玩具

 グラスが割れる衝撃音が耳をつんざき、その場の空気を凍り付かせている。

 豪華なシャンデリアから降り注ぐ光をまとい、ゆったりと革張りのソファに腰掛け、女はおもむろに足を組み替えた。

 床に散らばるグラスの破片は、青い間接照明を反射して、さながら宝石のようにキラキラ輝いている。


 早翔が散らばった破片を片付けようと屈みかけると、女は銅製のアイスペールから、わしづかみした氷を早翔めがけて投げつけた。

「アンタ、人をバカにするのもいい加減にしなさいよ!」

 ヒステリックに叫ぶ女は、店に大金を落とす極太客で、光輝みつきをNо.1に押し上げた黒田くろだ蘭子らんこである。


「今日は何の日だか知ってるんでしょ」

「蘭子さんの誕生日で~す」

 隣に座る光輝が、蘭子の顔色を伺いながら軽く言う。

 その日、用意されたシャンパンで誕生日の乾杯をする際に、早翔にソフトドリンクをそっと差し入れるところを蘭子が見ていた。

 それを寄こすよう言いつけ取り上げると、少し鼻を近づけ、直後に早翔めがけて投げつけたのだ。


「私の酒が飲めないの!」

「蘭子さん、こいつ酒弱くて…」

 すぐさま龍登が口を挟む。

「関係ないわ! 飲め!」

 蘭子は、シャンパンのボトルを掴んで差し出す。

「代わりに俺が…」

「お前だよ!」

 前に出た龍登を、怒号で遮り、早翔を睨みつけている。


「はい、飲ませますよ。すぐ飲ませますね」

 光輝が蘭子からボトルを受け取ると、早翔の前まで来る。

「はい、飲んでください。蘭子さんの命令だから」

 光輝は、両目を大きく見開き、ニヤリと笑いながら間近で睨む。


 早翔はボトルを半ば奪うように取り、上を向いて一気に流し込んだ。

「いいねいいね。ぐいぐい行こう」

 光輝が一気コールを促す。

 光輝の声だけが響く、そろわない一気コールが始まりかけた時、ドサッと重い音をたてて早翔が崩れ落ちた。

 叫声にも似た蘭子の甲高い笑い声がホール中に響く。



 こうなる伏線はあった。

 ひと月ほど前、光輝の休みの日に蘭子がふらっと店を訪れた。

 ホストは指名客と綿密に打ち合わせて、客の来店日を決める。担当ホストが休みの日に来ることなどあり得ない。

 慌てて光輝を呼ぼうとすると、余計なことはするなと言って蘭子は早翔を指名した。


「そのガツガツしてない涼しげな瞳がいいわね。今度からあなたを指名するわ」

「当店は永久指名ですから、それはお受けできません」

「私には特例を認めてもらうわ。私がルールだから」

「当店には当店のルールがあります。黒田様だけ特例を認めるわけにはいきません。指名変更はお受けいたし兼ねます」


 早翔が淡々とした口調で説明する傍らで、蘭子はすでに早翔から視線を逸らし、冷たく宙を見据えている。聞いているのかいないのか、早翔の言葉には一切の反応を示さない。

 その後、すぐに駆け付けた光輝に席を譲り、事なきを得たはずだった。

 しかし、蘭子の中では断られたことへの怒りがふつふつと増幅していった。

 店を上げて蘭子の誕生日を祝うその日、爆発させるタイミングを待っていたのだろう。



 底辺ホストの替えはいても極太客の替えはいない。店にとってどちらが重要かは明白である。

 クビを覚悟していると、京極から電話が入った。

「蘭子さんから、早翔を家まで迎えに来させろと連絡が来た。来てくれるかどうかわからないけど、何とか店に連れてきて。まあ無理にとは言わないけど。とにかく許されるまで土下座してきてね」


 京極から言われた通り、蘭子の部屋を訪れてはみたものの、不機嫌に仁王立ちしている蘭子を前にすると早翔の足がすくみ、ただ立ち尽くすだけである。


 蘭子はすぐにでも出かけられるように、ヘアもメイクも整えてはいたが、浅く重ねたナイトガウンの大きく開いた胸元、ガウンのすそから伸びる艶めかしい太ももからの脚線、裸足の爪先の真っ赤なペディキュアまで、早翔を威嚇しているように見えた。

