幸運
通常、早翔は本店に勤務し、時々2号店の様子を見に行く。どちらの経理業務も担当していた。
本店に勤務していた光輝を2号店に移動させ、蘭子は時々客として本店を訪れ、早翔を指名する。が、オーナーに名を連ねている蘭子を誰も客とは思わない。
「蘭子さんに来てもらっても、売上になってる気がしない」
早翔が思わずそんな皮肉を口にしても、平然と笑い飛ばす。
「早翔を指名することも目的の一つだったんだから通うわよ」
その日も約束通り、蘭子が本店に現れた。
「今日もステキだね。ドレスがよく似合ってる」
浅葱色のシンプルなドレスを身にまとい、新作よと言って、くるりと回る。
上目遣いでゆっくりと瞬きをして、色っぽい視線を早翔に送る。
「バリバリオシャレして、七瀬に会うのも気分がいいわ」
早翔が薄目で軽く睨んだ。
「ここでは早翔って言ってよ。七瀬禁止」
「はーい」と蘭子が肩をすくめる。
ほぼお決まりの会話パターンで、どうしても早翔の本名を一回は口にしたいらしい。
早翔はやれやれと諦めたように笑い返す。
「この後、デートできるの?」
「無理だよ。今日は帰って朝まで勉強」
「邪魔してやる」
蘭子がくりくりといたずらな目を向けると、早翔が「だーめ」とおどけて返す。
これは最近できた会話パターンだ。
デートできるかどうか、蘭子が訊くことなど、今まではあり得なかった。
何もかも、蘭子の気の赴くままに進めていくのが、蘭子にとっても早翔にとっても当たり前になっていた。
しかし、昼間は学校に通い夜はホストの生活が始まると、意外にも蘭子は早翔を気遣うようになる。
学費を草壁が払ったことを告げた時、蘭子は目をこれ以上ないくらいに見開いて驚いていた。
「あのクソガキが?」
「そう、そのクソガキが。でも直の前でその呼び方はやめてよ。きっとババアって返すから」
「アイツ、私が2号店に行っても近寄っても来やしないわよ。一度、面と向かってクソガキ!て罵ってやりたいのに」
「やめてくれ。前歯折ってるのに、この上、蘭子さんに折られたら入れ歯になっちゃうよ」
蘭子がキャハハと声を上げる。
「他人の金だと思うとサボれない。俺のために直が貯めた金だと思うと無駄にできない」
そう言う早翔を、蘭子は眩しげに見つめていた。
それ以来、蘭子は早翔の都合を絶えず訊いてくるようになった。
「早翔の親友が、あんなガサツな野生児なんてホント、人間関係ってわかんないものね」
そう言いながらも、草壁のことは認めている様子だった。
その日も上機嫌で次々酒を注文して、ホストたちに飲ませるが、自分はウェルカムドリンクとして、早翔が最初に持ってきたカクテルを少し飲むだけである。
早翔にしなだれかかり、あらぬ方に目をやりながら煙草を口に運んでいた。
「ちょっとお疲れ気味?」
「まあね。色々、昔の本を引っ張り出して読んでるの… 経済とか経営とか…」
「大学は経済だったね」
「うん… 学生時代よりも今のほうが頭に入るのよね。単位取るための勉強なんてダメね」
そう言って自嘲気味に笑う。
「今は実践しながらだから、嫌でも頭に入るよ。蘭子さん、経営者向いてると思う」
「おだてても何も出ないわよ」
うふふとまんざらでもない笑みをこぼす。
そこへ、新入りのホストが来た。
「あの、麗華さんが来てるんですが… 今日は無理だと断って、ヘルプで対応しましょうか」
身内意識からだろう、蘭子に聞かれないように耳打ちすることもなく、普通の声のトーンで言う。
麗華は早翔がホストになりたての頃に、最初に早翔を指名した客である。ホストに入れあげ借金を作り、風俗嬢をしている。今は借金は返し終え、早翔の客になると「無理はしないで楽しもうよ」という早翔の言葉通り、月に2、3回店を訪れ、数万円ほど使っていた。
その日は麗華が来る日ではなかった。
「いいわよ、行って」
蘭子がさっと身体を起こして席を立った。
「その代わり、今度はナイトウェアでカクテルクイズよ」
早翔に顔を近づけると、真正面で唇を突き出しチュッと音を立ててニッコリと微笑む。
これも、以前ならあり得ないことだった。
「待つのは嫌いなの!」
言うが早いか、テーブルに並んだグラスを肘で払って落とす。同時に札束をテーブルに投げ置いて帰るという事件があって以来、当時担当の光輝は、蘭子が来る日は、蘭子専用ホストになっていた。
変われば変わるものだと早翔がクスッと笑いを漏らし、蘭子の耳元に唇を近づける。
「最近は寝不足だから、お手柔らかにね」
蘭子の耳にフッと息を吹きかけると、肩をすくめて「もう…」とはにかむ。
