閑話5・ひと雫の蜜―後
「ここ最近で馴染みのない者から、仕入れ先を変えるように勧められたりしたことはなかったでしょうか?」
ルキニーに尋ねられたシャルティエの父親は、思い出したように頷く。
「あ、あります。仕入れ先を変えるように、勧誘がありました」
見本に持ってきていた粉の質があまりにひどい物だったから、その場ですぐに断っていた。
けれどその商人は、ブルネス商会の者だとはひと言も口にしていなかったような……と、シャルティエの父親は話す。
「当方と直接的な対立を避けるためか、相手はいくつもの名前を使い分けているようです。その様な小細工が通用すると思われているとは……」
そう話すルキニーの目の奥には、商人らしからぬ鋭い光が宿っていた。
大人同士で難しそうな話をしていると感じたシャルティエだったが、ブルネス商会が悪いことを企んでいるということだけは理解した。
つまり、ケテルナ商会と繋がりのあるセルトタージュがブルネス商会から狙われ、嫌がらせを受けたということだ。
「あの、ブルネス商会からお店に焼き菓子の注文があって、お父さんとお母さんが一生懸命に作って届けたのに、そんな注文はしてないって追い返されました」
シャルティエが思いきって声を上げると、それを聞いたフィゼーレは表情を厳しくさせた。
「それはいつのことですか?」
「今日、というか、ついさっきのことです」
シャルティエは両親の後ろに置いてある荷物に目を向けた。中には三百人分の焼き菓子が入っている。
「そちらのお品が、そうですのね」
「……はい、そうです」
悔しい気持ちを正直に顔に出すと、フィゼーレはふんわりと微笑んだ。
「それはちょうど良かったですわ」
「……え? ちょうど?」
「実は今日の夕方、今回の件について私共の商会内で会合があるのです。もし宜しければ、そちらを全て買い取らせて頂きたいのですが。如何でしょうか?」
「えぇっ! ぜ、全部!?」
それは助かる……けど、いいの? と、父親に視線を向けると、突然の申し出に戸惑った顔をしている。一生懸命に作った焼き菓子ではあるけれど、一度ケチがついてしまった商品だ。そのまま他の人に売り渡してもいいものか、迷ってしまう。
けれど、そんな躊躇いを吹き飛ばしたのはフィゼーレの言葉だった。
「せっかく心を込めて作られたのに、ここで迷うようでは商いをする者として失格ですわ。余計な迷いや遠慮は商機を逃します。商いは利益あってこそ、ですわ。ご自分が扱う品に不備がないのであれば、胸を張って売るべきです。……私は父からそう習いました」
シャルティエはその言葉に絶句した。
同じくらいの歳の子なのに、なんて格好良いことを言うのだろう。何か……ちょっと悔しい。
フィゼーレの言葉を強く胸に響かせたシャルティエは、すぐに決断した。この機会を絶対に逃してはいけない。
「お願いします。あの焼き菓子を買ってください。あれは、お父さんたちが心を込めて作った自慢の品なんです」
そう言ってまっすぐに見つめると、フィゼーレは柔らかく微笑んだ。
「ええ、もちろん頂きますわ。ルキニー、お支払いを」
「はい、お嬢様」
ルキニーは素早く支払いを済ませると、外に待機させていた従者に声をかけ、荷物の積み込みをさせていた。どうやら馬車で来ていたらしい。
この近辺を馬車が走ることなんて滅多にない。
それなのに、その音に全く気がつかないでいたのは、それだけシャルティエたち親子にとって、ブルネス商会の対応はショックだったということだろう。
「ケテル様、本日はわざわざお越し頂き、本当にありがとうございました。……ですが、あの……」
焼き菓子を全て買い取ってもらっても、シャルティエの父親はまだ浮かない顔のままだった。恐る恐るといった様子でフィゼーレに声をかけるも、言い淀む。
「ご心配になられるお気持ちはよく分かりますわ。これからもこのようなことが続くのでは、とお考えなのですよね?」
なかなか口に出せない不安を見抜くように、フィゼーレは問いかけた。
「……はい。お恥ずかしい話ですが、入ってくる注文が嘘か本当か、見抜く自信がございません」
これ以上ケテルナ商会に頼るのは筋違いだと分かっていても、シャルティエの父親には解決策が見つけられない。
「私共は、これからどうしたらいいのか……」
フィゼーレはシャルティエの方に向き直り、少しだけ商人の顔を覗かせた。
「貴女でしたら、どうなさいますか?」
「えっ。私……ですか?」
突然、話を振られた。
注文が入った時、損をしないために?
