清濁
「チンケな部屋ね… 住むとこ探してたんなら言ってくれればよかったのに」
店近くの1LDKの古いマンションに引っ越し、ようやく龍登とも意識することなく、自然に会話できるようになった頃である。
転居を知らせると、視察とばかりに強引に早翔のマンションを訪れた蘭子が、リビングに入るなり不満げに顔をゆがめた。
「チンケで結構。寝に帰るだけなんだから。俺、まだ借金返してるし、中学と高校の育ちざかりを養ってるんだから、このくらいでちょうどいい」
「うちのゲストルームに来ればタダよ。その分、仕送りに回せるでしょ。明日にでも引っ越してきなさいよ」
早翔が笑いながら、二人掛けのキッチンテーブルの椅子を引いた。
「家賃タダは魅力的だけど、もれなく蘭子さんが付いて来るね」
唇の端を上げてニヤリと笑い、蘭子が引かれた椅子に腰かける。
「何よ。私が付いてきたら不満なの」
「俺、ここで会計士の勉強するから。もう一分一秒も惜しんで勉強して最短で合格するの」
「何よ… 私の言うことなんて全然聞いてないのね。そんな事務屋の資格、取る必要ないのに」
蘭子が再び顔をしかめる。
テーブルにマイセンのティーカップを二つ置いて、早翔が紅茶を注いだ。
「もしかしたら、ここに蘭子さんが来た時を考えて、2客だけ奮発したティーカップ」
蘭子の顔がみるみるほころび、照れくさそうに視線を泳がせると、紅茶を一口すすって美味しいと呟く。
「そうね… たまにはここで神田川な雰囲気を味わうのも悪くないわね」
「神田川… ここ、三畳一間でもないし、風呂もあるけど」
半目で睨み、おどけた口調で言う。
「私にとったら三畳一間の風呂無しと同じよ」
蘭子がニヤけた笑いを見せると、早翔も「違いない」と言って笑った。
早翔がウィークリーマンションに住んで部屋を探していた時、最初に声を掛けて来たのは向井だった。
当然のように店のVIPルームに腰を据えると早翔を呼びつける。
「俺の仕事部屋に住めばいい。タダでいいぞ」
「その場合、俺、向井さんに食われるんでしょ」
「ま… そういう展開も悪くない」
早翔が無表情で沈黙した。
「俺は紳士だぞ。お前が嫌がるようなことは、何もしない」
早翔が思わず吹き出す。
「向井さん、俺のこと口説いてるの? 彼氏は? …いるわけないか。いたら正体ないうら若き青年を無理矢理抱いたりしないか」
龍登と別れる原因ではなかったが、きっかけの一つにはなっていたことに、多少の恨みもこめた皮肉で、少しばかり憂さを晴らす。
「まだ言ってるのか。女々しいヤツめ」
向井は悪びれる様子もなく、宙を見てふうと息を吐く。その視線の先に何を見ているのか、切ない色を帯びていた。
「恋人なあ… まぁ…別れた。結婚してることがバレて。俺のことを不誠実でずる賢いと捨て台詞吐かれて… 同じゲイでも難しいよな。気にしないヤツは全然気にしないのに」
その瞳が、未だ癒えない傷を残しているようだった。
「不誠実でずる賢い…か。キツいね」
いたわるような口調で言うと、「全くだ」と向井が顔をゆがめる。
「だけど、俺もそう思うよ。ゲイだと自覚した時から、人生の覚悟は決めてる。大体、奥さんに失礼だよ」
キッパリ言い切る早翔を、向井が苦い笑いを浮かべながら、顎を突き出し下目使いで睨む。
「お前… 青いな。俺はアイツのことを心から大事に思ってる」
「付き合ってた彼氏のことは?」
「もちろんそっちも大事だった。俺はどちらの関係も全力で守る」
早翔が半目で呆れた視線を送る。
「大事だとか守るとか誠実な言葉使って、言ってることはゲスいね。奥さんが気の毒だ」
「だからお前はケツの青いガキなんだよ。要は、本人が満足しているかどうかだ。俺はアイツが日々満足するように必死で頑張ってる」
「ベッド以外で?」
「愛情イコールセックスではないぞ。日本には様々な理由でセックスレスになった夫婦は五万といる。だからと言って愛情がなくなるわけじゃない。それも夫婦のカタチだろ」
「ご立派だね」と早翔が半笑いで吐き捨てる。
「お前みたいなガキにはわからん。他に恋人がいても、俺はアイツと子供のためなら命を懸けられる。お前にとっては裏切りという一言で済ますんだろうが、俺にとっては恋人とは別の本気の情愛だ」
涼しい顔で、平然と言ってのける向井を、早翔が横目で一瞥して、「ずいぶん身勝手だな…」と、ぼそっと呟く。
しばらくの沈黙の後、向井が早翔を真顔で見る。
「もしかして、俺、振られたのか?」
「気付くの遅いよ」
派手に声を出して笑うと、向井も天井を見上げてああと一声上げて笑った。
そして、同じ時期に草壁にも声を掛けられた。
