第5話 残された約束


 木の実がじりじりと香ばしく焼けていく。

 小気味好い音を聞きながら、ルーリアはうっとりと目を閉じていた。


「花じゃないのに、こんなに良い香りがあるなんて知りませんでした」


 養蜂場の近くでは、季節ごとに種をまいて花畑を管理している。ルーリアの大事な仕事の一つだ。

 蜂蜜のために香りの高い花や花蜜の濃い花を育てているのだが、ルーリアの数少ない趣味であり、自慢の花畑でもあった。


 秋の今はロモアという青空色の花が甘い香りを強く放っている。甘いのかな? と思って種を口に入れたこともあるが、残念ながら味はなかった。

 この香ばしい匂いに甘い香りのロモアの種を足したら……と考えかけ、いやいや、あれは希少な種なんだった。と思い直す。

 長い長い時間をかけ、コツコツ集めた砂粒より小さな種はルーリアの努力の結晶だ。まだそんなに数もないから食べる訳にはいかない。


 そんなことを考えながら、待つことしばし。


「ほら、焼けたぞ。これも冷ましてから食べるようにな」

「わぁ~。ありがとうございます!」


 尊敬の目を輝かせ、葉皿に焼き立てを受け取る。ルーリアはすっかり餌付けされていた。


 フーフー、フー……ぱくっ。さくさくさく。


「!!」


 ……お、美味しいっ!!


 ルーリアは驚きに満ちた目を見開き、言葉も忘れて少年を見つめた。その顔に少年は優しく微笑み返す。

 何か感想を言わなければ、とルーリアは言葉を探した。


「……サクサク……」


 やっとのことで出した声。

 そこに向けられた少年の目は、小さい子供を見るような柔らかなものだった。


「また随分と変わった名前を付けたな。まぁ、分かりやすくていいんじゃないか」

「っあ、いえ、違います! こんな美味しい物を食べたのは初めてで、その……」


 そういえば名前を付けてもいいと言われていたことをすっかり忘れていた。慌てて言い直そうとすると、少年は葉の上に他の物も載せていく。ルーリアが木の実を採りに行っている間、少年も手近にあった木の実や果実を集めてくれていたようだ。


