第7話 少年の日常―前
少年の一日は長い。
起きるのは決まって日が昇る前だった。
好きで早起きしている訳ではない。
のんびり寝てなんかいられないからだ。
不思議な親子の住む森を出た後、ひと月ほどの旅の末、少年たちはミリクイードの西隣にある妖精の国・サンキシュに辿り着いていた。
途中で魔物に出くわしたり、盗賊に襲われそうになったりと、いろいろあったが三人とも無事だ。
それもこれも回復薬や食料を、あの森でしっかりと準備することが出来たからだと言えるだろう。
偶然だとしても、あの森に立ち寄れたことは本当に幸運だった。
とは言え、三人で行動を共にするのは、この国に着くまでの約束だ。元より知り合いでも何でもなかったため、今はもう別れてしまっている。
少年がこの国──サンキシュを目指していたのには理由があった。一番は何と言っても移住者に対する差別がないからであるが。
入国する際も審査や申請などの必要は特になかった。他の国ではこうはいかない。
隣人を愛し、迷える者には優しく手を差し伸べる慈愛に満ちた妖精女王の治める国・サンキシュ。
そう言われているこの国には様々な人種が住んでいた。
妖精族、小人族、精霊族、人族、獣人。
そして……魔族までもが、ここでは分け隔てなく暮らしているという。
しかしだからと言って、この地が安心安全で治安が良い、という訳ではなかった。
そう。だから今も──。
「おう、小僧。おめェ余所もんだろ? この辺りじゃ見ねえナリだな。どこから来た?」
「服だけでも高く売れそうだ。そういや奴隷商のヤツが、おめェみてえなガキを欲しがってたな。こいつはちょうど良い」
一人で行動していた少年は、細い路地裏でガラの悪い獣人の男たちに囲まれていた。
他の土地から流れてきた子供など、ここでは恰好の餌食だ。
「……お前たちに用はない」
少しでも弱味は見せまいと、少年は気丈に道を塞ぐ男たちを睨みつけた。どんな言葉も通じそうにない空気をひしひしと肌で感じる。
……まずいな。厄介な相手に目をつけられてしまった。
男たちはニヤついた笑みを浮かべ、壁に足をかけて前後を閉じた。少年を通すつもりなどサラサラない構えだ。
「人族のくせに随分と生意気な目をするガキだな。どうやら痛い目をみねぇと、自分の置かれてる立場が分からねぇよーだ!」
自分に向けて力任せに伸ばされた男の腕を、少年は風魔法で切りつけた。ナイフで引いたような細い線が腕に入る。
「──痛ッ、魔法か!?」
男が手を引っ込めた一瞬の隙を突き、間をすり抜けてすぐさま大通りへ出る。人波にまぎれ、全速力で走った。男たちが思っているよりも少年の動きは素早い。
「くそっ! 逃がすな! 追え!!」
あんなゴロツキたちに構っている暇はない。
少年は全力で駆けた。捕まったら何をされるか分かったもんじゃない。それに少年には、男たちとまともに戦えるような力は何もなかった。
少年にあるのは小さなナイフだけだ。
剣なんか持ったこともなければ、魔法だって大して使えない。……戦えるはずがなかった。
走りながら自分の着ている服を見下ろす。
確かに周りとは毛色が違っていた。
……困ったな。この格好は目立つのか。
だからといって金もないから、すぐに買い替えることは出来ない。
「いたぞ! こっちだ!」
「──ッ」
少年は心の中で舌打ちをした。
知らない土地で耳や目鼻の利く獣人たちから逃げ切ることは、足の速い大人でも難しい。
少年はあっという間に厳重に取り囲まれ、逃げ道も完全に塞がれてしまった。
面倒なことに人数も先ほどより増えている。
「さっきはよくもやってくれたなァッ!」
腕を切られて逆上した男が、少年の腹に重い蹴りを入れた。相手は獣人化しているから、その体格差は大きい。
「──ッ!!」
鈍い音が響き、全身を石壁に打ちつけられた少年は一撃で意識が遠のきそうになった。
何度も蹴られ、口の中に嫌な味が広がっていく。
「まだ寝んのは早ぇぞ!」
髪を乱暴に掴んで引き上げ、鋭い手爪を少年の目に映し、男はわざと音を立てて顔前に足を踏み込んだ。薄汚れた靴が土煙を立てる。
「こう見えても俺ァ優しいからなぁ。自分から服を脱いで靴を舐めたら許してやんよ。それが嫌なら、この爪の餌食だ」