「ウィークリーマンション? 何だよ、水臭いな。部屋が見つかるまで俺のところに来ればいいだろう。何なら、もうちょっと広い部屋借りてルームシェアしようぜ。寮生活の再来みたいで楽しいぞ」
そう言って無邪気に笑った。
直はいいだろうけど、俺は生殺しだ…
草壁に合わせて笑ってはいたが、早翔の心の声が叫んでいた。
皮肉にも、別れる際に龍登から名前を出された3人全員が、親身になって早翔に声を掛けてくれた。
自分の不運を呪った日々もあったが、運が悪いばかりでもなかった。少なくとも出会う人には恵まれていると早翔は改めて思う。
この業界に足を入れた時、外から見える以外の危ない闇の部分を何度か目にした。
それは関わらざるを得ない暴力団との付き合いである。
暴力団を嫌う京極でさえ毎月と、盆や正月の用心棒代、いわゆる「みかじめ料」として、俗称「ケツ持ち」と言われる用心棒に金を渡し、旧知の仲のような親し気な会話をする。
店の経理に関わるようになると、その金を渡す役が早翔に回ってきた。必然的に、ケツ持ちと会話を交わすようになるが、大概、早翔の境遇を知ると勝手に親近感を持たれる。酒が飲めないのにホストをやってるとわかると、同情の眼差しを向けられ、時々、「ちゃんと食ってるか」と、折箱に入った寿司をもらったりする。
それはホールでの接客でも同じだった。
強面の終始不機嫌な暴力団幹部が、愛人を伴い何度か店を訪れることがあった。
喧嘩腰でホストをからかい、怯える様子を見るとますます増長するので、誰も接客に行きたがらない。仕方なく早翔が席に案内してそのまま接客に入るが、早翔に対してはそんな態度を取ることもなく、不機嫌ながらも会話が成立していた。
その様子を見計らって、トップクラスのホストたちが愛人の接客に入り彼女を常連にする。
「早翔は顔で得してるね。素が和かい涼しげな顔だから、相手は戦意喪失する上に守ってあげたくなる」
京極がまじまじと早翔の顔を眺めて言う。
「加えて、その癒し系の声と優しいソフトな喋り方。接客には向いてるよ。これで酒が強ければ最強なんだけどね」
京極は残念そうに顔をゆがめて笑った。
紙一重。
そんな言葉が早翔の頭に浮かぶ。
どんなに優しい言葉を掛けられ、良好な関係を築いていても、気を抜いてはいけない。裏の社会の入り口は、絶えず身近に口を開けて待っていて、気を抜いた瞬間、引きずり込まれる。
「セブンジョーに客を風俗に沈めるホストがいる」
ふと、龍崎大蔵から言われた言葉がよみがえった。
早翔も、ホストが知り合いになった暴力団員と手を組んで、女性客を風俗に沈めたり、薬物依存症にするといった話を耳にしたことがある。
大蔵の前では必死に否定したが、裏社会と紙一重な場所に身を置いている以上、あり得ない話ではない。
出逢う人には恵まれていた。だが、これからも恵まれるとは限らない。いつどこで大きな落とし穴が待っているかも知れないのだ。
その名に込めた思い通り、一刻も早く、ここから抜け出さなければならないと早翔は思った。
そして、草壁をなるべく早く、この業界から追い出さなければならないと。
草壁は、もともと口が悪く、敵を作りやすい。間違っても、女性同伴で来たヤクザの接待などさせてはならない。
ある日、2号店に立ち寄った時に、早翔は草壁を裏に呼び出した。
「直、その乱暴な物言いも状況を選ばないとえらい目に合うからね。気を付けろ」
「チンピラ怒らせて、もう、1回、タコにされてる」
驚く早翔に、上唇をニュッとめくりあげ、前歯を指さして、「差し歯」とニヤける。
「バカか。なんでそんな危険な目に遭ってるのに、まだこんな仕事続けてるの」
「効率よく稼げるし、酒はタダだし、綺麗なお姉ちゃんと友達になれるし…」
能天気に笑う草壁を、早翔は眉間に深い皺を寄せて見つめる。
「安心しろよ。色々学んで、俺もうまく立ち回れるようになった。このオラオラ系? その乱暴な喋り口と丁寧で優しい接客のギャップがたまらんらしいぞ」
ふざけた調子でそう言って、大口を開けて笑う。
それでも早翔の顔が晴れないのを見ると、早翔の肩をポンと叩く。
「いつまでもガキ扱いするんじゃねーわ。こう見えて、俺も高校の時よりは、人と衝突しなくなってるっつーの。少なくとも、緩衝材のお前が居なかった2年、何事もなく無事だったしな」
早翔は深いため息をついた。
「無事じゃないだろうが。前歯無くして」
「綺麗な歯並びだろ。超高いのはずんだんだ」
草壁が唇を左右に二ッと広げ、白い歯を見せて笑った。
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