本名

「今から店に行かない?」

 早翔が恐る恐る誘ってみると、肩のあたりに乗っていた蘭子の頭がむっくりと起き上がる。

 先ほどまでの弱々しく切ない瞳が嘘のように消え失せ、いつもの意地悪を誇示するような尊大な目をニヤつかせて睨んでいる。


「さっきまでは行ってあげてもいいかなあって思ってたけど、あなたがその気をなくさせたの。それに今からシャワー浴びて化粧して髪をセットして、着いた頃には閉店間近よ。諦めなさい」

 蘭子は早翔の胸に頭を乗せると、触れた乳首を耳たぶで弄ぶ。

「俺、このままだとあの店辞める羽目になるよ」

「辞めればいいでしょ」

 そう軽い口調で返したが、言葉に出して初めて気付いたように、上体を起こしてニッコリ笑った。

「そうよ、辞めればいいのよ。それで別の店に勤めて、私もそこに客として行く。もちろんあなたを指名する。これなら問題ないでしょ」


「俺、あの店がいいの」

「なんでよ。私が大人な解決法を提案しているのに」

 蘭子が不満げに唇を突き出す。

「店の名前が気に入ってるから」

「セブンジョーが? 京極がホスト7人で始めた店だから、そう付けたって聞いてるけど」

 早翔が「へえ…」と初めて聞いたようなそぶりで宙を見る。

「何よ…」

 その横顔を怪訝な表情で見つめる。


「七瀬」

「ななせ?」

「俺の本名。数字の七と、浅瀬の瀬で七瀬。吉岡七瀬」

 柔和な笑みを浮かべ優しい眼差しを蘭子に向ける。

「だから、7は俺のラッキーナンバー。蘭子さんにも会えたしね」

 蘭子がはにかむような笑顔を見せ、早翔の胸に抱きついた。

「七瀬… 早翔より素敵な名前ね。そのまんま源氏名になりそうな… 早翔よりずっと素敵」


「早翔は… ホストが俺の目的じゃない。できるだけ早く借金を返して俺の未来に向かって翔び立つこと。金銭感覚がズレていく生活の中で、常に本来の目的を忘れないための念を込めて付けた名前」

「あなたが翔び立つ未来ってどういう未来を考えてるの?」

「公認会計士になりたい」

「会計士ねえ…」

「中小企業がどんな状況でも乗り越えられるよう経営者の相談に乗って、倒産を回避させるそんな会計士」

 ふうんと気の抜けたような相づちが返ってくる。


「高校時代の友人に話したら、自分も会計士目指すって言い出して。いつか二人で会計事務所開こうって話してるんだ」

「いいわね、男同士の友情って… でもそんなの面白くないわよ」

 冷笑まじりの言葉に、早翔はふうと息をひとつ吐く。

「別に蘭子さんに理解してもらおうなんて思わないけどね」


「ねえ…」と、蘭子が再び起き上がり目を輝かせる。

「あなた経営者になりなさいよ」

 今度は早翔が、「はあ?」と冷笑まじりに口を開ける。

「会計士なんて事務屋じゃないの。弁護士、会計士はなるものじゃなくて利用するものよ」

 早翔は天井に視線を向けて、諦めたようにああと声をもらした。かまわず蘭子が腕をつかんで揺らす。


「新しいホストクラブ作るのよ。それで名前にセブンってワード入れるの。どうよ」

「無謀な提案だよ」と、呆れ顔で即答する。

「ホストの経験も浅い若造が維持できるわけない」

「早翔… 七瀬ならできると思う、絶対」

 思わず、顔をゆがめて苦笑する。

「その根拠のない自信、どこから来るの? 俺、蘭子さんのそういうとこ尊敬するけど怖いわ。あっという間に何千万も吹っ飛ぶのに」


「何千万て、いくらあればお店作れるのよ」

「店の大きさにもよるけど、2、3千万くらいあれば、中箱くらいの店は開けるんじゃないかな」

「それっぽっち。私、もう何件くらいホストクラブ開店できたぁ?」

 蘭子が素っ頓狂な声を出すと、早翔が派手に声を上げて笑った。

「何を今さら言ってんの。それに店開くより維持するほうが大変だから。質のいいホスト雇って、客が見込める立地を選ばないと、ホストクラブも乱立してるから維持していくのも難しいよ」


 蘭子が半眼で、唇をニヤリとゆがませ睨み付ける。

「そこまで言える高卒いないから。しかも経験2年にも満たないペーペーなのに」

「毎日、帳簿見せられてたらそのくらい言えるよ。だけど実際に経営できるかどうかは別。俺には圧倒的に経験が足りないから」

「ああ、もう!」

 蘭子が側にあったクッションを、早翔の顔面めがけ投げ付ける。

「涼しい顔して腹が立つ。私を店に行かせたいなら何とか考えなさいよね。意気地なしなんだから」


「蘭子さんがクラブを経営すればいいよ。毎日帳簿見て、ホストの尻叩けば繁盛するんじゃないの」

 早翔の穏やかな笑顔と対照的に、蘭子は目を大きく見開き言葉を詰まらせる。

「…経営… 私が?」

「そ、客側に立った経験も店を作っていく上で重要だから。京極さんに相談してみたら。彼、今2件目の出店考えてるから。出資するから共同経営させろって言ったら、絶対断らないと思う。こんな美味しい話ないし、喜んで物件もホストも探してくるよ」