カクテルクイズが、このところの蘭子のお気に入りだ。もちろん、勝手に蘭子が作ったクイズで、彼女がカクテルを作り、その中身を早翔が当てる。味を確認した後、ボールに吐き出してはいても、そのうち頭が回らなくなる。それを蘭子が眺めて面白がるのだ。
「車まで送るよ」
早翔が蘭子の腰に手を回すと、蘭子が首を左右に振った。
「早く行ってあげて。お客様を待たせちゃダメよ」
「蘭子さんの口からそんな言葉を聞く日が来るなんて… 経営者になるってすごいなあ」
「茶化してないで、さっさと行け!」
蘭子が不機嫌を装い、ぷいっと背を向ける。蘭子をヘルプに任せて、苦笑しながらその背中を見送り、早翔は麗華の元へと向かった。
麗華は出会った頃よりも、いくらかオシャレに着飾るようになったが、それでも周囲の客に比べれば地味なほうだった。
「お待たせしました。待ちくたびれて怒ってる?」
早翔が麗華の隣に座ると、はにかむような笑顔で頭を振る。
「ごめんなさい。来る予定じゃないのに」
「いいよ。ふらっと立ち寄りたい気分の日だってあるからね」
麗華の顔からゆっくりと笑みが消え、視線を逸らす。
「何かあった?」
「私… 殺しちゃうかもしれない」
「え? 何?」
早翔が耳を疑い、訊き返す。
「だって、2号店にはあなたが居ないもの… だから、今度こそ…」
麗華が真顔で早翔を見つめる。
「もうずいぶん前、OLしてた時、呼び込みに声を掛けられて、断れずに入った小さなホストクラブが最初だった。そこで光輝と会ったの」
早翔が息を飲んだ。
「君… 光輝の客だったの? 全然、そんなそぶりも見せなかったのに…」
「どうかしてた。言われるがまま金を使って、抱かれて… 酷い言葉を浴びせられても我慢して… 借金漬けにされて、風俗に行くよう言われて… どうしようもない泥沼に陥って…」
麗華の目に涙が溢れ、頬を伝い落ちる。
早翔は麗華の肩を抱き寄せた。
「あの日… あなたが私の上に倒れて来た日…」
それは、初めての指名客に舞い上がり、シャンパンをあおって倒れ、酒が飲めないと知った苦い思い出の日だった。
「あの日、光輝を殺そうと思った。彼を殺して私も死のうと。でも、あなたがそれを止めたのよ」
横目で早翔を見ると、薄っすらと微笑む。
「あの男、私の顔なんて覚えてもいなかった。私から何もかも奪ったのに… 前よりも大きな店でNо.1になって高笑いしてた… 許せなかった」
宙を睨んだ目の先に光輝を見ているのか、何年経っても鎮めることができなかった怒りと憎しみが新鮮なまま、その瞳に居座っていた。
「ごめん… 麗華に辛い思いをさせて、ごめん」
その煮えたぎる憎悪が、早翔の口を咄嗟に動かした。
「なんで?」
思いも寄らない謝罪に、麗華が驚き顔で眉間に皺を寄せる。
「なんで、あなたが謝るの? もう… あなたに会うと私、何もできなくなる。殺そうと思って来ても、あなたに会うと…」
早翔が自身の胸に麗華の頭をもたれさせると、彼女は声を殺して大粒の涙を溢れさせた。
泣いている麗華の息遣いが落ち着きを取り戻した頃、早翔が静かに語り掛ける。
「そろそろ潮時なんじゃないかな。ここに来ている間は、どうしたって光輝のことを思い出す。麗華の頭の中から光輝を消し去るには、ここから遠ざかることだと思う」
麗華は無言のまま動かない。
「また、普通にOLしたらいいよ」
麗華が持たれていた身体を起こし、氷の解け切った水割りを少し口に含む。
「…無理よ」
「なんで、無理って決め付けるの?」
「こんなオバサン、どこも雇ってくれないわ」
早翔がグラスに新しい水割りを作って麗華の前に置いた。
「仕事って選ばなければ何でもあるよ。なんだって風俗よりはマシだと思えば、きっと見つかる。どこかに食い込んだら、そこで一生懸命頑張る。そのうち過去も良い思い出になる… と思う」
麗華が冷めた視線を早翔に送り、「いい思い出?」と鼻で笑う。
「ごめん… 生意気なこと言って。年下のガキなのに… だけど、少なくとも、俺に出会ったことはいい思い出にして欲しい。俺にとっては麗華と出会ったのはいい思い出だから… 特に初めて会った日は」
麗華の無表情な顔がみるみる崩れ、再び涙を溢れさせた。
「そうね… 早翔と会えたのは私の中で最高の幸運だった。あなたに会えて良かった。私、頑張るわ。だから、もうここには来ない」
早翔は、口元にいじらしい笑みを浮かべる麗華を、もう一度しっかりと抱き寄せた。
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