「待つのは嫌いなの。早く入って」

 蘭子は冷たく言い捨てる。


 このまま蘭子に背を向け逃げたい衝動に駆られる。

 逃げればホストは続けられない。

 借金はどうする…


「私が早く入ってと言ってる。は・や・く・は・い・れ」

 しびれを切らしたように、イラついた蘭子の声が響く。

 早翔は軽く目を閉じ、ゴクリと唾を飲み込んだ。

 諦めたように薄いため息を吐くと、重い足取りで蘭子の後に続いた。


 通されたリビングは、驚くほどの広さはなく、白い床にブルーのラグ、カーブを描く白い大きなソファが中央に置かれ、その白とブルーを基調にした和かな雰囲気を、一面のウッドブラウンの壁がグッと引き締めている。

 間接照明に照らされた花瓶の生花以外に調度品はなく、シンプルな品の良さを醸し出している。


 蘭子はその白いソファに、寝そべるようにゆったりと腰掛け、煙草に火を点けると早翔の上から下まで粘っこい視線を這わせる。

 その視線を早翔の瞳に合わせ、意味ありげにふふっと笑みを浮かべる。

「借金で首が回らないんですって? 光輝から聞いたわ」

 穏やかな口調である。


「俺の借金じゃない。死んだ親父の借金ですよ。財産放棄できるタイミングを逃して。その上、お袋が銀行の言うがままに個人補償にして、こういう時バカだと困りますね。夫が死ぬと何もかも失って… なのにその現状を理解できず感覚は昔のまま…」

 早翔は何かから逃れるように、饒舌にまくし立てた。


「私も他人事じゃないわね」

 黙って煙草をふかしていた蘭子が呟く。

「蘭子さんには他人事だよ。地方の中小企業のよくある話を、大企業と一緒にしないで下さい」

 蘭子は上目遣いに、まとわりつくような視線を早翔に送る。

「あなた… 今日は、謝罪に来たんでしょう?」


 早翔が土下座しようとかがむと同時に蘭子が立ち上がり、早翔の腕を掴んでグイッと引き上げ、リビングの一角にあるドアの前へと連れて行く。

「なら、謝罪してもらうわ」

 そう言って開けた扉の先には、規格外の大きなベッドがあった。

 ドンと乱暴に早翔の背中を押してベッド脇へと追いやる。


 無言のまま、早翔の胸になまめかしく指を滑らせ、服を脱がせていく。

「俺と寝ても楽しくないよ」

 かろうじて発した言葉はかすれていた。

「震えてるわ… 初めてなのね」

 強引にベッドに押し倒すと自身もガウンをはだける。露わになった乳房を早翔の胸に押しあて、ゆっくりと上下させながら、首元から胸へと舌を這わせる。


 早翔の身体が硬直し、その産毛の一本一本まで、蘭子の柔らかな肌の感触、ねっとりとまとわりつく舌使いを拒否している。なのに、背中に回された淡い五本の指先が、くすぐるように滑らされると、嫌悪感とは違う何かがぞくぞくと早翔を襲い、勝手に身体を震わせる。ゆっくりと蘭子の指先が薄く這いながら、尻の割れ目の奥まで到達すると、抗うことのできない衝撃が走りビクンと背中がのけぞった。


「やめて… お願い…」

 蘭子がふふっと笑いを漏らす。

「まるで女の子ね。冷めた瞳の奥に、こんな少女が隠れていたなんて…」

 蘭子が身体を起こし早翔を見ると、瞳が弱々しく潤んでいた。

 むき出しの情欲で笑みをたたえる蘭子の顔は、新しいおもちゃを手に入れた子供のような、いたずらな好奇心に満ちていた。

「大丈夫、私に任せて。あなたは目を閉じるだけ」

 蘭子は早翔の目を口で覆うと、潤んだ瞳を堪能するように舌で舐め回した。

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