「どれが良かったか後で聞くからな。全部は無理かも知れないから、気に入った順に焼き方を教えることにする」


 ルーリアは透かさずサクサクを指差した。


「こ、これ! これを教えて欲しいです!」


 期待の目を向けられた少年は返す言葉に詰まりながら、腰のカバンから小さな革袋を取り出す。


「家にこれと似たような粉はあるか?」


 中身は粗挽きの麦の粉だ。

 安物だから質の良い物ではない。


「…………見たことはありません」


 ずん……と、目に見えて落胆したルーリアに、少年はかける言葉がなかった。

 材料がないのでは教えても意味はない。

 自分が持っている麦もこれが最後の一袋だ。

 町か村に行かなければ手に入れることは出来ない。


 少年が見た限りでは、この辺りに人の住んでいる気配はなかった。強い魔物が出る山脈に近い高地で、深い森の中にポツンとある、あの山小屋の方が不自然なのだ。

 ただでさえ森の外に出られない少女が、どうして麦の粉を手に入れられるというのだろう。


「……っあ、じゃあ、ミデルの焼き方を教えてください。あれもとても美味しかったです」


 自分に釣られて気落ちしたように見える少年。

 それに気付いたルーリアは、急いで笑顔を作ってミデルを指名した。自分のせいで少年にまで暗い顔をさせたくはない。


「……ああ、分かった。他にも知りたい物があったら言ってくれ」


 少年もルーリアの気遣いに気付いたのか、それ以上は何も言わなかった。


 そうして少年は短い滞在の間、時間を作ってはルーリアに木の実の焼き方を教えていった。



 ◇◇◇◇



 商人たちが森を発つ日の前日。


「……ここから出たいか?」


 二人分の小さな焚き火を囲み、一緒に座り込んでいた少年が隣に座るルーリアに呟くように尋ねた。


 サラリとした髪に火色が灯り、揺らめく焔が少年を紅く染める。澄んだ瞳で焔を見つめ、綺麗な横顔の少年はルーリアの答えを待った。


 パチッ……と、火の粉の散る音が森に響く。


 揺れる紅い火を幻惑の金色クライオフェンの瞳に映し、ルーリアは視線を遠くに馳せた。


 ここから──……。


 焔を映した少年の瞳は、まっすぐに真剣で。

 冗談で口にしている言葉ではないのだと、ルーリアの胸を強く叩いた。


『出たい』と言えたら、どんなに楽だろう。

『連れて行って』と、その手を取れたなら、どんなに世界が広がるだろう。


 だけど、わたしはこの森から出られない。

 わたしの『とき』は、少年と同じ早さで流れない。


 静かな森の中、はらはらと舞い散る落ち葉は鮮やかな絨毯を作り出し、今年もまた、ルーリアだけが色もなく取り残されていく。


 出たいか、出たくないか。


 答えがその二択だけだと言うのなら、ルーリアの行き着く先はいつだって決まっていた。


 出たくても、出られない。


 だから、ふるふる……と。

 ルーリアは緩く首を振り、誰に聞かれても同じように繰り返す言葉を少年に向けることしか出来なかった。


「……わたしはここが好きだから」


 そんな答えになっていない声を微笑んで返せば、少年はひどく切ない火光を蜂蜜色の瞳にそっと宿らせた。

 少年はルーリアがここから出られない理由を知らない。純粋に誰かに閉じ込められていると思ったのだろう。


 ……わたしが余計なことを言ってしまったから。


 つい漏らしてしまった話を心の優しい少年が気にする必要はどこにもない。

 これは誰にも、どうにも出来ないのだから。

 仮に出ることが出来たとしても、少年はあっという間にルーリアを置いていなくなってしまうに決まっている。自分では、どんなに頑張っても少年の時の流れに付いて行くことは出来ない。


 それでも、一瞬でも夢を見させてくれた少年にルーリアは笑顔を向けた。

 自分に出来る、精一杯の笑顔を作って。



「明日、ここを発つんですよね?……あの、良かったらこれ」


 ルーリアは少年の前に小さな装飾品を差し出した。家にある母親の覚え書きに載っていた守りの魔術具だ。氷の欠片のような魔石に、雪の結晶の模様入り。


「これは?」

「お守りです。急いで作ったから大した物ではないんですけど。いろいろ教えてくれたお礼です。……あの、手首を出してもらってもいいですか?」

「……わざわざ作ってくれたのか」


 少年は一瞬、戸惑った。

 魔術具のお守りと言えば、普通は家族や特別に親しい相手にしか贈ったりしない物だ。

 この少女は、きっとそんな当たり前のことも知らないのだろう。


 ……オレのために……。


 普段なら間違っても他人に知らない魔術具を着けさせたりはしない。一緒に旅をしている二人に対してもそうだ。

 けれど少年はルーリアの前に右手を出した。


 旅の途中でたまたま知り合っただけの名前も知らない間柄だ。だからこれが信頼と呼べる感情なのかどうか、少年にも分からなかった。

 けれど、そうすることが当たり前なように、少年はすんなりとルーリアの前に手を差し出していた。


「一度くらいはちゃんと守ってくれるはずです」


 自作に自信がないのか、アイテムを着けながら少女はそう呟いた。少年も自分より幼い少女の作るアイテムに、そこまでの期待はしていない。例え効果のない飾りだったとしても、その気持ちだけで十分だった。


「ありがとう。……これは世話になった礼という訳ではないんだが」


 少年は自分の柄にもなく照れた顔で、包みを一つルーリアに渡した。


「……これは?」

「見れば分かる」


 さっきと逆転する立場にルーリアは戸惑う。


「……あ!」


 包みを開けると、そこには今までに習った木の実が焼いて入れてあった。それに、サクサクまである。


「…………これ……。あれが最後の一袋だって言っていたのに」


 これから旅に出る少年の方が、あの粉は必要となってくるだろう。それなのに、そんな貴重なものを使って……。

 少年を見つめるルーリアの目には、じわりと涙が込み上げてきていた。


「なっ、泣くほどのことじゃないだろ!?」


 ぎょっとして慌てる少年の姿がおかしくて、ルーリアは涙目のまま笑う。


「……ごめんなさい。すごく、嬉しくて……」

「──っ……」


 少年は少女をここから連れ出してやりたい衝動に駆られた。だが、それは許されるはずもなく。


「……こんなことしかしてやれなくて済まない」


 そう口にするのが精一杯だった。


「いいえ。わたしには何より嬉しい贈り物です。本当にありがとうございます。……あの、わたし本当は」


 少年はルーリアの言葉を遮った。

 本当の姿を見られた、あの時と同じように。

 だけど今回はその手にナイフはなく、代わりに少年の手首にはルーリアの作ったお守りが小さく揺れていた。


「……今は何も知らない方がいい。聞いてもオレにはどうしてやることも出来ないし、してやれない。……けれど、もしこの先。またどこかで本当の姿で会うことがあったなら、その時はオレから名乗ると約束しよう」




 次の日。


 少年は旅立ち、ルーリアはまた元の生活に戻った。外の世界を知ることもなく、同じことを繰り返す日々に。


 以前と違うのは、時折、森の中で細い煙が上がるようになったことだった。木の実の焼ける香ばしい匂いを、誰も知らない風に乗せて。


 深い深い隠し森の奥、誰に気付かれることもなく、ただひっそりと。


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