「ククク。ガキ相手に容赦ねェなァ」
嘲笑を漏らす男たちの中に少年を憐れむ者などいるはずもなく。
「一人で脱げねぇってんなら手伝ってやろーかぁ? ガッハッハッ。おっ、おめェ。なかなか洒落たもん持ってんじゃねーか」
目元に影を落とし、少年は俯く。
その様子に抵抗する気力を失ったと見た男は、少年の手首にある魔術具に手を伸ばし、
「ッギャァアアァ────!!」
極限まで魔力を込めた炎と風の反撃に遭い、腕をズタズタに焼き切られた。
「このガキッ! よくも──」
こんな所で死ぬ訳にはいかない。素直に服を渡して靴を舐めるのが正解だったのかも知れない。
けれど、自分の中にある自尊心がそれを許さなかった。黙って殺されるくらいなら、一矢報いる。無駄な抵抗と分かっていながらの反撃だった。
「調子に乗ってんじゃねェぞ! ガキがッ!」
ナイフを弾き飛ばされ、男の仲間に殴られて地面に強く叩きつけられる。
「クソがッ! 殺してやる!!」
今度こそ本当にどうにもならない。
片腕が血まみれの男は、怒り狂った目でもう片方の腕を振り上げた。少年の心臓を狙い、ありったけの力を込めて鋭利な爪を振り下ろす。
──────…………。
無音。急に音が聞こえなくなった。
それに異様に寒い。
「──な……!?」
少年が力を振り絞って身体を起こすと、周りは嘘みたいに氷漬けとなっていた。男たちの不格好な氷像が立ち並び、自分の吐く息が白い。
いったい、何が──……。
しかし考えを巡らせることも叶わず、少年の意識は深い眠りに誘われるようにここで途切れた。
◇◇◇◇
ザブン──コポコポコポ…………
遠くで何かが水に落ちた音がした。
むせるような草花の匂いが全身に染み込む。
………………。
背中から柔らかな毛布でふわりと包まれたような感覚がして、クスクス……と囁き笑う声が耳に届く。
コポリ……と、空気の泡が上に向かうのを感じて目を開けた少年は、自分がまだ夢の中にいるのだと思った。
水の中に落ちたのは、自分だったのだ。
…………何だ……ここは……?
透明な水の中に自分が漂っている。
見上げれば、魚のように泳ぐ植物や花が目に映った。
揺らめく光が幻想的で、まるで夢の中にでもいるような光景だが、水中にいると自覚した途端、急に息苦しさが襲ってきた。
──……っ。息が……!
すると水底から空気の泡が大量に湧き上がり、少年の身体を一気に上へと押し上げた。
「──ッ、ハァッ、ケホッ」
水面に顔を出し、手近にあった木板に手をつく。呼吸を整えて周りの様子を窺うと、遥か彼方に森が見えた。
……この恐ろしいほど静かな空間は何だ?
そこは風も水も空気でさえも、時を止められてしまったかのように静寂に包まれていた。
水から身を引き上げ、周囲を見渡す。
少年が手をかけていたのは、水上に作られた円形のガゼボにかかる桟橋のような場所だった。
水上に浮かぶ、孤島のような真っ白いガゼボ。
白い柱や手すりを花や
周囲の森までの距離を見た限りでは、かなり広い湖の真ん中辺りにいるようだ。
……これは幻か?
そう思ってしまうくらい現実味がなかった。
警戒しながら桟橋からガゼボの方へ足を踏み出すと、今度は音が溢れた。
「曲者め! 動くな!」
降って湧いた大きな声が耳に届く。と同時に腕を取られ、少年は床に組み敷かれた。
「ッ!?」
相手は自分よりも小柄な小人族の年寄りだった。だが動きに無駄がなく、腕力はかなり強い。
慌てて身体を起こそうとしても、相手はビクともしなかった。空中に浮かぶ複数の槍の切っ先が、そろって少年に突きつけられる。
パチン、と扇子を閉じる音が響くと、槍は少年から離れて一列に整列した。
「放してやるが良い。其の者は妾が招いたのじゃ」
ガゼボの奥から涼やかな少女の声が聞こえてきた。威厳がある、と言ったらいいのか、偉そうと言ったらいいのか。
「しかし、陛下」
……陛下!?
少年は押さえつけられたまま、顔をそちらへ向けた。
「こら! 勝手に顔を上げるな! 妖精女王の御前であるぞ」
「…………女、王……?」
少年は今度こそ夢だろうと思った。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます