閑話9・女神のご利益


 芸軍祭、前夜祭の午後。

 自作の菓子を売り切るという菓子学科の課題を終えたマリアーデは、ダイアグラムにある実家の屋敷へと戻っていた。


 ……はぁっ。


 まだ感動に胸が打ち震えている。

 ウォルクスの好きな甘い菓子のレシピを一つでも多く覚えようと、そしていつか、ウォルクスに食べてもらえる機会があればいいと思って通っていた学園で、まさか貴族の娘である自分が菓子職人として住民たちへの販売を体験できるなんて。


 ……身分など関係ない課題は素晴らしい!


「お嬢様、コルセットを締めますので息を止めてください」


 ギュギュッとウエストを締めつける侍女の声で、マリアーデの意識は現実へと戻る。今は着替えの真っ最中だ。


 今年のダイアランの社交は王族側の勧めもあり、芸軍祭の芸部の催しが利用されている。

 上級貴族の娘で年若いマリアーデは、他国から訪れる来賓を歓待するため、王族から正式な依頼を受け演奏会に招待されていた。

 大変有り難く、非常に迷惑な話である。


「お嬢様のご支度が整いました」


 学園の演奏会へ向かうだけだというのに、通常の夜会の何倍も念入りに飾り立てられ、マリアーデはすでに疲れ切っている。

 侍女によって部屋の扉が開かれると、待ち構えていた両親や義姉が一斉に口を開いた。


「マリアーデ、くれぐれも王族の不興を買うような真似はしないよう気をつけるのだぞ」

「いいですか、今日はとにかく淑女らしくするのですよ。間違っても口答えや反論はしないように」

「貴女の言動一つで、この家の今後が変わってくるかも知れないのです。出来るだけ目立たないように、口も可能な限り噤んでいなさい。笑顔です、笑顔」


 家族の中の自分の評価は、数年前までの剣を片手に貴族令息たちを足下にしていた頃のままだ。何かあれば問題を起こすとしか思われていない。

 そんな心情が透けて見える親族たちに向かい、マリアーデはにっこりと微笑んだ。


「お父様、お母様、お義姉様。そんなに心配なさらなくても大丈夫ですわ。今日は極力、口を開かず大人しくしていますから」


 ……例え王子に話しかけられても口なんか開いてやるもんですか。もしかしたらウォルクスも呼ばれているかも知れないから行くだけですわ!


