後手

「一体、どんな手を使った?」

 早翔を見るなり、向井が度数のある銀縁メガネの奥の目を細めて言った。

 新店舗のことで京極に会いに来ていた向井が、VIPルームに陣取って酒を飲んでいる。

「何のことですか。もう用事は済んだんでしょ。うちは女性同伴でないと男性は入店禁止なの。とっとと帰ってください」


 向井はフンと鼻で笑って酒をあおる。

「蘭子から離婚に向けた話し合いをしたいと相談された。原因はお前だろ。年上の女をたぶらかして… 引っ掻き回されてこっちはえらい迷惑だ」

「うわ、アルマンドなんか飲んでる。これ自腹ですか」

 早翔はとぼけた調子で聞く耳を持たない。

「いいか、よく聞け。あの夫婦はうまくいってないように見えて、微妙な均衡で釣り合ってるんだ。お前みたいな若僧には理解できない、大人の複雑な世界があるんだよ」


 早翔がおもむろに向井に視線を合わせた。

「若僧でも、蘭子さんが今、幸せかどうかぐらいはわかるけどね」

 眼鏡の奥の無表情な目が、早翔を冷たく見据えている。

「幸せだろ。湯水のごとくホスト遊びに金使って、楽しい人生だ。女はまず金だ。愛なんて金が前提で芽生えるもんだから」

「向井さん、会社乗っ取りでも考えてるの?」

 向井の顔が一瞬気色ばんだが、すぐに表情を戻し、ゆっくりとグラスを口元に運ぶ。

「人聞きの悪いことを言うな。企業法務に携わる者として、オーナー企業のこれからを視野に、様々に思いを巡らせているだけだ」


 唇をゆがめ、半笑いで細い目をさらに細めて早翔を睨み付ける。

「それとも何か? お前の親父の会社は乗っ取られたとでも思ってるのか」

 早翔の動きが凍り付いたように止まり、向井を凝視する。

「なんだよ、その顔。蘭子の部屋に出入りしてる若僧は、一応調べられるのが当たり前だろうが」

 向井はシャンパンをグラスに注いで早翔の前に置く。

「まあ、飲めよ」

 早翔の止まった息がようやく吐き出され、向井から視線を逸らした。

 別に会社が乗っ取られたとは思っていない。ただ、自分達家族が被っている損害に比べ、会社は名前を変え、父親の右腕だった人を代表に据え、従業員たちも誰一人辞めることなく働いていることに、釈然としないものが残っていた。


「経営にノータッチだったオーナー親族が、社長が死んだ後、しゃしゃり出てきて会社の健全な部分までダメにする。中小企業ではよくある話だ」

 そう言って、早翔の肩に手を掛けたが、その手を払い除ける。

 向井はフッと柔らかく笑った。

「ちょうど事業拡大を計ってた時に亡くなったんだってな。まあ、弁護士も悪い。いきなり財産放棄をするよう迫ったら、お袋さんだって誰も信用できず敵だとみなしても仕方ないから」


 早翔が驚いたように目を見開き向井を見る。

「財産放棄のタイミングを逃したんじゃなかったの」

「どんなに無能な弁護士でもそれはない。お袋さんが財産放棄を拒否して、相続手続きを進めた」

 早翔は唖然として宙を見る。

「まあ、お袋さんも息子に引き継がせるまで、何とかしようと必死だったんだろう」

 気遣うような優しい口調が早翔の胸に響く。


「だけど、いきなり素人が口出しするような会社、しかも無関係の自分の親族まで役員にして、完全に会社幹部を敵に回した。親父さんと頑張ってきた幹部連中にしたら、何とか会社を守りたいと動くのは当然だ」

 早翔が目の前のシャンパンを勢いよくあおった。

 一瞬、頭にキーンと鋭い痛みが走り、しばらく俯き目を閉じる。ゆっくりと顔を上げ、虚ろな目を何度か瞬かせる。


「取引先が一斉に手を引いて、このまま行けば倒産するしかないから、売れるうちに会社を売ったほうが損害も抑えられると言われたって… そう聞いた」

 それは暗い寮の廊下の電話口で、母から告げられた言葉だった。

「誰の差し金か… 陰謀に巻き込まれた…」

 憎々しげに幹部や弁護士の名を上げていた。


 焦点の合わない目で呆然としている早翔に、向井が「その通りだ」と頷く。

「タイミング良く買い手も決まったのは、親父さんの生前の人徳だと言ってた」

「親父の人徳?」

 早翔が眉根を寄せて苦笑した。

「俺たちに借金を丸投げされて…」

「丸投げ? 借入金の連帯保証も引き継がれてるはずだぞ。お前が今、返してるのは、個人の借金だろ」

「個人…」

 早翔が言葉を詰まらせる。


「まあ、オーナー経営だから、どこまでが個人の借金かは曖昧な部分はあるけどな。退職金や弔慰金もでき得る限り支給して、借金も当初の半分にはなってたはずだ。まあ、俺から見てもいいブレーンが揃ってたと思う」

