第8章・試験に向けて

第108話 バタバタな帰り支度


 エルシアが焼きもちを焼き、ヤケになって勇者パーティから抜けたため、ルーリアは思っていたよりも早く家に帰れることになった。


 ガインとエルシアは結界を調整するため、先に隠し森の家に帰っている。今は『転移しても大丈夫』と連絡が入るまで、帰り支度をしながら待っているところだ。恐らく、そんなに時間はかからないだろう。


 ルーリアは自分の部屋で、家に帰る前にしておかなければいけないことを、フィゼーレに相談しながら片付けていた。と言っても、することは少ない。


「この『課題試験申込書』って、どうすればいいんでしょう?」


 その中でも大事なのは、主に書類整理だった。

 来年の春、神のレシピの課題試験を受けるためには、学園に提出しなければいけない書類がいくつかある。ルーリアはこういった物を書いたことが一度もなかった。


「それは、その空欄にお名前を入れるだけですわ」

「え、それだけ?」


 驚くことに、書類のほとんどが名前を書くだけだった。本人が書いた文字であれば、年齢も種族も住んでいる国も、何もいらないらしい。

 これはただの書類ではなく、一種の契約書のような物だとフィゼーレは話した。それとこの書類に書いた名前が、そのまま学園での呼び名になるらしい。


「学園では誰もが気軽に学べるようにと、身元を隠すために偽名を使うことが許されています。ですのでルーリア様も、お好きなお名前になさっては如何ですか?」


 なんて言われたものだから、ルーリアは頭を悩ませている。ガインからも出来るだけ素性は隠すように言われていた。


「んー……。偽名、名前……」


 ちなみにシャルティエは『在学中から菓子職人として名前を売り込みたい』と、本名のままで行くと宣言していた。職人系の学科を選ぶ人は本名が多いらしい。逆に軍部や政部などの人は、そのほとんどが偽名だという。


「姫様。お名前でお悩みでしたら、姫様にピッタリのものがございますわ」


 フェルドラルが満面の笑みで寄ってきた。

 悪いけど、嫌な予感しかしない顔だ。


「……例えば、どんな名前ですか?」

「そうですね。例えば、イシュタル、アフロディーテ、イシス、フレイア、ヴィーナスなど。あとは、アグライア、エウプロシュネ、タレイアなども。ああ、でもやはり姫様の体質を考えますと、アテナ、ヘスティア、アルテミスの方が……」

「ちょ、ちょっと待ってください。どこから出てきた名前なんですか、それ?」


 何の名前かは知らないが、フェルドラルは存在しているものを思い浮かべるように、スラスラと口にする。


「もちろん美の女神の名前ですわ。この世界の方ではありませんが」

「却下です! どちらの女神様ですか? 聞いたこともありませんよ」


 そんなどちら様とも言えない名前、怖くて名乗れる訳がない。むぅっと眉を寄せていると、フィゼーレがクスクスと笑った。


「それでしたら、お名前を呼ばれた時にご自分のことだと、すぐにお分かりになるものが宜しいかと思いますわ。せっかく素敵なお名前なのですから、少し変えるくらいで宜しいのではないでしょうか」


 んー……それだとルーリアだから、ルー、ルリ、リア、とか?


