対峙

「すごい、早翔。君はやっぱり頭いい! おめでとう!」

 京極が顔をくしゃくしゃにして、早翔に抱きついた。

 その日、早翔が2号店に顔を出すと、草壁から早翔の簿記1級合格を聞いた京極が、我が事のように興奮している。


「別にすごくないですよ。もう何回も挑戦してダメで、予備校通うようになってやっと受かったんです」

「お前、2級落ちた俺の前でよく言えるな」

 顔をニヤつかせ、冷めた口調で草壁がフンと鼻を鳴らす。

「本当にね。会計士目指してるのに、簿記の勉強もしてない直にはビックリだよ。とりあえず3級合格おめでとう。俺は、高校卒業して半年で2・3級同時合格したけどね」

「嫌味なヤツめ…」


 その会話を聞いていた京極がおろおろと交互に二人の顔を見る。

「ちょっと、こんなことで関係壊さないでよ」

 早翔が吹き出すと、草壁も声を上げて笑う。

「京極ちゃん、面白過ぎ。心配する顔がもう、すっかりオジイチャン」

「直! オーナーに失礼なこと言うな」

 早翔の苦言など気にも留めずゲラゲラ笑う草壁に、同僚が客の到着を告げにくる。

「おっす、今日も稼いでやるか」

 その背中に「飲み過ぎるなよ」と早翔が一声かけた。


「君も魅力的だけど、直左衛門も不思議な魅力があるよね」

 草壁の背に、京極が愛おし気な視線を送る。

「あいつ、口が悪くてすみません」

「大丈夫だよ。彼の客を見極める目はすごいよ。乱暴な物言いを好む客かどうかを判断して、ダメだとわかると、やんわりと指名から外れる方向にシフトするから」

 京極が思い出したように苦笑する。

「指名されないように動くよりも、どっちの客も手に入れたほうがいいとアドバイスしたら、『それじゃ、俺が楽しめないだろうが』って一蹴された」

「そういうヤツなんです。すみません」

 早翔が申し訳なさそうな笑顔を見せると、京極は全然問題ないと言わんばかりに破顔する。


 そこへ本店から電話が入った。向井が来ているので、早翔にすぐ戻るようにとの連絡だった。

「向井さん… 何の用だろう」

 怪訝な顔をしている早翔の肩を、京極がぽんと叩く。

「俺、今日はここにずっといるから、直左衛門のことは大丈夫だよ」

「あの… 新規の男連れの客は直に回さないようお願いします」

「わかってるって。心配性だな」

 京極はニヤついた笑みを浮かべ、手で早く行けと追い払うような仕草をする。


 草壁が出勤する日は、早翔もなるべく2号店に顔を出すようにしていた。

 光輝が辞めた後、新規で何人かホストを入れたが、即戦力を求めたため、皆、年上の経験者ばかりだった。中には草壁の態度に顔をしかめるホストもいた。

 早翔は、とにかく大学卒業まで、一本の歯も折ることなく、無事にこのバイトも卒業させなければならないと思っていた。



 本店には、VIPルームに向井と見知らぬ男が待っていた。

「お待たせしました」

 早翔が男に軽く会釈すると、向井が立ち上がる。

「じゃあ、私は外で」

 向井は男に頭を下げると、早翔の肩に軽く手を置き行ってしまった。


 男は穏やかな笑顔で、早翔に座るよう掌を向ける。

 身体にピタリと合わせた、見るからに高級なオーダーメイドスーツに身を包み、和かい目元が育ちの良さを感じさせる。同じオールバックでも、向井が醸し出すようなキザな雰囲気もなく、誠実そうな空気をまとっていた。

「初めまして。早翔と言います」

 早翔は店の名刺を差し出した。

 男はそれを丁寧にテーブルに置いた。


「はじめまして。黒田庸一郎です… 蘭子の夫の…」

 思わずあっと声が出る。

「君が蘭子の… なるほど… 納得したよ」

 庸一郎がフッと笑みを浮かべる。

「蘭子の相手がどういう男か、一度会ってみたいと思ってね。向井に頼んだんだ」


 完成された大人の男がまとう気取らない余裕がそうさせるのか、穏やかに浮かべる笑みさえ、早翔を緊張させ、ふと委縮している自分に気付いて二、三度深く息を吸って吐いた。

「最近、情緒不安定なのかね。離婚について話し合いたいと言われてね。なのに一向に話し合いを持とうともしない。若いホストに入れあげてるというから、ちょっと心配になってね」


