自覚

 それは、実家に住む早翔の妹、葉月はづきからの電話だった。

「お兄ちゃん。借金なんて全然減ってないよ。家も出てってないし、私、高校行かないで働く。お兄ちゃんと一緒に働く」

 そう言って、葉月が電話口で泣いた。


 早翔が帰ってみると、売ったはずの家にそのまま賃貸で住み続け、早翔の仕送りはその賃貸料と生活費に消えていた。

 早翔の母、冴子さえこは自身の趣味で買いそろえた調度品に囲まれ、革張りのソファにゆったりと身を預けている。

「こっちのことはお母さんに任せて。お母さんも頑張るから、早翔も体に気を付けて頑張ってね」

 そんな殊勝な言葉を並べていた冴子が、今は別人のように開き直った態度で早翔を見据えていた。


「この家にあるものみんな売れって言ったよね。何一つ変わってないのはどういうことだよ」

「だって、どの業者も二束三文で買い叩こうとするのよ。物の価値を何もわかってない、無知な業者には売りたくないの」

「無知なのはどっちだ!」

 早翔の声が怒号に変わり、冴子の体が一瞬ビクンと跳ねソファに埋まる。

 もはや息子を見る目ではない。敵を見るような血走った目を早翔に向けている。


「勝手に会社売っぱらわれて、その上、この家出てけなんて割りに合わない。お母さんは納得できないよ!」

「そもそもアンタのせいだろう。目先の家やモノに執着してグダグダやってるから。素直に財産放棄すればこんな苦労はしなくて済んだんだよ」

「お前は母親に向かってなんて言い草なの! この親不孝者!」


 早翔はゆっくりと深呼吸をして、怒りを静めようとした。

「お母さん、10年前に生まれてすぐに死んだ赤ちゃん覚えてる? あの時死んだ弟が、今ここに生きてなくて良かったと思う日が、来るとは思わなかったよ。今の俺たちの状況は、そこまで酷い… どん底なんだよ」

 冴子は能面のように表情を消し、早翔から視線を外している。

「とにかく買い取り業者を今すぐ呼んでよ」

 早翔が感情を殺して静かに言った。


「お前は最低の息子だよ」

 冴子が地を這うような低い声で言う。

「10か月、お腹で育てた子供が死んだのに。自分の命に代えても救いたいと願ってたのに。この10年間、元気に生んであげられなかったことを悔やみ、懺悔し続けた母親に向かって…」

 冴子の無表情が一転、般若の形相に変わり、血走った眼差しが早翔を睨みつける。

「あの子にこそ生きてて欲しかったよ! お前なんかじゃなく! お前みたいな薄情な息子は生むんじゃなかった!」


 早翔は思わず冴子の襟元に手を掛けた。

「てめえ、売れるもん全て出せ」

 早翔が冴子の襟元を乱暴に締め上げる。

「ひぃ… 殺される…」

「お兄ちゃん、やめて」

 弟の春太はるたが早翔にすがりついて泣く。

「お兄ちゃん、乱暴はやめて」

 妹の葉月もそう言うが、手には母親のジュエリーボックスを持っていた。


「高価な食器もお母さんの毛皮も着物もまだまだある。全部売ろう、お母さん」

「葉月… あんた、承知しないよ。売らないから、誰にも売らないから。全部私のもんだから」

「自分の立場自覚しろよ。そんなもん売ったって、何の役にも立たないくらい借金があるんだよ。俺たちは貧乏人なんだよ。金なんてどこにもない! こんな家に住む資格も着飾る資格もない。どん底の貧乏なんだ!」

 早翔の声が吹き抜けのリビングに響いた。



 今度こそ何もかも売り払い、3人をアパートに引っ越しさせて、金融機関との窓口を早翔自身にして、返済計画を立て直した。

「大丈夫ですか」

 担当者は早翔の茶色い髪に目をやりながら訊く。

 早翔がふっと笑う。

「ホストやってます。悪いことはしてません。何十年かかっても返しますから」

「わかりました。無理はしないでください。何かあったら連絡ください。相談に乗ります」

 担当者は穏やかな笑みを浮かべると、丁寧に頭を下げた。



「葉月、お母さんのこと頼むな」

 早翔が、電車のホームまで送りに来た葉月に言った。

「うん。お兄ちゃん、お母さんを許してあげて。お嬢様育ちで何不自由なく育ってきたから仕方ないんだよ」

 早翔がフンと、バカにしたように鼻を鳴らす。

「そんなこと言ってられるかよ。いい歳した大人なのに」

「そうだね」

 葉月がうつむき加減で弱々しい笑顔を作る。


「葉月、お前も頑張って公立高校受験しろ」

 顔を上げた葉月は、驚いたように目を丸くしている。

「公立なら何とかなるから。中卒で働くなんて言うな」

「お兄ちゃん…」

 葉月の目がみるみるうちに潤んでいく。

「たまには帰ってきてね。茶色い髪の毛でもいいから。誰に何言われても全然気にしないから」

 早翔は葉月の頭に手を置いた。

「お母さんと春太を頼む。お前も頑張れよ」

 葉月は顔をくしゃくしゃにして、何度も頷いた。

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