失恋

「お前には感謝している。俺を2号店の店長にまで推薦してくれて」

 龍登が沈んだ声で言うと、早翔から視線を逸らした。

「だけど、お前の心が見えた以上、一緒には居られない」

 セブンジョー2号店が無事開店して半月が経ったある日、マンションに帰って来た早翔に、龍登が静かに切り出した。


 本店勤務の早翔は、新人ホストや内勤業務の指導のため、開店以来、2号店に入っていた。

 自然、草壁と話す機会も増える。店長を務める龍登の視線を感じることもあったが、それは業務上の目配りで、他に意味があるとは思わなかった。その日、龍登に言われ初めて、その視線がパートナーとしての自分に向けられていたものだと知った。


「お前の中にあの男がいるとわかったら、俺はもうお前とは付き合えない」

「草壁直也は高校の同級生で親友なだけだよ… あいつはゲイじゃないし」

「お前があの男を見る目は切なく恋する目だ。あいつがゲイかどうかなんて関係ない。お前自身の… お前と俺の問題だよ」

 龍登はゆっくり視線を戻すと、目を細め唇をほころばせる。

「もうずいぶん前から別れようと思ってた。だけど、なかなか言い出せなかった」


 その優しい微笑みが、早翔の気分を軽くさせる。

 浅い嫉妬で、言うほど深刻な話ではない。すぐにいつも通りの空気に戻るはずだという自信が、余裕の笑みを浮かべさせた。

「ずいぶん前からって… いつくらいから?」

「お前が蘭子に惹かれていると感じてから…かな」

「は…? 俺が、蘭子さんに?」

 半ば呆れたような笑みを浮かべ、ぽかんと口を開けて見せる。

 ハハッと笑いを漏らし、眉間に皺を寄せて、「ないよ」と吐き捨てた。


 龍登がため息をつき、ふっと笑う。

「やっぱり自分では気付いてないか…」

 早翔が大きく首を左右に振った。

「ないない! あるわけない、そんなこと」

「だけど、以前ほど蘭子のことを嫌がってはいないだろう?」

 思わず言葉に詰まる。


 呼び出されると、気が進まないながら、金のためだと割り切って蘭子の元に向かっているはずだった。早翔の頭の中では、蘭子に惹かれているなどあり得ないことだ。

 しかし、龍登に言われてみると、最初の頃のような嫌悪感が消え去っている自分に気付く。

 顔を強張らせながら言葉を探る。

「嫌だよ。嫌に決まってる。ただ、慣れてきただけで… そう、慣れたんだよ」

 

 焦ったように目を泳がせる早翔を、龍登が優しく見つめる。

「お前の蘭子に対する嫌悪や憎悪の感情に、俺は何度も熱くさせられた。蘭子のオモチャにされている間は、俺がお前を救ってやれると思っていた。だけど、蘭子に対して小さな愛情のカケラでも見え隠れした時、俺のお前への思いは冷める」

「蘭子さんに… 俺が愛情?」

 また首を大きく左右に振る。

 龍登が浅く息を吐いて微笑む。

「愛情は言い過ぎかもしれない。でも、情はあるはずだ… ここ半年くらいは目を閉じてた。俺がお前を手放せなかったから。だけど、お前の本当に思う相手を見た以上、ケジメを付けたいと思った。お前と俺自身のために」


 早翔はうつむいて頭を抱えた。

「俺はどうあがいたって成就しない相手のせいで、龍登さんに捨てられるの…」

「捨てられる? 捨てられたのは俺のほうだろ」

 早翔が顔を上げると、龍登が真顔で凝視している。誠実だが氷のように冷たい視線だ。

「お前にとって俺は何だろう。どんな我ままも笑って許してくれる優しい兄貴か… 親父か…」

 龍登はふんと鼻を鳴らす。

「まさか恋人じゃないよな… 俺のことを少しでも恋人だと思う余地があるなら、店から向井と二人で消えるなんてしないだろう」

「あ…」と思わず声が漏れる。

「あれは…」

 そこで言葉を詰まらせ、ゴクリと唾を飲み込んだ。


「お前さ、クールな外見なんだけど、案外と顔に出てるの。帰って来た時の顔、後ろめたいことしましたっていうのが、もろわかりなんだよ。ま、俺がお前に惚れてるから見えたのかもしれないけど…」

