浄化

「やっと帰って来たか。どう? 蘭子の毒牙で一皮剥けた?」

 龍登は、朝方に帰宅した早翔をふざけた調子で迎えた。

 早翔は焦点の合わない虚ろな目で、放心したようにソファにへたり込んだ。

「大丈夫か、お前」

 龍登がうなだれる早翔の隣に腰掛ける。


「俺… 蘭子さんに襲われた」

「そんなこと言われなくてもわかってるわ」

 相変わらず茶化した調子である。

「もしかして初めて?」

 早翔が頷くと「よかったなあ」と肩を小突く。

「初めての女に蘭子は極上品だ」

「よくないよ」

 早翔が力なく呟く。

「俺… 一皮っていうより大事なもんまで全部むかれた」

「どういうことだよ」


 早翔が顔を上げ正面を見据える。

 龍登の視界に入るその整った横顔が、彫刻のように白く美しい。

「俺… 女には興味ない… ゲイだから」

 そう言うと、上着の左右の腰ポケットから100万円の札束を出してテーブルの上に置き、さらに内ポケットからもう一束を出す。


「ポケットに押し込まれた。俺の今日の値段… 蘭子さんが店で使うはずだった金、俺の体に払った」

 龍登の弾けたような笑い声が響いた。

「よかったじゃないか。借金返すのが少しでも早くなれば万々歳だろ」

 早翔が潤んだ瞳で、恨めしげに龍登を見る。

「俺、ゲイだよ」

「さっき聞いた」

「ゲイなのに金のために女に抱かれて… 惨めだ」

 龍登が早翔の肩を抱き寄せた。


「借金、早く返すためだろ。店に来て光輝の金になるくらいなら、お前の体でふんだくれ。これはビジネスだ。割り切って考えろよ」

「俺の気持ちは? 俺の心…」

 早翔の目から涙がこぼれた。

 その涙を龍登が優しく唇で拭った。

「お前の気持ちも体も俺が浄化してやる」

 早翔が驚いたように目を見開く。


「龍登さんもゲイ?」

「俺、どっちもできる。好きになった相手に合わせて、何にでもなれるカメレオンなの。今は…… もうずっと前からお前に夢中」

 囁くように言うと、優しく早翔を押し倒す。

「俺がお前をいくらでも浄化してやる。俺がお前の体にベールをまとわせる。たとえ女に触れられても、決して汚れないベールだ」

 龍登が早翔の唇に、自身の唇をそっと重ねる。早翔の気持ちを確認するように甘く舌を絡ませると、首筋から、ゆっくりと舌を這わせていった。



 蘭子は店に顔を出さなくなった。当然、店での早翔への風当たりが強くなる。

 特に、何度誘っても「そんな気分になれない」と断られ続ける光輝にとっては、Nо.1からの転落がかかっている。

 グラスを運ぶ早翔の前に、足を出して軽くひっかけ、グラスが派手な破壊音をたて早翔が転ぶ様を、頬をゆがめ満足げに見て憂さを晴らしたりする。


「蘭子さん、お願いだから店に来てよ」

「あなたが指名できるなら行ってもいいわ」

 蘭子は上目遣いにいたずらっぽく笑い、オレンジジュースの氷をストローでカラカラと回す。

「我まま言わないでよ。俺、店では下っ端なんだから、うまくやっていきたいの」

「私が京極に言ったら指名変更もできるし、光輝を辞めさせることだってできるわよ」

 早翔ががっくりと肩を落とす。


「俺を困らせないでよ… 蘭子さ~ん」

 情けない声で哀願すると、嬉々とした笑い声が返ってきた。

 大通りに面したガラス張りの大きな窓から昼下がりの日差しが降り注ぎ、蘭子の手入れの行き届いた白い肌がキラキラと輝いている。

 しばらく眺めていると、蘭子が「何よ」と白けた口調で言う。

「蘭子さん、綺麗だね」

「何言ってるの」

 フンと鼻で笑って、オレンジジュースを一口飲む。


 早翔がテーブルに両腕をつき、首を傾げて覗き込むように蘭子を見る。

「この後、店に行ってみる?」

 蘭子が早翔を見つめ返して、うふふと笑う。

「今日は早翔が休みだから誘ったのに… 行くわけないでしょ」

「光輝さんはいるよ」

「だから、光輝はいいの。し・つ・こ・い。あいつも歌舞伎に連れて行ったことあるけど最初からずっと爆睡してたのよ」

 馬鹿にするようにフンと鼻を鳴らす蘭子に、早翔が軽くため息をついた。


「夜中まで仕事してたのに、11時からの歌舞伎、しかも3時まで… 普通寝るよね。蘭子さん、厳し過ぎるよ」

「あなたは寝なかったわ。ずっと起きてて物語の解説までしてくれた」

 早翔が視線を逸らして、ふうと音をたてて息を吐く。

「いちいち比べられるといい気しないけど。光輝さんも俺も…」

 眉尻を下げて、哀れな表情を作る。

「蘭子さん、大人になってよぉ」

 泣きそうな声で甘えるように言ってみる。

「明日の朝まで付き合うなら店に行ってもいいわ」

 そう言うと、蘭子はやんちゃな視線を早翔に送り無邪気に笑った。



「これはビジネスだ。割り切って考えろよ」

 龍登がそう言った。

「風俗ってね、理由や目的があると結構坦々と楽にできたりするのよね」

 麗華の言葉である。

 早翔はそうかもしれないと感じるようになっていた。

 どこをどう触れれば蘭子がどうなるか、反応を見ながら、まるで生物学の実験でもしているような気分で、冷静に頭を働かせる。ふとした瞬間に我に返って、自嘲の笑いを漏らす。


