挑発

「あの弁護士… クビにしてやる」

 乱暴な言葉のわりに、蘭子は落ち着きを取り戻したのか、その瞳から怒りの色は消えていた。

「お父さんと旦那に報告するのも、向井さんの仕事だから仕方ないよ」

「どっちの味方よ」

 蘭子は早翔の胸に軽く爪を立てた。

 どうやら「旦那」が、怒りを呼び覚ますキーワードらしい。


「あいつ… 蘭子のお遊びにはちょうどいいと思ったなんて、まるで自分が勧めたみたいに父の前で言ったのよ」

「そりゃ、若いホストにベッドの上で、思いつきで言われたなんて事実は、お父さんは知らないほうがいいでしょ」

 軽く笑う早翔の腕から、蘭子が頭をもたげてジロリと一瞥すると、いきなり胸に歯を立てた。

「いてーよ」

 蘭子を払いのけ、引き寄せて抱き直す。

 強引に腕の中に収められて、蘭子の頬がほんのり赤らむ。


「不思議だな」

 早翔が呟くと、「何がよ」とぶっきら棒に返って来る。

「嫌な事は嫌だって言うのが蘭子さんでしょ。店では平気で傍若無人ぼうじゃくぶじんに振舞えるのに、旦那に対しては借りてきた猫なんて、らしくないね」

 蘭子は早翔の腕の中で黙している。その顔からは、何の感情も読み取れない。

「旦那のことがまだ好きだからじゃないの?」

 しばらく沈黙した後、ふんと鼻から息を漏らす。

「ビジネスよ。あっちは事業の中枢に入る手段として私と結婚した。私は今の生活が維持できるなら、男なんて誰でもいい」


 早翔が浅く息を一つ吐き、軽薄な笑みを浮かべる。

「もったいないね。有り余る金があるのに、全く孤独で寂しい人だ。で、旦那に何も言えない代わりに、他人やモノに当たり散らして… 哀れとしか言いようがないな。心から同情するよ…」

 薄笑いで続けようとする早翔の腕を、蘭子が乱暴に払いのける。身を起こすと手を振り上げ、早翔の頬をしたたか叩きつけた。


「生意気なこと言うな! 私の何を知ってるの? 何も知らないガキのくせに!」

 早翔は目の端でチラリと見ただけで、黙したまま蘭子に背を向けた。

 蘭子は手にしたクッションで早翔の背中を叩きつける。

「アンタなんかにわからない! ガキが生意気な口叩くな! たかがホストのくせに! 何様よ! 借金だらけの貧乏人が! 底辺のくせに! 惨めな雑魚ざこ! 哀れんでやってるのはこっちよ!」