「……そう、ですね。代金を先に支払ってもらう、とか? 全額は無理だとしても、先に材料費くらいは受け取っておきたいですね」
シャルティエの答えを聞くと、フィゼーレは『正解だ』とでも言うように、ニッコリと微笑んだ。娘がすぐに答えるとは思っていなかったのか、父親はシャルティエを見て驚いた顔をしている。
「本日の会合には、ケテルナ商会だけでなく、ビナーズ商会も参加いたします。今回の件で、ブルネス商会は両家の長兄たちの逆鱗に触れました。そう時間もかからずに、この国でその名前を耳にすることはなくなるでしょう。ですから、ご心配には及びませんわ」
ふんわりと微笑むフィゼーレの言葉を理解するのに、シャルティエは少し時間がかかった。
つまりは、ケテルナ商会とビナーズ商会が協力して、ブルネス商会を名前も残らないように全力で潰す! ということだろう。怖すぎる。
そして、その後。
あの時のフィゼーレの宣言通り。
ブルネス商会は目に見えて業績悪化の一途を辿り、多額の借金を抱え、この世界から姿も名前も跡形もなく消えたのだった。
ケテルナ商会とビナーズ商会を敵に回したら最後。店は草の根一本残らない更地にされる。
この事実は、ダイアラン中の商人たちの胸にしっかりと刻み込まれた。
この時のことが切っかけで、シャルティエはフィゼーレと個人的な繋がりを持つようになる。
あの不思議な蜂蜜を扱うユヒムと取引が出来るようになったのも、この頃からだ。
とは言っても、ケテルナ商会でも常に不在で有名なユヒムに会う機会はなく、フィゼーレやルキニーを通しての間接的な取引となるのだが。
そして、その次の年の春。
シャルティエの父親は作り上げたタルトで神のレシピの最優秀者に選ばれ、その権利を見事に獲得したのだった。
そのタルトに、あの不思議な蜂蜜を使ったことは、シャルティエと父親だけが知る秘密だ。
ほんの少し、香りつけ程度の、ひと雫の蜜。
ここから、シャルティエたち家族の生活は目まぐるしく変化していく。
店では作るのが間に合わないくらい、タルトの注文が増えていった。
他の種類の焼き菓子を作っている暇なんてない。父親は学園に通う傍ら、タルトを作るための職人たちを雇うと、その教育に付きっきりとなった。
シャルティエはフィゼーレの商人としての堂々とした姿に、強く憧れるようになる。
そのせいか、それまで一緒に遊んでいた近所の子供たちとは自然と距離が出来てしまった。
商人としてフィゼーレを越えたい。
いつの間にか、そう思うようになっていた。
セルトタージュは小さな焼き菓子店からタルト専門店へと変わる。初めての支店が中心街に出来ると、そこからさらに客足は伸びていった。
この頃から、シャルティエは手探りで養蜂業を始める。しかし、どんなにあれこれと手を尽くしても、あの不思議な蜂蜜に届く物は作れなかった。
どうやって、どんな風に誰が作っているのか。
魔虫の蜂蜜にまつわる怪しげな噂を耳にする度に、シャルティエの焦がれるような気持ちは募っていった。
もし作った人に会えそうな機会があったなら、絶対にそのチャンスを逃さないようにしよう!
それから月日は流れ、セルトタージュは中心街に本店を移し、支店も増えて七店舗となっていた。
ダイアグラムの片隅にあった小さな店は、新しい商品開発の場となっている。
いつかここでまた、祖父のレシピの焼き菓子を作ることが、父の密かな楽しみなのだそうだ。
そしてついに、シャルティエは運命の出会いをすることになる。
魔虫の蜂蜜屋の看板娘、ルーリアとの出会いだ。
シャルティエはその出会いで、自分の人生が大きく揺れ動いていくのを感じていた。
……でもまさか、同じ菓子学科を受験して、二人そろって最優秀に選ばれるようになるだなんて、これっぽっちも思ってもいなかったけど。
人生って、何が起こるか分からないから面白い。
試験の結果報告と、食事会用のタルトを取りに家に戻ったシャルティエは、昔のことを思い出してクスリと笑った。
「ただいまー」
「お帰り、シャルティエ」
「お帰り。よく頑張ったねぇ」
シャルティエが家の玄関に転移すると、家族みんなが笑顔で迎えてくれた。今日は祖母も田舎から来てくれている。
「試験はどうだったの?」
「あれ? 学園から通知が来てるんじゃないの?」
「もう、お姉ちゃん。分かってるくせにー」
妹のルナエが焦れったそうな顔で、姉の腕に絡みつく。シャルティエが試験に合格することは、誰も疑っていなかったらしい。みんなはもう一つ先の、その結果を尋ねているのだ。
「ねぇ、お父さん。私、お願いがあるの」
「お願い? 何だい?」
父親はシャルティエに優しく微笑む。
「あのね、私、新しいお店を作りたいんだけど……」
「新しい店? どうしたんだい、急に?」
シャルティエはこの瞬間に言う台詞を、ずっと前から決めていた。
「ううん、急じゃないの。ずっと考えてたの。どうしたら私のお菓子を、もっとみんなに食べてもらえるんだろうって。タルトのお店じゃなくても、『セルトタージュ』って名乗ってもいい?」
シュークリームの店でも、祖父から受け継いだ名前を守っていきたい。そう伝えれば、みんなはシャルティエがずっと思い描いていた、家族で幸せを分かち合う笑顔に変わっていた。
「ああ、もちろんだよ」
それは、甘くて美味しい菓子を食べた時の、優しい幸せな笑顔によく似ていた。
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