思慕
早翔がいつも通されるリビングは、毛足長めのブルーのラグやカーブを描く革張りの白い大きなソファ、棚に並べられたバカラのグラスや光沢のある黒褐色のバーカウンター、その一つ一つは高級感漂うものであるが、全体的にこじんまりと収まっていて、高級マンションにしては圧倒的に広さが足りない。
「それプライベートリビングだよ。まあ、庶民の
龍登に話すと、そんな答えが返ってきた。
「どこ見てるのよ。集中して」
蘭子が、カウンターに背を向け、部屋を見回す早翔の耳を引っ張る。
「どんなお酒も、量が飲めるかどうかはあまり関係ないの。要は味や香りがわかるかどうかよ」
ボルドーのナイトガウンをはだけ気味に羽織って、カウンターの中に立ち、早翔を前にいつもの
「日本酒は苦手だな」
「舌先に少し乗せて転がすだけでいいの。味を見たらここに吐き出して」
そう言って、小ぶりのボウルを差し出す。
早翔は舌先をペロリと出してグラスの日本酒に少し浸すと、すっきりとした炭酸のような爽やかさを感じる。言われた通りに少し口に含んで舌の上で転がした後、ボウルに吐き出した。
「美味しい。甘い感じ… まろやか? 何て言ったらいいんだろう…」
その様子を眺め、満足げな笑みを浮かべる。
「ミルキーな香りがわかる? 生だから感じる香りよ。苺のようなフルーティーな香りと表す人もいるのよ」
早翔がもう一口含んで味わってみる。
「うん、フルーティーって感じ、わかるような気がする。きっとカクテルのベースにしたらスッキリした味になるね」
蘭子は煙草に火を点けゆっくりとくゆらせる。
「あなた育て甲斐があるわね」
「俺なんか育てないで、本物の子供育てたらいいのに」
深く考えずに、何気なく出た言葉だった。
蘭子の顔から表情が消え、そのまましばらく固まる。
「俺、なんか変な事言った?」
相変わらず軽い調子で、へへッと笑う。
蘭子は煙草を吸うと、早翔の顔に向けて煙を吹きかけた。
「そんなこと簡単に言うなんて、まだまだ子供ね」
呆れたように言うと、口元を緩めて苦笑する。
おもむろに、手元のスイッチを入れると、音楽が流れてきた。
「ニュルンベルクのマイスタージンガー」
早翔がぼそっと呟くと、蘭子が目を丸くする。
「何でも知ってるのね」
「音楽の授業で聴いた。ワーグナーと言えばこれとタンホイザー、みたいな代表曲」
「私は高校時代、こんな曲知らなかったけど」
「はあ… いちいち比べないでよ」
顎を突き出し、うんざりしたように半目で見ると、蘭子が「別にいいでしょ」と唇を尖らせて笑う。
「俺の高校さ、芸術科目は音楽一択だったの。受験勉強に影響しないという理由で。どうせ大学行かないなら美術とか工芸とか色々やりたかったなあ」
「そんなの、今からだってできるじゃない。私だってクラシックコンサートに通うようになったのは大人になってからよ」
蘭子がふふんと笑って目を閉じる。
「この曲を聞くと明るくなれるの。何だか力がもらえる気がして…」
「これ、歌の上手さで花嫁を奪い合う物語のオペラだよね。邪魔は入っても、最後は愛し合う者同士が結ばれるハッピーエンド」
早翔が無邪気を装い大袈裟に顔をほころばせた。
「蘭子さんは? 蘭子さんのハッピーエンドの続きは…」
蘭子が「はぁ?」と口をゆがませる。
「旦那とはここじゃなくて、もっと大きなリビングで仲良く暮らしてるんでしょ」
蘭子はフンと鼻を鳴らすとカウンターから出てきた。
「付いて来て」
そう言ってリビングを出ると、寝室を通り抜けバスルームへと向かう。ここまでは早翔も出入り圏内だ。
バスルームの開けたことのない扉を開けると、玄関ホールから続く廊下に出た。
そして、その先に全面ガラス張りの窓のむこうから、明るい陽光が射し込むリビングダイニングルームが、早翔の目に飛び込んできた。
大理石の床を横断するように、白地に濃紺とターコイズブルーが複雑に絡み合ったマーブル模様のラグが敷かれ、贅沢な空間に溶け込むように白を基調にしたキッチンと、ブラウンのダイニングセット、十分な空間を置いて、ブラウンのソファセットが置かれていた。
