第6話 少女の日常


 ルーリアの一日は短い。


 起きるのは決まって、地面に陽が当たる時間になってからだった。

 怠けて寝過ごしている訳ではない。

 その時間にしか起きられないのだ。


 森林国家・ミリクイードの東の果て。

 険しい山脈に連なる山際の、誰も住んでいない森近く。


 そこに、ルーリアの家はあった。


 周囲には町や村どころか、家屋の一件も見当たらない。高台から見える景色は、見渡す限りが草原と森と丘と山。夏は緑一色になる、そんな自然しかない場所だった。


 この地域は魔物の巣窟とも呼べる魔族領と山脈を挟んで隣合っているから、強い魔物がよく出る。腕利きの冒険者たちでも滅多に寄りつかない、とても危険な場所である。

 そんな所だというのに小さな身体のルーリアは、たった一人で森の中にいた。


 手には植物のつるで編まれたカゴが一つ。

 武器のような物は何も持っていない。

 いつ魔物が襲いかかってきてもおかしくない状況なのに、ルーリアはニコニコしていた。


 一つに束ねた毛先の白い黒髪を揺らし、弾むような足取りで森の奥へと向かう。

 ルーリアが歩を進める度、カゴの中のガラス瓶はカチャカチャと音を立てた。

 花を眺めながら歩いていた足を止め、小さく尖った耳をピクリとさせて顔を上げる。


 ……来ましたね。


 かすかな音を捉えたルーリアは風の呪文を囁くように唱えた。


清き風を身にまとえフィース・オ・レイス


 淡く光る魔法の文言もんごんが円形に浮かび上がり、ほどけるように光が腕にまとわりつくと、ふわり……と若草色の風が左手を包み込んだ。

 それと同時に森の奥の方から低く、唸るような音がだんだんと近付いてくる。


 ブブ……ブブブ……ブブッブブブブブ……


 森の木々の隙間から、魔物の蜂たちが群れを成して飛んできた。その様子はまるで全身をくねらせて進む巨大な蛇だ。


 蜂の体は黄色と焦げ茶色のしま模様で、大きさは人の頭くらいあった。

 毒針を持ち、素早く飛び回って敵を刺す。

 一匹でも殺人蜂として恐れられる『魔虫の蜂』だ。


 目の前にいるのは、その群れである。

 自分たちのナワバリに入ってきた侵入者に向け、蜂たちは紅く目を光らせる。

 この目色の時の魔物は要注意だった。

 早い話が攻撃態勢、殺る気満々だ。

 

「今日もみんな元気ですね」


 ルーリアはニッコリ微笑むと、大人でも裸足で逃げ出す蜂の群れに向かって歩き出した。

 蜂たちは豪雨が降るような激しい羽音を立て、ルーリアをじっくり囲んでいく。


 ──ブンッと。耳の奥にひと際高い音が響いた。


 一匹の蜂がルーリア目がけて飛び出したのを皮切りに、他の蜂たちも次々と攻撃を仕掛けてくる。鋭い毒針が不気味に光り、一斉にルーリアへ迫った。

 ルーリアは微笑みを浮かべたまま地面を軽く蹴り、自分に向かってくる蜂たちに順に風をまとわせていく。左手で素早く正確に、優しく撫でるように風で包む。


 ひらひらと。


 殺気立つ蜂の群れの中を、ひとひらの花びらが舞うようにルーリアは進む。

 風をまとった蜂たちはくるんと何度か回転すると、目色を紅から黒に変え、お尻からぽすっと地面に座ったような形となり、そのままじっと動かなくなった。

 つい今し方まで、殺気立って襲いかかってきていたのが嘘のように、どの蜂も触角をピョコピョコと動かすだけになっている。


 こうなってしまうと魔物である蜂たちも小動物のように愛らしい。首周りのモフモフの毛を撫でたくなるくらいだ。……間違いなく噛まれるだろうけど。

 そうして一匹一匹丁寧に、自分に向かってくる順に鎮めながら、ルーリアは森の奥へと進んで行った。


「今度の花は香りが良いので楽しみです」


 そう呟いて、ふふっと微笑む。

 目についた蜂たちを大人しくさせて辿り着いた先には、ルーリアの背丈よりもずっと大きな木箱があちらこちらに置かれていた。その様子はまるで、森の中にある小さな図書館だ。