 思いつく限りの罵詈雑言を浴びせ、ひとしきりヒステリックな声が寝室に響き渡る。

 そのうち言葉が詰まると、無言で手にしているクッションを、早翔の背中にバンバン叩きつける。その手も止まり、息遣いだけになって静寂が訪れる。


 早翔が「終わった?」と訊く。

「じゃあ、俺帰るから」

 ベッドから立ち上がると、床に散乱した服を拾い集める。

「さっさと帰れ…」

 一気に熱が冷めたような沈んだ声である。

 早翔は服を手にして寝室を後にした。

 隣のリビングで衣服を整えていると、ドアが開く音がする。

 疲れ切ったように色の抜けた顔で、ガウンを羽織った蘭子が立っている。


「なんでもっと早く帰らなかったの?」

「火をけたの俺だし… 一人で怒り狂っててもますますストレス溜まるでしょ。発散も相手がいないとね」

 軽い口調で、片頬をゆがめてニヤリと笑う。

「うぬぼれないでよ。あんたなんか相手にもなってない」

「どうでもいいよ。不満なら他のホストを呼べばいい。皆、喜んで来るよ」

 蘭子はソファに座り、煙草に火を点けた。


「私があんたを捨てたら、借金は返せない」

「借金返すのが早いか遅いかで、返せないわけじゃないよ」

 穏やかな笑みを浮かべながらそう言うと、視線を背けてドアに向かった。

「あんた、私のことが嫌いでしょ」

 早翔が立ち止まり振り返る。

 ソファに浅く腰掛けた薄い背中が、いつもより華奢きゃしゃに見え、手に持つ煙草と吐き出す煙で、必死に虚勢を張っているように見える。

「バーカウンター借りるよ。なんか作る」

 蘭子の肩がほっとしたように、わずかに上下した。


 手早く2種類のカクテルを作り、蘭子の前に持って来る。

「ウォッカとブルーキュラソー、アップルリキュールの適当なカクテル」

 隣に座ると、蘭子は早翔の肩にもたれかかり、カクテルに口を付け美味しいと呟く。

「そっちのカクテルは?」

「アップルジュースにスパークリングワインを少し」

「相変わらずお子様ね」

 ようやく蘭子に、ふっと笑みが戻る。


「俺、ガキだからさ、蘭子さんは旦那のことがまだ好きだから、何も言えないんだと思ってたよ。生意気なこと言ってゴメン」

 蘭子がじろりと早翔を睨むように見上るが、そこに怒りの色はない。

「そうかもしれない…」

 いつになく素直に呟き、視線を戻すと静かに煙草をふかす。


「腹違いの兄がいたの。その男の子が亡くなったから父が私を引き取ったのよ」

 突然話される身の上話に、言葉が見つからず蘭子の肩を抱き寄せた。

 蘭子はちらっと早翔を見ると薄く笑う。

「夫は継母ままははの甥っ子。養子にしたかったらしいけど、父と血の繋がりがないから周りから反対されて。で、私の存在を思い出したんじゃない」

 膨らみのある半開きの唇に、冷ややかな笑みを浮かべる。


「子供の頃から、ずっと彼だけを見つめて来たの。それが男女の愛なのか家族の情なのかわからない。ただ、彼を手放したくなかった、それだけ。だから彼に子供がいるとわかった時、一度の過ちなら許せると思った。その子と私は同じ立場だもの… でも、どうしても彼の子供を作る気にはなれなかった」


 自身を嘲るように、フンと鼻を鳴らす。

「彼は私を好きなわけじゃない。彼にとって大事なのは父。そして父も亡くなった息子を見るような目で彼を見てる」

 蘭子の震える唇が煙草を咥え、わずかな煙を吐き出す。

「そこに私の入る余地なんてない。私の中ではあの男も父も同じなのかもしれない。心のどこかで二人に捨てられたら終わりだと思ってる」


 蘭子は、諦めたようにため息をひとつついて早翔を見た。その瞳は潤んでいるが、いじらしい笑みをたたえていた。

「だけど、一度の過ちなんかじゃなかった。二人目もできて、幸せな家庭生活を送ってる… なのに、彼と別れられないの。愛してないと思う… でも嫌いにもなれない。自分で自分がコントロールできない」