 ふっと自嘲気味の笑みを浮かべ、視線を逸らした。

「もう疲れた… とにかく出て行ってくれ。俺がいない時にでも荷物を取りに来て、鍵はポストの中にでも放り込んでおいてくれたらいい」

 龍登は冷たく言い捨てると、早翔に背を向け、寝室へと消えて行った。



 早翔はマンションを後にして、あてどなく歩いた。

 これは夢ではないのか…

 早翔の頭が受け入れることを拒否していた。

 龍登との関係が壊れることなど想像したことすらなかった。常に脆さを伴った関係だとわかっていても、龍登とともに過ごす時間は、裸で真綿にくるまれているような心地良さがあり、もしかしたら長い人生、彼とともに歩んで行くような、そんな期待を漠然と持っていた。

 部屋に戻ったら、いつもと変わらず微笑んで、「少し言い過ぎた」と言われるような微かな望みが頭に浮かぶ。しかし、龍登が最後に見せた冷酷な視線が、すべてを打ち消す。


 龍登と初めて会ったのは、高校3年の夏休みだった。

 右も左もわからない高校生に、ホストの手解きをしてくれた。龍登の後に付いて回る早翔を、彼は保護者のように守ってくれた。

「入口にあんなどデカい顔のアップ貼られるの嫌だろ」

「ホストの入門講座終了だな。お前のせいで来月はデカい写真にされるかもな」

 そんな言葉と共に、屈託のない笑顔がよみがえる。

 少し寂しさを滲ませた笑顔で早翔を見送り、戻って来た時は、満面の笑みで迎えてくれた。

 酒の飲めない早翔を絶えず気遣い、優しく見守る。そんな龍登の視線を感じていたから、安心して仕事に励んでこられた。


「もう疲れた…」

 龍登の言葉が突き刺さる。

 今まで一度もダメと否定されたこともなく、どんな下らない悩みや愚痴も真剣に耳を傾けてくれた。ごめんと言えば、いいよと笑って許される、それが普通のこととして、身体に染みついていた。

 早翔の中で勝手に龍登を、心から甘えられ、守ってもらえる家族、何があっても戻ってこられる拠り所にして、心地良い気分に浸っていた。


「俺、龍登さんに甘え過ぎてた… 龍登さんの気持ちなんか全然考えないで…」

 早翔が口の中で呟いた。同時に、瞳が潤む。

 その涙が零れるよりも早く、伝い落ちるひとしずくを頬に感じ、天を仰いだ。

 弾けるネオンのはるか先の暗闇から、ぽつぽつと冷たい雨が舞い降りてくる。

 冷え切った早翔の身体には、むしろ温かく感じる優しい雨だった。

「もう遅いよね… 何もかも」

 早翔がぽつんと呟き、ふっと自嘲の笑みを漏らした。



 気が付くと、早翔の目の前に見知らぬ女の顔があった。

「おはよう… て言ってもとっくにお昼回ってるけどね」

 ニッコリ笑う女は、派手な化粧に、ふんわりとセットされたウェーブヘア、ドレッシーなワンピースに身を包み、香水の匂いを振りまいていた。

 辺りを見回すと、やたら派手な花柄が目に入る。壁紙から天井まで、目がチカチカと落ち着かないほどだ。


「りゅうとって恋人?」

 女はニヤリと笑みを浮かべている。

 早翔が慌てて身体を起こした。同時にズキッとこめかみに痛みが走る。思わず、うっと声が出て頭を抱える。

「あ、無理しないで。今、ご飯持って来るから」

 女はダイニングキッチンに向かった。


 そこは広めのリビングで、花柄で埋め尽くされているが、テレビ周りの棚や、酒やグラスが入ったサイドボード、早翔が今まで横になっていたソファ等の家具類は濃いブラウンで、まるで趣味趣向の攻防を見せられているような内装だった。