 呼ばれて反応できなかったら、あとで困る。

 ルーリアは思いついた名前を書類に記入して、それをフィゼーレに渡した。


「フィゼーレさんも忙しいのに、わたしの方ばかり手伝ってもらってすみません。他に何かありますか?」

「いいえ、これで書類は全てそろいました。あとは提出するだけですので、そちらはお任せください」

「はい、よろしくお願いします」


 これであとは試験当日に自分で完成させたシュークリームを用意するだけとなった。


「ルーリア様。このお部屋にある物で、ご自宅用に必要な物はございますか? お好きなだけお持ち頂ければ……いえ、もしあれば新しい物をお届け致しましょう」

「い、いいえっ、特に何も。それにわざわざ新しい物だなんて」


 ルーリアの中では、この部屋の物は全て借り物という認識だ。家に持って帰るという考え自体なかった。


「フィゼーレ。姫様の服をいくつか注文します。これらに似た服と、あとこの辺りの小物を……」

「ひぃっ!」


 次々と注文するフェルドラルに、ルーリアは青ざめた。タルトの時みたいになったら、どうしてくれるんだ。


「フェルドラル、少しは遠慮してください。わたしがお父さんに叱られます」

「これくらいは別に構わないと思いますわ。ああ見えてガインは、姫様の着飾られたお姿を陰からこっそり楽しんでいるのですから」

「驚いたことはあっても、楽しんでいたことはないと思いますけど」


 それにその言い方だと、ガインが覗き趣味の変な人みたいに聞こえるから止めて欲しい。

 ルーリアが止めようとしても、フェルドラルとフィゼーレはどんな服を着せようか、本人を置き去りにして話に花を咲かせまくっている。


 ……うぅっ。またスカートが増えていく。


 そんな二人の様子を諦めて見ていたルーリアは、神のレシピの課題に挑戦する上で、とても大事なことを思い出した。


「フィゼーレさん。実は試験のことで、お願いしたいことがあるんですが」

「はい、何でしょうか?」


 何なりと、と笑顔で振り返ったフィゼーレの手には、フェルドラルが注文した品がびっしりと書き留められたメモが握られていた。

 ルーリアは思わず、ウッと息を呑む。


「……あの、時々でいいので、ここの調理場をお借り出来ないでしょうか?」

「調理場……ですか?」

「はい。家にはお菓子を作るための道具も、調理器具もほとんどありませんので。貸してもらえると助かります」


 シャルティエが貸してくれたレシピには、ちゃんとした道具がないと作れない菓子もたくさん載っていた。加熱台と魔法だけでは、どうにもならない。

 フィゼーレは何かを言いかけた後、少しだけ困ったような顔で微笑んだ。


「それは、きっと何も心配いりませんわ。もしご自宅に戻られてから、ここの調理場の物で必要な物がございましたら、その時はご自由にお使いください」

「……? はい、ありがとうございます」


 不思議な言い方をしたフィゼーレに、ルーリアは小首を傾げる。とりあえず貸してはもらえるみたいなので、ホッとした。あとは……。


「セフェル」

「にゃ! はい、姫様」


 もはや定位置のベッドの上で、セフェルはビシッと手を上げた。うん、文句なしに可愛い。


「セフェルは転移の魔術具で家に移動すると聞いているんですけど、本当に行ったことがない場所でも大丈夫なんですか?」

「にゃ! だいじょぶです。フェル様の契約で、ボクと姫様はガッチリ繋がってるから」


 フェルドラルも自信たっぷりに頷く。


「姫様が過去に訪ねられた場所に移動する分には、何の問題もございませんわ。その辺りはエルシアも知っているはずですので、結界の方も大丈夫でしょう」

「分かりました。じゃあ、セフェルはわたしが転移した後に、同じように家に転移してきてください」

「にゃ! 了解です」



 しばらくすると、エルシアから『結界の調整が済んだ』と、白い小鳥の手紙で連絡が入った。


 ルーリアは持てるだけの荷物を手にし、転移の魔術具を展開させようと、部屋の開けた場所へ移動した。持ちきれなかった荷物は、あとからユヒムたちが運んでくれるらしい。


 ふと、フェルドラルで目が留まる。

 フェルドラルは魔術具だ。魔術具が魔術具を使って、一人で転移できるのだろうか?


「あの、フェルドラル。フェルドラルは自分で魔術具を使って移動が出来るんですか?」


 素朴なルーリアの質問に、フェルドラルは盲点を突かれたような顔をした。


「……そう改めて問われますと、わたくしにも分かりません。わたくし自身が転移の魔術具を使用したことはございませんので」


 それなら先に気付いて良かった。

 どうするか尋ねると、フェルドラルは少しだけ考えた。


「では申し訳ございませんが本体に戻りますので、姫様の背を少しの間お借りしても宜しいでしょうか?」

「はい。もちろん、いいですよ」


 フェルドラルはルーリアの右肩と左の脇下に腕を回し、淡い光を放って弓の姿へと変化した。

 弓型のフェルドラルを見るのは久しぶりだ。

 その様子を見ていたフィゼーレは、口元に両手を添えて小さく息を呑んだ。


「まぁ……。お話には伺っておりましたが、実際に目の当たりにしますと、とても不思議な気持ちになりますわ」

「初めて見ると驚きますよね。わたしも最初は驚きました」


 ルーリアはフィゼーレに向き直った。


「フィゼーレさん、本当にいろいろとお世話になりました。セイラさんとラミアさんとアチェットさんにも、お礼を伝えておいてもらえますか?」

「はい。お気遣いありがとうございます」

「あ、あとルキニーさんや調理場の皆さんにも。たぶんそう遠くない内に、またお邪魔するような気もしますけど」

「私も、ルーリア様とまたお会い出来る日を楽しみにお待ちしております。ガイン様、エルシア様にも、お身体にお気をつけてお過ごし頂けますよう、お伝えください」

「はい。本当にありがとうございました」


 ルーリアはフィゼーレに挨拶を済ませると、転移の魔術具を展開させた。魔法陣の上で、森の中にある山小屋を転移先に選ぶ。

 立ち昇る淡い光に包まれ、ルーリアは懐かしい我が家へと帰ったのだった。


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