第19話

次の日,僕が学校帰りに綾乃に会いに行ったら,綾乃は,一人だった。


「お母さんは?海斗は?」


「もう治ったから…。」

綾乃が体の上に毛布をかけて,横になっていた。


「治ったって?」


「…ここにいる必要は,もうないということだよ。」



「そうか…じゃ,もう行くの?」


綾乃は,頷いた。「でも,最後に,あなたにもう一度会いたかった…。」


「…最後とか,言わないで。」


「最後だよ。」

綾乃は,厳しい顔で言った。


「なんで最後じゃないとダメ?僕は…嫌だよ。」


綾乃は,何も言わずに,体にかけていた毛布をとり,起き上がって見せた。

「私は,人間じゃないから…人魚だから。」


「…僕は,綾乃が人魚でも構わないよ。」

祐介は,綾乃の体を見て,息を呑みながら言った。


綾乃は,小さく笑った。

「祐介なら,きっと素敵な人と結婚出来るよ。祐介を大事に出来る人。私は,ダメだ。」


「なんで?陸に上がれるでしょう?一緒にいられないことは,ないんじゃない?」

祐介には,綾乃が祐介と結ばれるのは,無理だと決めた理由がわからない。


「陸に上がっても,人間じゃないし,人間には,なれない。母がやったようなことをするつもりはない。傷つけてしまうし,子供も嫌な思いをする…無理だよ。」

綾乃は,暗い顔で言った。


「でも,僕は綾乃のことが好きだよ!」


綾乃は,一瞬驚いた顔をしてから,気を取り直して,言った。

「そんなこと言っても,無理だよ。」


「無理だと決めつけているだけじゃん!」

祐介は,納得が行かない。


すると,綾乃がとうとう泣き出した。

「だから,無理なんだよ!私を見て!

この体では,あなたを幸せにすることができない!」


祐介は,綾乃の泣き顔を初めて見た。いつだって動じずに,けろりとしていた綾乃がこの顔をするとは,驚きだった。ここまで取り乱している綾乃を見るのは,辛かった。


綾乃は,自分を落ち着かせて,少し間を置いてから,静かな声で言った。

「私は,祐介に幸せになって欲しい。だから,これが最後じゃなきゃダメなんだ…色々とありがとう。」

綾乃が祐介に頭を下げて,言った。


綾乃に別れの言葉を言われ,祐介は,急に胸が苦しくなった。こんなに好きなのに,綾乃は,二人の恋に見切りをつけ,祐介の気持ちを受け止めるつもりはない。


祐介は,どうすれば良いのか,わからずに,つい綾乃の手を握り、自分の唇を彼女の唇に近づけた。綾乃は,抵抗しなかった。

「お願いだから,行かないで。」

祐介が懇願した。


綾乃は,キスされて,一瞬心が揺らいでいるように見えたものの,すぐに気を取り直したようだった。やっぱりびくともしない。一度決めたことは,絶対に貫き通す。それが綾乃だ。祐介は,綾乃のそういうところに惹かれたのに,今彼女のそういうところに打ちのめされている。皮肉だと思った。


綾乃は,首を横に振り,水に入ろうとした。


祐介がまた綾乃の手を握って,引き留めようとした。


すると,とうとう綾乃がムキになって,言った。

「私だって,好きだよ!でも,人を好きだというだけで,一緒になるのは,無責任だ!

…祐介を傷つけたくない。だから,こう決めた。もう,止めようとしないで。」


祐介は,悔しそうに頷いた。綾乃を誰より知っている祐介には,わかる。綾乃がここまで固く決めていれば,もう絶対に譲らない。自分が何をしようと,無駄だ。綾乃を自分のものにするのは,綾乃が無理だと考えている以上,無理だ。

「…忘れないよ。」

祐介が弱々しい声で呟いた。


「忘れた方がいいよ…では,母と海斗を待たせているから…ありがとう。」

綾乃がまた頭を下げてから波の中へ姿を消した。


祐介は,しばらく呆然としたまま,砂浜に座り込み,果てしなく洋々と広がる海をぼんやりと眺め続けた。


泣きたいと思っても,綾乃を失ったという実感はまだ湧かないから,涙も出ない。頭が真っ白になり,重々しい寂しさが心にのしかかってくるのを感じた。祐介にとって,初めての失恋体験だった。


もう二度と綾乃に会うことはないと自分に言い聞かせて,諦めようとしたが,何年経っても諦めがつかなかった。


そして,社会人になってから,綾乃と再会することになった。

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