「あー、マリアーデ」


 父親からのこの声音の時は、言われることは決まっている。うんざりする感情を押し隠し、マリアーデは笑みを深めた。


「何でしょうか、お父様?」

「分かっているとは思うが、早く自分に相応しい相手を見つけなさい。この家から嫁ぎ遅れを出す訳にはいかん」

「ええ、分かっていますわ。素敵な方がいらっしゃった時は、お父様のお力添えをお願いいたします」

「う、うむ。分かっているならば良い」


 世間体ばかり気にする父親が苦い物を噛み潰したような顔をしているのは、いくら良縁を持ってきてもマリアーデが片っ端から断っているからだ。

 幾度となく繰り返されるこのやり取りも、もはや意味を持たない退室の挨拶と化していた。



 学園までは馬車で移動し、正門から大ホールまでは転移装置で一瞬だ。

 開演まではもう少し時間があるが、歓談する社交の場ともなっているため、すでに大勢の人でエントランスは混み合っていた。


 ……さすがに王族が呼びかけただけあって、人が多いですわね。


 ダイアランの貴族には、上級、中級、下級と階級がある。王から領地を任された領主とその親族が上級貴族となり、その下に中級と下級が付き従う完全な縦社会だ。

 こういった集まりの時は、だいたいが上級貴族を中心として中級と下級が取り巻き、小さなグループがいくつも出来上がる。

 マリアーデにも取り巻きはいたが、明らかに親から言われて仕方なくそうしているのだと分かる者ばかりで、いっそのこと放っておいて欲しいと思ってしまうのだった。


 今回の演奏会に来ているのは、もちろん貴族ばかりではない。当日販売となったチケットを並んで買い求めた一般来園者も多数いる。

 王族から招待された上級貴族は別として、中級や下級の貴族たちも使用人などを並ばせ、公平にチケットを手に入れていた。

 そのため、大ホールの入り口には学園の守衛や近衛師団の者が立ち、一般来園者と貴族などを選り分けている。


 他国から訪れている来賓たちは大ホールの二階へと案内されているから、一般来園者たちと顔を合わせることもない。

 学園の祭りでありながら、完全に棲み分けされている対応にマリアーデが感心していると、貴族側の入り口からザワッとどよめく声が上がった。


 ……何かしら?


 貴族たちの視線が集中する先に目を向けると、そこには灰色の地味なローブをまとい、フードを深々と被った場違いな人物がいる。


 今日は王子もいるのに近衛騎士は何をしているのか、そう思ったマリアーデが動こうとするよりも先に、その人物に向けて馬鹿にするような声が上がった。


「あら、あれは噂の菓子職人ではありません?」


 近くにいたその者には、フードの中の顔が見えたのだろう。共にいる下級貴族の女たちも、くすくすとその人物を嘲笑い始める。

 女たちの会話の内容から、フードを被った人物が菓子学科のルリであると分かると、周りにいた貴族たちはその顔色をザッと変えた。


 リヴェリオ王子から『菓子学科のルリは国賓と等しく扱うように』と厳命されていることを、この下級貴族の女たちは知らないのだろうか。

 周りの冷たい目は女たちに向けられているのだが、女たちはその視線は場違いな服装の菓子職人に向けられているものだと勘違いしていた。


「まぁ、恐ろしい。野蛮な庶民はこれだから嫌ですわ」


 そう言い捨てる女の声を聞いたレイドは見るからに不機嫌な顔となり、戸惑うルリの手を引いて足早にその場から立ち去ってしまった。


「ふふふっ、今にも泣きそうな顔でしたわ」

「ふん、いい気味ですわ」


 身の程知らずの者たちを自分たちが追い払ったのだと、勘違いしたままの女たちは笑い合いながら胸を張る。


 ルリたちが出て行った入り口から慌てた様子の近衛騎士が入ってきて、中にいた騎士から話を聞き、二階へ駆け上がって行く姿が目に映った。

 リヴェリオ王子に報告するのだろう。


 一時は騒然となった貴族たちだったが、すぐに皆が平静を装った顔となる。

 しかし口々に囁かれるのは、目の前にいる下級貴族の女たちに対し、リヴェリオ王子はどのような判断を下すのか、といった冷やかな内容だった。


 すぐに二階へ案内されるはずだったマリアーデも、今の騒ぎのせいで足止めをされている。

 間もなくリヴェリオ王子が一階へ顔を出すと連絡があった頃、再び貴族側の入り口からどよめく声が聞こえてきた。どよめきというよりは、恐れ多い者を前にしたような息を呑む気配に近い、と言った方がいいだろうか。


