閑話5・ひと雫の蜜―中
「お、お父さん! これ、本当に蜂蜜!?」
「ああ。それは蜂蜜だけど、正しく言えば回復薬なんだよ」
「えぇっ! どういうこと!?」
父からの思わぬ返答に、シャルティエは目を丸くする。蜂蜜が回復薬とは?
そこで父親は、ちゃんとした薬として昔から人々に重宝されてきたのだと、魔虫の蜂蜜の話をシャルティエに聞かせた。
「でもこれ、すっごく美味しいんだけど?」
「はは、薬が美味しいだなんて。変わったことを言うね、シャルティエは」
「いやいやいやいやいや。お父さん、呑気に笑ってる場合じゃないよ! 本気で、びっくりするくらい美味しいんだけど!?」
その蜂蜜は、今まで口にしたどの甘味よりも、香りも味も濃厚で甘さにコクがあった。
それなのに上品、とでも言えばいいのだろうか。くどくはなく、いくらでも食べられそうで、何よりも値段に釣り合うだけの高級感がある。
甘みを感じさせる調味料は、菓子作りには欠かせない。菓子作りの生命線とも言える。
もしこの蜂蜜を使って菓子作りをしたのなら……と、一気に想像が膨らんだ。
「シャルティエ。そんなことより、まだ寝ていないと駄目でしょ」
「……えっ?」
「今、お薬を飲んだばかりなんだから、ちゃんと寝てなくちゃ」
母親のその言葉で、シャルティエはハッとした。
頭痛も気持ち悪かった不調も、今はどこにもない。むしろ元気が有り余っているくらいだ。
「もう、治ったみたい。頭、痛くないよ」
「えぇっ、嘘でしょ?」
両親は薬の効きめに驚いていたけれど、シャルティエは病気だったことなんかすっかり忘れ、この不思議な蜂蜜に夢中になった。
んん、あれ? この匂いって……。
課題のタルトの香りに似てないかな?
そして次の日、シャルティエはすぐに行動を開始した。
蜂蜜を売っていたというケテルナ商会の店に行き、不思議な蜂蜜について詳しく話を聞こうと思ったのだ。
しかし、子供のシャルティエは店の入り口で店員に止められてしまい、中には入れてもらえなかった。
……まぁ、子供だから当然だよね。
シャルティエは素直に引き下がった。
ここで騒ぎなんか起こして、心象を悪くしてしまったら元も子もない。
でも、それならどうしよう?
そう思い悩んでいた、ある日。
父親の店のセルトタージュに大口の注文が舞い込んだ。焼き菓子、三百人分の詰め合わせ。こんな注文は久しぶりだった。
張り切った父と母は、朝からオーブンを何台も使い、ずっと焼き菓子を作っている。
「これはどこからの注文なの?」
狭い調理場を忙しそうに走り回っている母親に聞いてみた。自分も手伝うため、エプロンを着けて腕まくりをする。
「ブルネス商会っていう、大きなお店からよ。パーティーに来たお客さんに、お土産として渡すんですって」
「パーティー? すごいじゃない! 上手くいけば、良い宣伝になるね」
「そうね。シャルティエは袋に詰めるのを手伝ってちょうだい」
「うん。分かった」
こうして出来上がった三百人分の詰め合わせを持ち、両親は笑顔でブルネス商会へと注文の品を届けに向かった。
ところが。
なぜか両親は、商品をそっくりそのまま持って帰ってくることになる。
二人の表情はとても険しく、子供のシャルティエでも、ただならない事態が起こっているのだと、ひしひしと肌で感じるほどであった。
「……いったい何があったの?」
重い空気の中、それでもシャルティエが勇気を出して尋ねると、母親は被っていた頭巾を外し、それで顔を覆って肩を震わせた。
涙なんか見せたことのない気丈な母が、泣いている。それだけで、シャルティエはギュッと胸を締めつけられた気がした。
「ブルネス商会に商品を届けに行ったら、そんな注文はしていないって言われたんだ」
父親は力なく呟き、肩を落とした。
「えっ。何で!? 注文書は?」
「もちろん見せたよ。だけど、誰もそんな注文書は書いていないって言われてね」
「そんな、どうして……」
よくあるイタズラだろう、と鼻で笑われ、両親は追い返されてしまったらしい。
セルトタージュの経営はギリギリだから、三百人分の詰め合わせともなれば、材料費だけでも大きな負担となる。オーブンを使うのだってタダじゃない。
どうして真面目に頑張ってる、お父さんとお母さんがこんな目に……!