 心配しているとはとても思えないその口ぶりが、心臓をわしづかみされたような苦しさで、言葉を詰まらせていた早翔を解き放っていく。

 完成された大人の男なんかじゃない。ずる賢いただの男が居るだけだ。

 そんな思いが、早翔の心を落ち着かせた。


 多少大げさに険しい表情を作って庸一郎を睨み付け、「心配ですか…」と、口元に薄い笑みを刻む。

「心配してるかどうかなんてどっちでもいいです。ただ、別に家庭を持ってるのに心配する資格はないと思います」

 庸一郎が、驚いたように目をいて早翔を見据える。

 フッと唇の端を緩めて苦い笑みを浮かべると、早翔から視線を外して何度か頷いた。


 はなから相手にもしていないのか、子供扱いしているようなその態度が、早翔の中にもやもやとした怒りを満たしていく。

「他に家庭を作っておいて、別れないなんて虫がいい話ですね。蘭子さんにも失礼だけど、内縁の奥さんにも失礼じゃないですか。二人とも傷つけて、俺にはあなたが不誠実な酷い男にしか見えない」


 庸一郎はチラッと早翔を見ると、またフッと笑って、唇の隙間から白い歯を見せた。

「そうかも知れない… 何も言い返せないよ」

 その予想もしなかった誠実で穏やかな口調に、ピンと張っていた糸が緩むような脱力感を覚え、早翔の怒りが消えていく。

「だけど、一つだけ間違いがある。私に別れるという選択肢はないよ。決めるのは彼女だから」


 開き直ったように言い切る庸一郎を、早翔が冷静に見つめていた。その視線をチラッと見ると、庸一郎はソファの背にもたれ、上を向いて大きく息を一つ吐いた。

 早翔が庸一郎の前の、氷の溶けかかった水割りを下げ、新しく作り直して前に置く。

 庸一郎は軽く微笑むと、その水割りをグイッと飲んだ。


「子供ができた時、彼女から言われたんだよ。なるべく会いに行ってあげてと… 私は蘭子と家庭を持ちたいと思っていたから、自分から会いに行こうとは思わなかった。だけど、偶然、街で会ってしまってね」

 庸一郎が眉間に浅く皺を寄せ苦笑する。

「ヨチヨチと歩いてて、やっぱり可愛くてね。父が… 蘭子の父親が、蘭子を引き取るまで会いに行かず、赤ちゃんの頃の蘭子を知らないことが辛い。会わなかったのを後悔していると言ってたそうだが、その気持ちがわかったよ。子供との時間を大事にしたいと思うようになってね」


 早翔は蘭子の言葉を思い出していた。

「彼と別れられないの。愛してないと思う… でも嫌いにもなれない。自分で自分がコントロールできない」

 蘭子のやり場のない感情に揺れる瞳が、早翔の脳裏に焼き付いて離れない。


「あなたはとても素敵な男だ。きっと、今まで蘭子さんの嫌がることは何一つしてこなかったんでしょうね。でも、それは間違ってる。蘭子さんと家庭を持ちたかったのなら、どんなに拒否されても、強引に作るべきだったんだ」

 用意していた言葉ではなかった。庸一郎を前にして感じたことが、自然と口を衝いて出ていた。

「他に家庭を作っておいて、自分から別れは言い出せないなんて、卑怯者の言葉だ。これじゃあ、いつまでたっても蘭子さんは別れられない。前には進めない」


 早翔の声が徐々に震え、それを抑えようと声を張り、早口でまくし立てる。

 庸一郎は真摯な視線を真っすぐ早翔に向け、黙って聞いていた。

「あなたはもっと蘭子さんに対して嫌な男になるべきだ。別れたいと思うほど嫌われるべきなんだ。それが優しさだと思う。思いやりだと思う… 愛情だと思う」

 抑え切れない感情の昂ぶりが、早翔の瞳を潤ませる。

 二人の男が視線を合わせたまま、しばらく沈黙が続く。


 早翔の瞳から一粒の涙が落ちると同時に、早翔が立ち上がって深々と頭を下げた。

「すみません、生意気なこと言いました。ガキのくせに… 本当にすみません… ごめんなさい」

 庸一郎も立ち上がり、頭を下げる早翔を起こすと、ポケットからハンカチを出して渡す。

「君に会って良かった。私も離婚を言い出されるのを待つのもくたびれた」

 独り言のように呟くと、庸一郎が白い歯を見せて笑った。


 店の外に出ると、黒塗りの車が待機していた。

「あの… 一つ訊いていいですか」

 早翔がためらいがちに切り出した。

「何かな?」と優しい視線が返ってくる。

「最初に、俺の顔を見て納得したと仰った。何に納得されたんですか?」

 庸一郎はああと声を上げて穏やかな笑顔を見せた。


「君の持つ雰囲気が、亡くなった蘭子の兄に似ていたものでね。10歳の少年だったが、どこか大人びた涼しげな瞳で、同じ歳なのに私よりも何歳も年上に見えるほど、おっとりとして落ち着いていた。蘭子が君に惹かれても仕方がないと納得したんだ… 彼女は気付いてないんだろうね。会ったことはないから」

 庸一郎は軽く手を上げ微笑むと、向井が待つ車に乗り込んだ。

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