 向井が諭すように穏やかな口調で言いながら、早翔の前に置かれた空のグラスにシャンパンを注ぐ。

「弁護士が自己破産するよう勧めたらしいが、お袋さんのプライドが許さないのか、借りたものは返すと拒否されたそうだ」

「だったら… 自分で返せよ…」

 早翔が絞り出すように言葉を吐く。


「お袋さんは働いたことのない、世間知らずなお嬢さんみたいな人だってな。弁護士だろうが従業員だろうが、見下すような目を向けられると言ってた」

 向井が早翔の肩を抱き寄せた。

「お前があと1年早く生まれていたらな。若き社長の元で何とかなったような気がする…」

 その優しい言葉が早翔の心の奥底を揺さぶり、不意に目が潤む。

「いや… この店の無駄を無くして売上を伸ばしているところと見ると、お前を経営者会議から排除したのが間違いだったな。未成年の高校生というだけで」

 早翔の目から大粒の涙が流れる。

 向井が早翔の震える肩を優しくさすった。



 気が付くとベッドの上にいた。

 見覚えのない部屋に、早翔はあたりを見回した。天井には事務室のような飾り気のない蛍光灯、陽の差すほうを見ると、これまたオフィスの会議室のようなブラインドカーテンが取り付けられた窓。

 起き上がろうとすると、ズキズキと頭に痛みが走り、そのままベッドに突っ伏す。そこで初めて、自分が裸であることに気付いた。


 ふうと息を吐く音がする。

 ギョッとして吐息がしたほうを見ると、そこにスーツ姿の向井が立っていた。

 愕然と固まったまま、向井を凝視する。

「ほれ、水だ。飲め」

 眼鏡の奥の目にはいつもの冷徹な印象はない。

「お… 俺、どうして…」

「お前、酒弱いんだな。ホストのくせに」

 向井はベッドに腰を下ろすと、早翔に水の入ったグラスを差し出した。


 早翔は後ずさって、毛布にくるまる。

「何だよ、その目は」

 向井が苦笑する。

「俺、なんで裸…」

「何だよ、憶えてないのかよ。なかなか良かったぞ… お前のカラダ」

「ア…アンタ… ゲイ… バイなの」

 早翔は、向井の左手の薬指のリングに目をやる。

「いや、ゲイだ。だけど、俺、一人っ子だしな。残念ながら男同士では子供は生まれんから」


 その涼しい口調が早翔を苛立たせる。

「俺のこと抱いたのかよ」

「さっき言ったろ、お前の感想。まあ、もう少し筋肉が欲しいが、悪くはなかったよ」

「アンタ、正体ないヤツ抱いて楽しいのか!」

「お前… 自分が覚えてないからって正体ないと思わないほうがいい」

 向井がクックッと押し殺すように笑う。

「安心しろ、ちゃんと反応してたし、よがり方は実に可愛いかった」


 絶句している早翔のことなど気にも留めず、立ち上がるとベッドの上に鍵を投げた。

「ここは俺の仕事部屋。昔、独立して事務所開いて、あっという間に潰した苦い思い出の場所だ」

 向井が視線を向けたほうを見ると、部屋の一角に事務机と本棚があった。

「ブースも作って、クライアントの行列ができるくらいの事務所にしようと思ったんだがな」

 向井は自嘲気味に笑って早翔に視線を戻す。

「で、組織に属してるほうが向いてたことに気付いたというわけだ。社畜は出勤だから、お前は好きにしろ。鍵はスペアだから今度会った時でいい」

 向井は馴れ馴れしい笑みを唇の端に乗せ、早翔に背を向けた。

 早翔は呆然とその背を見送り、向井が出て行くと同時に力が抜けたようにベッドに倒れ込んだ。


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