 向井は横目でその表情を眺めていた。

「お前だろ、庸一郎氏に何か言ったの」

「もっと、蘭子さんに嫌われるべきだと言っただけだよ。中途半端な愛情持ってる以上、蘭子さんは前へ進めない」

「くだらん若僧の正義感で大人は振り回されて困るわ」

 向井がふうっと息を吐き、目の前の酒をあおった。

「トップの娘婿という立場だから、周りも認めて来たような面もあるから、これからどういう立場になるのか…」


「あの人は、そんなことを気にするような人には見えなかった。金や地位への執着も感じられなかったし、穏やかで誠実な人に見えた」

「だからだよ」

 向井が声を張った。

「誰が見ても周りを黙らせるようなカリスマ性のある、現社長のような男なら問題ないが、皆、次期社長としての器を疑問視しながらも、娘婿という立場で納得していた。俺たちにとっても庸一郎氏は扱いやすいし、変に上昇志向の高い、他の血縁関係者がしゃしゃり出られても、会社が引っ掻き回されるだけだ」


 一瞬気色ばんだ顔から力が抜け、頬に冷笑が浮かぶ。

「まさか、ホストの若僧に右往左往させられてるなんて、会社の幹部たちは、誰も想像もしてないだろうね」

「俺はそれでも蘭子さんの幸せのほうが大事だと思う」

 早翔が安堵したような和かな表情で宙を見つめて、ぽつんと呟く。

「まあ… ガキの戯言ざれごとだな」

 向井がフンと鼻を鳴らした。



 しばらくたったある日、店に来る予定の蘭子から、マンションまで迎えに来て欲しいという連絡が入った。

 蘭子のもとを訪れると、玄関で早翔を出迎えたのは凪子だった。


「このところずっとお元気がなくて、夜もあまりよくお眠りになってらっしゃらないようなんです。お食事もあまりお召し上がりになってないようだし…」

 薄っすら眉間に皺を寄せ、おろおろと落ち着かない様子で話す。

 早翔が優しく微笑んで、凪子の肩に手を置く。

「心配しないで大丈夫だよ。いつも蘭子さんを見守ってくれてありがとう。凪子さんはもう帰って下さい」

 凪子はほっとしたように頬を緩め、口元をほころばせた。


 いつものリビングに入ると、白いソファに身を預ける蘭子の背中が目に入った。

 早翔が傍らまで近づいても、その虚ろな目線は前方に向けられたままである。

 すぐにでも出かけられるように、光沢のある青紫色のドレスに身を包み、足を組んでいる。テーブルの灰皿には、一、二口、吸っただけの煙草が潰されていた。

 無言で隣に座ると、蘭子が早翔の肩にしなだれかかる。

 しばらく沈黙が続く。


「どうして何も言わないの?」

 消え入りそうな小さな声で訊く。

「大丈夫か… なんて俺の口から軽く言えないよ」

「嫌な子ね」

 蘭子はフッと弱々しい息を漏らした。

「律儀に外部の弁護士を通して、離婚して欲しいと言ってきたわ。ご丁寧に慰謝料まで請求して…」


「直接会って話し合わないの?」

 再び、フッと息を漏らす。

「そんな勇気ない… 会ったらきっと、泣いてすがって、別れないで欲しいって言っちゃうかも…」

「なんかもう、俺みたいなガキには理解できないよ」

 口ではそう言ったが、二十近くも年下の早翔を一度も見下すことなく、誠実に心の内を明かしてくれた庸一郎の姿を思い出すと、蘭子の気持ちが少しばかりわかるような気がした。


「私にも理解できないもの…」

 蘭子がぽつんと呟く。

 不意に、アハハと弱い笑い声を漏らした。

「慰謝料の請求額5千万だって。笑っちゃった。私を怒らせたいなら、10億くらい請求してくれないと…」

「10億なら怒って、嫌いになれる?」

 蘭子の笑顔が固まり、自嘲の笑みへと変わる。

「…なれない、嫌いになんて… 本当、わかってないのよ。無駄なことして… 可愛いヤツなのよね… 本当に… 昔から…」

 独り言のように呟く声が震えていた。

「ごめん… 俺が余計なこと言ったから…」

「本当にね… ガキに言われてようやく重い腰を上げるなんてね… アイツもバカよね……… 私もね…」


「何か飲む?」

 早翔に視線を向ける蘭子の瞳は、赤く潤んでいた。

「寝不足みないな瞳だね」

 蘭子がうつむき目を何度か瞬かせた。

「色々なことを思い出すの。昔々の色々なこと… ベッドで目を閉じると、ありとあらゆることが、昨日のことのように思い出されて眠れなくなるの… もう若くないってことかしら… 困ったものね」

 そう言って、投げやりな笑いを漏らす。


 早翔は蘭子を立たせ、バーカウンターまで連れて行く。スツールに座らせ、自身はカウンターの中に入ると、満面の笑みで蘭子を見つめた。

「なんだか新鮮だね」

「何が?」

「ここで、蘭子さんがちゃんとした服を着てる」

 思ってもいなかった言葉を返され、蘭子がアハハと声を上げて笑った。

「リクエストある?」

 蘭子は少し上のほうに目線を上げ、遠い目で宙を見る。何度か瞬きを繰り返し、ゆっくりと唇をほころばせた。


「ウェディングベル・ドライ…」

「ウェディングベル!」

 早翔が大げさにビックリしたような声を上げ、フンと鼻で笑う。

「未練がましいな。ここはギムレットでお別れっていうならわかるのに」

「結婚式の夜に、ホテルのバーテンダーが作ってくれたの。庸一郎に… どうにもコントロールできない自分の感情に… 周囲の期待に… 私を取り巻く全てに、私が負けを認めた夜。その夜の味よ」

 早翔が片頬をゆがめて苦笑し、カクテルを作り始めた。

 その姿をうっとりと眺めている蘭子の前に、シェイカーから美しい黄色のカクテルがグラスに注がれる。


 一口、口に含むと、ニヤッと笑って半目で早翔を睨み付けた。

「何、これ… 注文と違いますけど、バーテンさん」

「同じオレンジビターを使った勝利の味。敗北の味は蘭子さんには似合わない」

 蘭子から、はにかむような明るい笑みがこぼれる。

「ドライで悪くないわ」

「ナイン・ピックって言うんだ。ビリヤードの9番を落とす、勝利を意味する」

「ナイン・ピック…」

 もう一口、口に含んで、美味しいと呟く。


「今日はこれで閉店。寝不足にはキツいでしょ」

「あら、あなたみたいなお子様と一緒にしないで。他のを作りなさい。あなたのカクテルを作る姿が見たいんだから…」

 早翔が呆れたように蘭子を一瞥して、リキュールを選ぶ。

「あと一杯だけだよ。そのカクテルさ、別の説もあるんだ。ナインティーン・トゥエンティ・ピック・ミー・アップからソーダを抜いてできたカクテルって説。面白いよね、カクテルって」

 言いながら視線を戻すと、蘭子はカウンターに突っ伏して眠っていた。

 早翔は蘭子を優しく抱き上げ、ベッドまで運んだ。

 ドレスを脱がせても起きる気配もなく、あどけない寝顔を見せている。

「おやすみなさい、蘭子さん… 良い夢を…」

 早翔は優しく耳元で囁き、ベッドルームを後にした。

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