バーカウンターのある部屋の4~5倍はありそうな広さで、ウッドブラウンの壁、観葉植物も置かれて暖か味を演出しているが、どこか生活感の感じられない、モデルルームのような無機質な空間が広がっていた。
ただ無言のまま部屋を見渡している早翔を、蘭子は半笑いで眺めながら煙草をふかしている。
「ここで誰と生活してるって?」
上目遣いで妖艶な視線を早翔に送ると、ブラウンのソファに体を預ける。
「もうとっくに終わってるわよ。あっちはあっちで、好きな女と子供作って仲良くやってるらしいわ」
特に感情を含めることなく淡々とした口調である。
「旦那のこと好きで結婚したんじゃないの?」
少し黙した後、さあねと半笑いで返す。
「父が見込んで私の夫にした人だから」
「それで勝手に別の家庭作られて、蘭子さんは平気なの?」
蘭子はもの知らずな子供を見るように、半ば呆れ、半ば愛くるしい目で早翔を見つめる。
「だって父が何も言わないから。自分が育てた有能な男なら、モラルは問わないんでしょ」
煙草を一口吸うと、遠い目をしてしばらく黙す。
「まあ、父自身がモラルが問えるような男じゃないから… 私は妾の子だからね」
そう言って早翔を見る蘭子は、無垢な少女のような笑みを浮かべている。
「お母さんは? その… 元気なの?」
蘭子は首を横に振って軽く息を吐いた。
「生みの母は顔も覚えてないわ。覚えているのは一度も振り返らず去っていく後ろ姿。簡単に娘を手放す… 下らない女よ。育ての母は… 私と彼との結婚を一番望んでいた。結婚式を見届けて… しばらくして病気で亡くなったわ」
早翔が、珍しく根元近くまで吸っている煙草を取り上げ、クリスタルの灰皿にねじ込むと、新たな一本に火を点けて渡す。
「生みのお母さんも色々事情があったと思うよ。蘭子さんの幸せを考えて悩んだ結果の選択かも知れないし」
「あなたってやっぱり子供ね」
蘭子が目を細めて唇に笑みを浮かべる。
「でも、あなたが言う通りかもね… お蔭で裕福に… 幸せに成長できたから、捨てられてよかった… 感謝するわ」
笑った瞳に悲しみの色が滲む。
「あれ」と煙草を持つ手で指した先に、その場には似合わない小さなウサギのぬいぐるみが置かれている。窓辺に置かれた観葉植物の足元で、木製の椅子に座りじっとこちらを覗いているようにも見える。
「物心ついた頃には私の手にあったの。あんな感じのウサギのぬいぐるみ。ずっと持ってて、ピンクが灰色になっても、ずっと持ってた」
煙草を口にする唇が、かすかに震えている。
ゆっくりと煙を吐き出すと一呼吸置く。
「父はそのぬいぐるみを無造作に取り上げて捨てたの。その時、あれは母なんだって思った。男にとって女は、ボロボロになったぬいぐるみみたいに、捨てても平気な存在なんだって… でも、同じ。私もその時捨てた…」
「俺も…」
早翔の口から微かに漏れる。
「俺も捨てられたらな…」
蘭子は切ない眼差しを早翔に送る。
「ぬいぐるみは嫌いよ。ウサギも見たくもない。だけど、酔っぱらった時に少し眺めるくらいはいいじゃない。安物のぬいぐるみでもしばらく眺めていたいじゃない」
そう言って、ぬいぐるみに目を落としながら煙草を口に運ぼうとする、その手を、早翔が止めた。
ごく自然に早翔の指が蘭子の頬に触れ、唇までなぞり、そのまま自身の唇を重ねる。
ゆっくり離すと、すがるような瞳が早翔を見つめている。ふっと視線を逸らし早翔の胸に顔をうずめた。
「こうしていて。しばらくこのままで」
消え入りそうな声とともに、胸に冷たく濡れるものを感じる。
早翔は、蘭子を優しく抱き上げ寝室へと運んだ。
ベッドに横たえられた蘭子は、いつもの征服者のような視線は封印され、切なく哀しい瞳を潤ませている。早翔に触れる細い指先はかすかに震え、そこに満ち溢れていた傲慢なほどの絶対的自信も消え去っていた。そして、それがいちいち早翔の心に揺さぶりをかける。
その日、早翔は初めて自ら蘭子を抱いた。
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