シャルティエはとても悔しかった。
自分の手を強く握りしめ、唇を噛む。
けれど、泣くのだけは我慢した。
自分まで泣いてしまえば、目に見えない何かに負けを認めてしまうような気がして。
行き場のない空気が重く漂う、そんな中。
コンコン──と、お店の扉を軽く叩く音が聞こえてきた。
今日は朝から店を閉店にしてある。
扉にも『本日閉店』の札を下げていたのだけど。
……こんな時に誰だろう?
閉店しているのに来るということは、両親に用事がある誰かだろう。もしかしたら急ぎの予約を入れにきた客かも、とも考える。どちらにしても両親は暗い顔のままだ。
…………私が、しっかりしなきゃ。
シャルティエは笑顔を作り、店の扉を少しだけ開け、外に向けて返事をした。
「どちら様ですか?」
隙間から覗くと、上品な佇まいで4、50代くらいの紳士が立っている姿が見えた。
この辺りではあまり見かけない、きちんとした身なりの男性だ。靴まで綺麗なところを見ると、貴族だろうか?
「突然の訪問で失礼いたします。私はケテルナ商会のルキニー・ウィンスコットと申します。お父様かお母様はご在宅でしょうか?」
シャルティエに柔らかな笑みを向け、その紳士は軽く会釈をした。
ケテルナ商会!?
すぐに、あの不思議な蜂蜜のことが頭をよぎる。
「二人とも家にいます。お父さんを呼んできますので、少しお待ちください」
シャルティエは急いで父親の元に駆け寄った。
「お、お父さん! ケテルナ商会の人が来てるよ」
「ケテルナ商会?……何のご用だろう?」
「とりあえず入ってもらってもいい?」
「あ、ああ。そうだね」
父親は不思議そうな顔をしながらも、重い腰を上げる。母親も後に続いた。
ケテルナ商会のルキニーは店に入ってくると、扉脇に身を寄せ、右手を左胸に添えて軽く頭を下げる。何だろうと思って見ていると、シャルティエと同じ歳くらいの女の子が一人、ヒョコッと中を覗くように扉から顔を出した。
「お休み中のところ、失礼いたします」
女の子は店内に入ってくると、見るからに上質な布地のスカートを手で持ち、綺麗な仕草で一礼した。
まるでお姫様がするような挨拶だ。
シャルティエは思わず見とれてしまった。
「初めまして。私は、フィゼーレ・ケテルと申します。お店を閉めていらっしゃるところに、突然の訪問で申し訳ございません。本日は、皆様にお尋ねしたいことがございまして、立ち寄らせて頂きました」
毛先が柔らかく巻かれた灰色の髪に、
……えっ。ケテルって。
あのケテルナ商会の、代表の親族ってこと!?
ケテルナ商会は数か国に様々な業種の店を持つ、とてつもなく大きな企業だ。その店舗数は小さな物まで入れると、千を超すとも言われている。そんなところのお嬢様が、こんな下町の小さな菓子店をわざわざ訪ねてくるなんて。
目の前の存在を信じられない顔で見つめるシャルティエたち親子。その顔色を整える暇もなく、フィゼーレは話を切り出した。
「皆様は、ブルネス商会という名前に聞き覚えはございませんか?」
フィゼーレからの質問に、シャルティエの両親はハッとした顔を向けた。そのブルネス商会から、二人はついさっき帰ってきたばかりだ。シャルティエも表情が硬くなる。
その三人の反応を目にしたフィゼーレは、にこやかに微笑んでいた顔を引きしめ、大人びた雰囲気で目を細めた。フィゼーレの目配せを受けたルキニーが小さく頷き、話を始める。
「お心当たりがお在りのご様子ですので、お話させて頂きます。実は最近、当方と取引のある方々に対し、ブルネス商会からの嫌がらせなどの報告が相次いで上がってきております。失礼とは存じますが、私共の情報に間違いがなければ、こちらのお店も標的とされる可能性が高いため、本日こうして伺わせて頂きました」
「ひょ、標的、ですか」
聞き慣れない物騒な単語に、シャルティエの父親は動揺した声を上げた。
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