「私が経営… 私が… けいえ…」

 独り言のように呟いている。

「蘭子さん、壊れた?」

 早翔が自分に投げられたクッションを投げ返す。

 ハッとして我に返った蘭子は、まるで憑き物が落ちたような、清々しい瞳で顔をほころばせた。



 思い立つと待っていられない性格のようで、自身の弁護士の向井に連絡すると、その夜の内にセブンジョーのオーナー、京極を交えて話し合いを持った。

 顔を見せなくなった蘭子が、突然閉店後に早翔と弁護士を連れて現れたので、京極は最初こそ面食らった様子だったが、すぐにその意図を理解し、彼女の気が変わらないうちに話を進めようと、早口で自分の思い描いていた新規店舗のプランをまくし立てる。

 耳を傾けながら、蘭子の瞳が爛々と輝きを増し、自信をみなぎらせていくのがわかった。



 それから数週間後のことだった。

 開店したばかりのセブンジョーで客の接客をしていた早翔の元に、蘭子の家政婦をしている凪子なぎこから電話が入った。

「ごめんなさい… お忙しいのに… あの… 奥様が… 来ていただけると… あの」

 必死な様子で口ごもりながら言葉を探す凪子を遮って、「すぐに伺います」と応じる。


 凪子から電話があること自体異例のことなのに、その焦った声が事情を聴くよりも緊急を要することを表していた。

 蘭子の元に向かうことを京極に伝えると、彼はおろおろとうろたえ始める。

「何、何があったの?」

「知らない。とにかくすぐに来てくれって」

「まさか、新店舗の出資の話、気が変わったとか言わないだろうね。もう色々進めてるのに」

 京極は情けない声で顔をゆがめる。


「仮に蘭子さんの気が変わったとしても、京極さんの計画が当初の予定に戻るだけだから心配ないですよ。大丈夫。開店が少し先に延びるかどうかの違いで絶対成功するから」

「そっか… そうだよね」

 早翔の余裕の笑顔を見て、安心したように微笑む。

「君は全くホストにしておくのはもったいないよ。とにかく急いで」

 そう言うと店の外に出て、自らタクシーを止め早翔を乗せた。

「蘭子さんの気が代わりそうなら何とか早翔の力で…ね。戻ってこなくていいから、とにかく頼むよ」

 京極は早翔に向けて握った拳を小さく振った。



 マンションの玄関で、凪子は緊張した面持ちで早翔を出迎えた。

 凪子は蘭子より2、3歳下だが、化粧っ気がなく髪も引っ詰めて黒のゴムで縛っているだけで、服装も地味なせいか年齢より老けて見える。

 視線を合わせるのを避けているのか伏し目がちで、居ても空気のように存在感がなく、何度か廊下で遭遇しては、蘭子と二人だけだと思い裸でうろついていた早翔を狼狽えさせた。


 そんな凪子が、真っ直ぐ早翔の目を見て顔をゆがめている。

「先ほどまで大旦那様と旦那様がいらしてたんです。お二人がお帰りになった後、もう奥様が大変で…」

 うっすら目に涙を浮かべ感情を露わにした凪子は、本来の年齢通りの顔になっている。早翔が優しく微笑むと、ほっとしたのか幾らか表情を戻した。


 通されたリビングダイニングは、床に割れた皿やグラスが散乱し、白地にマーブル模様のカーペットは、ぶちまけられた食べ物や飲み物で悲惨な色に染まっていた。

「帰るよう言われたのですが、奥様が心配で… どうしようか悩んだのですが、ご迷惑承知で早翔さんにお電話してしまって… 申し訳ありません」

「知らせてくれてありがとう。凪子さん、帰っていいよ」

 そう言って、丁寧に頭を下げている凪子の背中を優しく起こした。


 寝室のドアを開けると、ベッドの上で蘭子がうつ伏せになりクッションに顔を埋めていた。

「帰れって言ったでしょ! とっとと帰れ!」

 うつ伏せのまま、乱暴な言葉が飛んでくる。

 早翔は静かにベッドの傍らに歩み寄り、ゆっくりと腰掛ける。

「帰っていいの?」


 ビクッと跳ねて頭を起こした蘭子の瞳が大きく見開き、早翔を捉える。みるみる顔がゆがみ、泣いているような、怒っているような表情で勢いよく早翔に抱きついた。

「大丈夫?」

「大丈夫なわけないでしょ!」

 泣いてはいない。

 荒々しく早翔を押し倒すと、強引に唇を重ねて激しくむさぼる。

 早翔は蘭子のやり場のない怒りを全身に感じ、制御不能になった感情の赴くままに身を任せた。

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