「何よ… 何がおかしいの」

「何でもない…ごめん。ちょっと頭がクリアになった」

「攻めが足りないわね」

 蘭子がニヤッと妖艶な笑みを浮かべると、いとも簡単に早翔を組み敷き馬乗りになった。こちらはすでに早翔の体を知り尽くしている。

 これはビジネスだ。理由や目的があるなら簡単なこと…

 早翔は蘭子のなすがままに任せた。



「何で、歌舞伎にも詳しいの?」

 蘭子がうつ伏せに寝ている早翔の白い背中を撫でまわしながら訊いた。

「別に詳しくない。高校の課外学習で一度観ただけ」

「へえ… 良い高校だったの?」

「さあね。でもすごいことだと思ったよ。何百年も前と同じ演目を現代で観てる。しかもテーマになってる正義感も世界観もほとんど違和感がない。時代や社会が違っても、今とそれほど変わらない人々が、同じように生活していたんだ。連綿と育まれてきた国民性を感じるよ」


 蘭子の手は止まっていた。無言のまま早翔に視線を落としている。

「どうしたの?」

 早翔が体を起こして蘭子を見る。

「不幸よね… あなたのような頭のいい子が大学に行けないなんて」

「大学に行くのが全てじゃないし、不幸だとも思ってない。大学行った俺の友達なんて毎晩飲んでるって言ってた。やってること変わらないね」

 早翔が大らかな笑顔を見せる。


「お酒、あなたにも飲めるものがあるわ。来て」

 蘭子が思い出したように言うと、裸のままリビングへと出て行った。

 ウッドブラウンの壁の前に立ち、スイッチのようなボタンを押すと、ブラウンの壁が、弱い機械音を立てながら自動でゆっくり開く。

 そこにバーカウンターが現れた。


 蘭子はカウンターの中に入るとシェイカーを取り出し、リキュールを入れシャカシャカと振り出す。

 シャイカーを振る度に豊満な胸が揺れ、それを見て早翔が笑うと、おどけてわざと胸を大きく揺らす。

 二人でひとしきり笑い合った後、蘭子がシェイカーからカクテルをグラスに注いだ。


 スカイブルーの美しい色に、思わず「わぁ…」と声が出る。

「あなたのイメージはこんな感じかな」

 透き通った青の液体が、逆三角形のカクテルグラスの中でキラキラ輝き、空とも海とも思わせる小さな世界観を作り上げていた。

「これが俺のイメージ… なんだか小さなグラスの中に、壮大な宇宙が凝縮されてる感じがする」

「まるで詩人ね。飲んでみて」

「ちょっと飲むのがもったいないね」

 早翔がグラスにそっと口を付け、一口含んだ。

 爽やかな酸味と甘みが広がり、それほど強いアルコールを感じない。


「甘くて美味しい… これ何て言う名前なの? 決められた作り方とかあるの?」

 蘭子は満足げに微笑む。

「過去のバーテン達が作ったレシピは無数にあるけど、これは私があなたのために作った、世界で一つだけのものよ。私はその場の雰囲気で作るの。お酒が強い人にも弱い人にも合わせて、オシャレに作れちゃう。だからカクテルって楽しいの」

「世界で一つ、俺だけの… なんか嬉しい」

 早翔がもう一口飲む。

「本当に美味しい。蘭子さん天才だよ」

「喜んでもらえて良かった」


 蘭子が煙草に火を点けると、ゆっくりと煙をくゆらせる。

 光沢のある黒褐色の木製棚に並べられた、各種の酒瓶やグラスを背に、ペンダントライトに照らされて、蘭子の肌が黄金色に輝いて見える。

 自分がどう見えているか理解しているのだろう、上目遣いで早翔に甘い視線を送る。

「ここでこうしているのが一番好きなの」

 妖艶な曲線を描く指で挟んだ煙草を一口吸うと、唇を突き出して斜め上へと煙を吹き出す。

 まるで一枚の絵画を見ているようだ。


「ホストって湯水のように酒を飲む。平気で限界超えて飲んで裏で吐いて、それを美徳だとでも思ってる。客に金を使わせることが目的だから仕方ないけど。でも、本来ならそんな飲み方お酒に失礼よね。だから、本当はホストクラブなんて嫌いよ」

「だったらなんで行くの」

「何でかな… わからないわ」

 蘭子は無垢な笑みを浮かべ、二口吸っただけの煙草を灰皿に押しつけた。


 

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