 早翔はグラスに残ったカクテルを一気にあおった。

「ちょっと、そんなに一気に飲んで大丈夫?」

「これ、ほとんどジュース。俺も本物のカクテル飲む。蘭子さんももう一杯どう?」

 早翔が立ち上がると、蘭子もグラスのカクテルを飲み干し立ち上がった。

「あなた、やっぱり育て甲斐があるわ。もうこんな美味しいカクテル作れるようになって」

「蘭子さんにもらったカクテルバイブルで日々勉強。酒はいくらでもあるし客の受けもいい。カクテル一杯がドンペリに化けたりもする」


 早翔が笑いながらカウンターの中に入る。

 蘭子はスツールに浅く腰掛けカウンターに両肘をつくと、うっとりと早翔がカクテルを作る所作を眺める。

 早翔は蘭子の目の前に、琥珀色のカクテルを置いた。

 蘭子が目を輝かせて、カクテルグラスの細い脚に手を伸ばす。

「サイドカー。ドンペリに化けたカクテルでは人気ナンバーワン」


 緩んだ頬から笑みが消え、不服そうにグラスを横に滑らす。

「店で大勢の女が飲んでるものなんて、飲みたくないんだけど。別のにしてよ」

「そうそう、それでこそ蘭子さん。みなぎるプライド、唯我独尊ゆいがどくそんじゃないとね」

「からかわないでよ」

 蘭子は片方の口角を上げて乾いた笑みを浮かべた。


「蘭子さんが店の経営することに対して、お父さんはどんな反応だったの」

 ふと宙に目をやり、穏やかに和んだ笑顔を見せる。

「昔、成人のお祝いにアクセサリーとカクテルセットをもらったの。蘭子はカクテルセットのほうが嬉しそうだったとか言ってた」

 蘭子が指さす棚のほうに、エルメスの木箱に収められたカクテルセットが飾られていた。

「ただホストクラブに遊びに行ってたわけじゃないんだな、なんて買い被りもいいとこよ」

 あどけなく笑う蘭子を、早翔が真顔で眺めている。


「蘭子さんのお父さん、いくら死んだ息子の影を求めてるって言っても、実の娘に勝るものはないと思うよ」

 蘭子は無言で早翔に視線を向ける。

「またガキって言われそうだけど、あっちが作ってるなら、蘭子さんも自分の家庭を作ったらいい。それでも形式上の夫婦でいなければならないほど必要な男かどうか、お父さんに訊いたらいい」

 蘭子の瞳が揺れて、あらぬほうを見つめる。

 しばらく沈黙が続く。

 部屋には、早翔がシェイカーを振る音だけが響いている。


「落胆するわね…」

 ようやく蘭子の口が動いた。

「もし離婚なんて話になったら、父は… すごく失望するわね。私のことが嫌いになるかも知れない…」

 早翔がふんと鼻で笑う。

「らしくないこと言う。その程度の父親なら蘭子さんから捨てればいい」

「捨てるって…」

 蘭子が目を丸くして言葉を詰まらせる。


「メメント・モリ」

「何… それ」

「死を忘るなかれって意味のラテン語。高校の担任が言ってた雑談。受験に関係ないしどうでもいい言葉だと思ってた。けど、俺にこそ必要な言葉だったと、親父が死んだ時に気付いた。いつまでもあると思うな親と金ってね」

 早翔が軽快に笑う。


「お父さんが死んだ後も、別に家庭を持った旦那と夫婦として生きていけるの?」

 再び蘭子の視線が逸れ、目が泳ぐ。

「みんないつか死ぬことは漠然と受け入れているけど、実際、今生きてるのに、自分の死を想像できないよ。誰もがみんな、気付かないうちに死んでいくような気がする。その死の瞬間に『ああ、今死ぬんだ』って諦める。その瞬間残るのは、絶望か満足か…」


 早翔が蘭子の前に白い色のカクテルを置く。それはペンダントライトの灯りでキラキラと輝き、ゴールドにも見える。

 綺麗ねと呟き、一口飲む。

「レモンの風味が爽やかで美味しい… 何ていうカクテル?」

 穏やかに微笑み、もう一口、口に含む。

「エックス・ワイ・ジー。これで弱気な蘭子さんはジ・エンド… 終わりだ」


 早翔が同じ白のカクテルを蘭子の前に静かに置いた。

「エックス・ワイ・ジーのラムをジンに変えて、ホワイトレディ…」

「ホワイトレディ…」

「そう、ホワイト… 白からのスタートだよ。ホワイトレディ、これは女王のカクテル。女王は女王らしく誇り高くあれ」


 早翔は柔らかな笑みを浮かべ、蘭子を見つめている。

 蘭子は呆気に取られたように固まっていたが、ゆっくりと瞬きをすると、輝くような瞳を据えてニヤリと笑った。

「小細工がまるで子供ね」

「俺ガキだからさ」

 蘭子が白い歯を見せると早翔も満面に笑みをたたえた。


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