「はい、どうぞ。卵のお粥さんとお味噌汁」

 女は盆に乗せたまま早翔に差し出した。


「あ、あの、俺、どうして…」

「うちの人がね、拾って来たのよ。ベンチでぐっちょぐちょに濡れて横たわってた早翔君を」

「なんで名前、知ってるの。龍登さんのことまで」

 女はキャハハと甲高い声で笑った。

「ホストクラブの名刺がポケットにあった。『りゅうと』はうなされて何度も呟いてたから。とりあえず食べようか。お粥さんは冷めたら意味ないから」

「すみません…」

 早翔が頭を下げる。


「あの、名前、聞いていいですか」

 女が穏やかに微笑んで頷いた。

「玲子よ。大石玲子。ほら、食べて食べて」

 早翔が小さく頭を下げ、粥を一口食べる。

「美味しい… 昆布と椎茸の出汁が利いてて薄味なのに美味しいです」

「若いのにすごいわね。プロ級の感想だわ」

 玲子が目を丸くして笑う。


「おう、起きたのか」

 扉が開く音とともに、背後から男の声がした。

 目の前に現れた大柄の男を見て、早翔の身体が硬直する。

「熱は下がったか」

 言うが早いか、逞しい腕を伸ばし早翔の額に手を当てる。

 男の白い半そでから出た腕に、肘まで彫られた和彫りの刺青が早翔の眼前に迫った。

「下がってるな、良かった」

 男は、白いシャツからはみ出した刺青には似つかわしくない、優しい瞳で笑いかける。


「昨日は雨の中、冷え切った身体で死んでるのかと思ったぞ。何があったか知らんが身体は大事にしろよ。若いからって無茶はいかん」

 言いながら男は、ガラステーブルを挟んで早翔の前のソファに座った。

「夫の龍崎大蔵よ。内縁だけど。ほら、もっと食べて」

 玲子はそう言って、大蔵に視線を向ける。

「ほら、怖がってるじゃない。上着着てよ」

「あ… 大丈夫です。あの…」

 早翔が口ごもっていると、大蔵が大口を開けて笑った。


「だよなあ。セブンジョーあたりはうちのシマだから、まるっきり関係ないわけじゃない」

「ちょっと、あなたはもう足を洗ったんだから、うちのシマとか言わないでよ」

 その口調は不満げだが、変わらず柔和な笑顔を見せていた。

 早翔の口からほっと息が漏れ、笑みが戻る。

「あの、ご迷惑をおかけして申し訳ありませんでした」

「固いこと言わなくていいから。さ、食べて食べて」

 柔らかな笑顔で、玲子がうふふと色っぽく笑う。

「なんだ、惚れたのか?」

 大蔵が茶化すと、玲子が半眼で大蔵に視線を送った。


「そりゃ、昆布や鰹節で出汁取って減塩に気を付けてあげても、何も気付かないで、醤油どばどば入れちゃう人よりは…」

 早翔を見て「ねえ」と小首を傾げる。

 早翔が思わず声を漏らして笑った。

「醤油なんてもったいない。せっかくこんなに美味しいのに…」

「でしょ。全くこの人ったらねえ」

 玲子が弾んだ声で早翔と笑い合う。

 その様子を大蔵が満足げに眺めていた。


 ふと、大蔵の顔から笑みが消える。

「そう言えば、セブンジョーにも客を風俗に沈めるホストがいたなあ」

 早翔の粥を食べる手が止まり、驚いた目で大蔵を凝視する。

「うちにそんなホストは居ないと思います。オーナーの京極が、そのたぐいのやり方を嫌っているので」

 しばらくの沈黙の後、早翔が毅然と言い放った。


「若いのにしっかりしてるな。だけど、ホストは個人商売だから、裏で何してるかまでは把握できんだろ」

「うちは最低賃金保証してるし、質の良いホストしか雇ってない。ホストの質で客層は悪くもなれば良くもなる。長年、この世界で生きて来た京極の口癖です」

 真剣な表情で言葉を走らせる早翔を、眩しそうに目を細めて眺めていた大蔵が、そうかと頷く。

「そうだな… きっと俺の聞き間違いかな」

 穏やかな口調で言うと陽気な笑顔を見せた。

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