「…………え……」


 その姿を目にした瞬間、マリアーデは小さく口を開き、声を漏らしていた。

 滅多なことでは表情を崩さない他の貴族たちも、魂を抜かれたような顔で異様な雰囲気となっている。


 艶やかな長い黒髪をなびかせ、美の象徴である砂漠の女神ジグザールが降臨したとしか言い表せないような女性が立っていた。

 まるで舞うように。人々が感嘆の息や声を漏らす中、その女神の隣に立つ、恐ろしく美しい男がその腕を伸ばした。


 差し出された男の手を取り、はにかんだ女神が足を進める。女神の腕と足にある輪がシャンと鳴り、髪の毛先に飾られた小さな鈴がシャラリと揺れ、場の空気を清めていく。

 一歩、また一歩。女神の優雅な足取りに合わせ、無意識に人々が道を空ける。

 砂漠の星々が煌めく夢物語のような一場面に、誰もがうっとりと見とれていた。


「良かった。気分を害して帰ってしまったかも知れないと知らせを聞き、心配していました」


 リヴェリオ王子が護衛のダンテと数名の近衛騎士を引き連れてやって来たのは、そんな時だった。

 王族であるリヴェリオ王子は、人離れした美しさの二人を前にしても表情一つ変えていない。


「王族の客人とも言える貴女をおとしめる貴族など、ダイアランにはいないと思っていたのですが」


 二人に見とれてほうけた顔をしていた下級貴族の女たちは、リヴェリオ王子の言葉と視線に気付き、女神のように見ていた相手が、自分たちがさっきまで馬鹿にしていた菓子学科のルリだと知る。すっかり血の気の引いた顔となり、カタカタと小刻みに震えて涙目となっていた。

 しかし、知らなかったで済まされる問題ではない。後ほど、きつい厳罰が下されることだろう。


「どうやら下界は騒がしいようだ。砂漠の女神には静かな上界から音を愛でていただきたいのだが、相応しいオアシスはあるだろうか」


 美しい男が妖艶な笑みを浮かべ、王子であるリヴェリオに『一階はうるさいから、二階に席を用意しろ』と要求する。

 その声を聞き、マリアーデは男がレイドであると気付いた。他にも気付いた者はいるだろう。


「ええ、そのつもりでここへ来ました。こちらへどうぞ」


 叔父であるダンテからマリアーデも一緒に来るように言われ、二階へと上がる。

 レイドの陰に隠れ、不安そうな顔で周りを見回すルリに、『キョロキョロしない! ちゃんと前を見なさい!』と、口を出しそうになった。


「いったい、ルリは何をしていますの!?」


 やっと声をかけたのは、一階にいる者たちの姿が完全に見えなくなってからだった。


「あ、やっぱりマリアーデだったんですね。ドレスを着て、お姫様みたいに綺麗だったから、声をかけて違う人だったらどうしようと思っていたんですよ」

「今の貴女に綺麗と言われても、嫌味にしか聞こえませんわ」

「これは演奏会に着ていけるような服がなかったから、劇の宣伝をする代わりに貸してもらったんですよ。すごく綺麗な衣装で豪華すぎるから、みんなに見られて恥ずかしかったです」


 困ったような照れ顔で笑うルリにマリアーデは脱力する。自分の外見やその価値に気付いていない者は恐ろしい。


「そっちも。一部の者には正体を気付かれてましてよ」

「──っ」


 レイドだと分かっていると告げると、美しい男は目を見張って驚いた。いつもルリと一緒にいて、髪も目も同じ色合いをしているのだから当然だろう。

 魔術具を使ったのか、薬を使ったのかは知らないが、これから苦労することになるはずだ。あそこには老若男女、美しいものに目がない貴族が集まっていたのだから。


「では、帰る時は近衛騎士にひと声かけてくださいませ」


 ルリたちを来賓用の席へ案内し、あとは勝手にイチャつけば良いと放置する。


 マリアーデは本来の役目である他国からの来賓の歓待をするため、別室へと移った。

 演奏会中は小部屋に分かれるため、歓待役は二人ずつ組むらしい。


 ……砂漠の女神は愛される者の象徴でもあるのですから、私もあやかりたいものですわ。


「マリアーデ、こちらへ」


 今回、共に歓待を行う者を紹介すると、なぜか申し訳なさそうな顔をしたリヴェリオ王子に呼ばれる。


「知っていると思うが、ウォルクス・ローレンだ。済まないが、少しの間だけ二人で応対を頼む」

「!?」


 マリアーデが担当する来賓は護衛も兼ねる必要があるそうで、本当は上級貴族の騎士に依頼をしていたが、学園へ向かう途中で問題が発生して到着が遅れるらしい。


「……その、よろしく頼む」

「……こ、こちらこそ、ですわ」


 砂漠の女神のご利益に、マリアーデが誰よりも感謝したことは言うまでもない。


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