 慣れた手つきで木箱の鍵を外し、フタになっている木板をずらすと、ルーリアは持ってきたカゴの中から小さなナイフを取り出した。

 木箱の表面に付いている白い塊をカリカリと少しずつ削っていく。

 しばらくすると削られた隙間から、トロリ……と琥珀色に輝く蜂蜜がこぼれてきた。

 花のような芳香が空気を包み、その後を追いかけるように濃厚な甘い香りが辺りに広がる。


 はぁ……っ。良い香り。


 ルーリアはカゴの中から木製のスプーンを取り出し、水魔法で洗浄した。すぐにこぼれる蜂蜜をすくい、ぱくっと口の中に放り込む。


「んんん~~~……。美味しいっ」


 自然と口元が緩み、頬に手を当てたまま、とろけるような笑顔となった。


 ……っと、いけない、いけない。


 急いでカゴの中から、いくつかの空瓶を取り出す。蜂型の飾りが付いた銀色のフタを外し、六角形の瓶を木箱に並べ、先にナイフで開けた穴をさらに削り、少しだけ広げていく。


「これでよし、と」


 ルーリアが何をしているのか。

 その答えは『採蜜』である。

 魔物である魔虫の蜂の巣箱から蜜を採っているのだ。この隠し森は、魔虫の蜂蜜屋の養蜂場なのだ。


 巣箱に瓶を並べ終わると近くにある切株に腰を下ろし、ルーリアは頬杖をついた。

 小鳥たちのさえずりを聴きながら、きらきらと流れ落ちる蜂蜜を眺める。蜜は砂時計の砂が落ちるように、ゆっくりと時間をかけて瓶に溜まっていった。


 ……いつ見ても綺麗な色。


 蜂蜜がいっぱいに溜まった瓶にフタをして、空の瓶と交換する。のんびりとした時間の中で、それを持ってきた瓶の数だけ繰り返した。

 全ての瓶に蜂蜜を詰め終わると、最初に削った白い塊を元に戻すような形に貼りつけ、木板でフタをして鍵を掛ける。


「今日の採蜜完了っと」


 蜂蜜の瓶の入ったカゴを手に持ち、来た時にも通った道を下るようにして帰る。カゴは風魔法で浮かせているから、ルーリアが持っても重くはなかった。


 蜂たちは何もなかったような顔をして、ブンブンと元気に巣箱の周りを飛んでいる。それでもまださっきのことを覚えているのか、蜂たちがルーリアに近付いてくることはなかった。


「いつもありがとう」


 蜂たちからの返事はないけれど、ルーリアは蜜を分けてもらった後、いつも必ず感謝の気持ちを伝えていた。



「さて、と」


 ルーリアの仕事はこれだけではない。

 森に来る時にも通った花畑では、その育ち具合を確認する。


「……もう少しで種の収穫かな」


 小さく色付く唇の下に指先を当て、次の季節のことを考えながら花畑の中を歩いていく。

 爽やかな風が通り抜ける度、色鮮やかな花たちが甘い香りを溶かして静かに揺れる。


 青空の下、一面に広がる花畑。

 ここは元々は何もない草原だった。

 ルーリアが地道に耕して種をまき、少しずつ集めた花を育てて、ここまで大きくしたのだ。

 いろいろ試して蜂蜜に最も合うと思った花を、森に近い大きな畑で季節ごとに栽培している。


 その花畑を通り過ぎ、吹き抜ける風で波のようにそよぐ草原の中をのんびりと下る。

 家の裏にある三本のエリオンの大樹が見えてきた。


 家に着いたら蜂蜜の瓶を棚に並べ、父親宛に届いた手紙に目を通していく。カウンターに置いてある手紙は、ルーリアが見ても構わない物だ。

 その中から来客の予定を探し出す。


「えーと、三日後にユヒムさんっと」


 魔虫の蜂蜜を目当てにこの森を訪れるのは、ガインから受け取った許可証を持つ、ごく少数の限られた者たちだけだ。ルーリアが話を出来るのも、その者たちだけとなる。


 短い会話から得られる知識はとても少なく、当然の結果とも言えるが、まともな常識など身につくはずもなくルーリアは育ってしまった。

 知っていることより知らないことの方が多い。


 ……そろそろ部屋に戻らないと。


 窓から差し込む光で日の傾きを知る。

 ルーリアが起きていられるのは一日の内、陽が当たるおよそ6時間だけだ。もうそろそろベッドに入らなければならない。

 短い時間しか起きていられない原因不明の呪い。そうとしか呼べない謎の体質。


 起きている時間の分しか身体は成長しないため、ルーリアはずっと少女の姿のままだった。今の見た目は人族で言えば10歳にも満たない。

 本当なら今年で27歳だったはずなのに。


 机の上にあったミデルの実を風で浮かせ、氷で囲って火で焼く。実一つを焼くにしては、魔法の無駄遣いもいいところだ。

 焼き上がると風で熱を冷まして皮を切り、黄金色のホクホクを口の中にポイッと入れる。

 ほんのりとした優しい甘さが広がった。


「あの男の子、今頃どこを旅しているんでしょう。……元気にしてるかな」


 またどこかで会うことがあったなら。


 叶えられることがないと分かっていても、例えそれが社交辞令だったとしても、誰かと交わした約束があるというだけで、心の中に温かい場所が出来たような気がした。


 自分だけ周りとは違う時の中で生きていく。

 それはルーリアにとって、とても辛いことだった。


 世界中からの置いてけぼりだ。


 けれどルーリアはそれを顔に出さなかった。

 両親には心配も迷惑もかけたくないし、自分が顔に出せば周りの人たちにも同じ顔をさせてしまう。


 例え呪われていようとも、正しくありたい。

 自分が知る限りの中で正しいと思う道を進みたい。そしていつかは外の世界で誰かのために生きてみたい。


 ……誰かに必要とされたい。


 そんないつ叶うとも知れない小さな願いを抱き、ときを失いながらもささやかな日々を過ごす。


 それが、少女ルーリアの日常だった。


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