第10話

 いつの頃からだったのか、ライラはもう覚えてはいない。

 気が付いたときには、何を口にしても味を感じなくなってしまっていた。


 せっかく身内の食堂を勧めてくれたトゥールには悪いが、味がしないとどうしても食が進まない。

 目の前に並ぶいろどり豊かな料理が、ライラにはどんどんと色褪せて見えていく。

 

 ライラは頭を振って気持ちを切り替えた。覚悟を決めるとスープ皿の取っ手を掴み上げて、一気に中身を飲み干そうとする。

 喉を伝っていく生温かい液体の感触が気持ち悪い。

 ライラは吐きそうになるのをなんとか耐えた。やっとのことでスープ皿を空にするが、これ以上は無理だと音を上げた。


「――っごちそうさま! 本当にとってもおいしい料理なのだけれど、もうお腹がいっぱいだわ」


 味を感じなくなってから、ライラは食事というものに一切の興味を失った。

 食に関心がなくなると、不思議と腹が減るという感覚を忘れてしまうものらしい。ライラはめっきり小食になってしまった。

 それでも、結婚していたときは時間になれば使用人が食事を用意してくれた。

 それを無碍にするのは心が痛んだので、たとえ少量であっても食べ物を口にしないという日はなかった。


 しかし、今は一人だ。

 そうなると当然ながら、旅をしている間のライラの食事を世話する者などいなかった。

 だが、ある日を境に変化が起こる。

 御者であるトゥールに呼び止められて指摘されたのだ。

 トゥールに言われて、ライラは馬車に乗ってから食べ物を一切口にしていないことに気づかされた。

 その日が王都を出てどれくらいの日数が経っていたのかはわからない。

 トゥールは何も食べなければ死ぬぞと言って、ライラに食事を与えてくるようになった。

 自分以外の人間に食べ物を用意されると、ライラはその好意を断れなかった。馬車旅の間はずっとトゥールに食事の世話をされていた。

 今になって思えば、なんて迷惑な客だろうと恥ずかしくなってくる。

 

「……そうかい。んじゃ残りは頂こうかね」


 ライラの残した料理を見て、トゥールは悲しそうに笑っていた。

 その表情を見て、ライラは安易に彼に付いてきてしまったことを後悔する。馬車を降りても、こうして食事の世話をされてしまっているのだからタチが悪い面倒な客だ。

 知らない街で顔見知りに声をかけられたことで安堵していた。馬車に乗っていたときに優しくされたからと、また彼に頼ろうとしてしまったのだと反省した。


 ライラは目を閉じてその場で俯いた。

 これからは一人で生きていかなくてはいけないのだ。むやみやたらに人に頼って迷惑をかけては駄目だと心の中で言い聞かせる。

 

 ライラはひとしきり心の中で反省すると、ゆっくりと目を開いて顔を上げた。

 すると、目の前のトゥールはとっくに食事を終えていて、いつの間にか店内も静かになっている。

 壁にかけられている時計を見上げると、そろそろ昼食の時間も終わるという頃合いだった。


「ごちそうさん。んじゃ、俺は仕事に戻るから。後はよろしくな」


 トゥールは手を軽く上げてルーディに明るく声をかけながら、店の外へ行こうとする。


「あいよー。お仕事がんばってね」


 トゥールの言葉に、客の少なくなったフロアでテーブルに残った空の皿を集めていたルーディが淡々と答えた。


「……え、トゥールさん行っちゃうのですか?」


「おう。あとはルーディに任せるからじゃんじゃん頼ってくれ。俺もまた顔は出すからさ」


「ええ? 任せるって何よ。ちょっと待って!」


 ライラは慌てて立ち上がり、トゥールを引き留めようと声を上げて手を伸ばすが、彼は駆け足で店を出て行ってしまった。

 昼時の終わりかけの店内には、まばらではあるが客が滞在している。いきなり立ちあがって大声を上げたライラに、その客たちの視線が突き刺さった。

 ライラは何とも言えない居心地の悪さを覚えて、ゆっくりと椅子に座り直してしまう。


「えーっと、ライラさんだっけ?」


「――っあ、はい!」


 ルーディは空の皿を積み上げてホールを軽やかに歩きながら声をかけてきた。

 ライラは驚いておもわず声が裏返ってしまいながらも、反射的に返事をした。


「そこの奥の扉を入ってすぐ階段があるからさ。その階段を上がってまっすぐ進んだ突き当りの部屋を自由に使っていいからね」


「……え、あのー……。部屋を自由に使っていいってどういうことですか?」


「あなた宿を探していたのでしょ? 兄さんが空き部屋を貸してくれって言っていたけど」

 

 ライラはルーディの話していることに困惑してしまう。

 ルーディは忙しそうに厨房の水洗い場に重ねた皿を置きながら、横目でライラを見てくる。

 さきほどの料理の注文もそうであるが、トゥールはいつの間にルーディにそんな話をしていたのだろう。

 ライラはどうしたものかと判断に迷いながら会話を続ける。


「……え、ええ。たしかに宿を探してはいましたけれど……」


「じゃあ、いいじゃない。うちの部屋を使いなさいよ。あなたは見た目が訳あり奥さまっぽいから、きっとろくな宿に泊まれないわよ」


 ルーディの言葉にライラは面食らった。兄と妹に揃って同じことを言われるとは思わなかった。


「そのトランクケース重いでしょ。さっさと置いてきちゃいなさいな。あ、部屋の鍵はちゃんとかかるからねえ」


 ライラが何も言い返せずにいると、ルーディは自分の提案を承知したと判断したのだろう。

 こちらに背中を向けて残り少ない客の元へと軽やかに歩き出してしまう。


「自分で部屋の掃除をしてくれるなら、食事つきの格安で泊めてあげるから安心して」


 ルーディはそう言いながら、他の客からは見えないように、しっしっと手を払う仕草をする。

 ライラは彼女の提案に乗ってよいものかと、おろおろすることしかできなくなっていた。

 だが、他の客のこちらをうかがうような視線を感じて次第に居た堪れなくなってしまう。トランクケースを手に取ってすっと立ちあがると、逃げるように奥の扉に向かって進んでいった。


「あ、二時ごろには客が落ち着くからさ。それくらいになったらきちんとお話しましょ」


 ライラが扉に手をかけたとき、ルーディが思いだしたようにライラに向かって声をかけてきた。


「え、ええ、わかりましたわ。では、のちほどきちんとお話をいたしましょう」


 ライラはルーディの背にむかって声をかけてから扉を開けた。

 扉の先には言われた通り、すぐに二階へと上がる階段があった。

 ライラはそっと扉を閉じてその階段を上がっていく。二階の廊下に出るとそのまま真っすぐ進み、戸惑いながら突き当りの部屋の中に入った。


「そりゃ馬車に乗っている間トゥールさんにはとてもお世話になったし、悪い人ではないと思うけれど……」


 誰もいない部屋の中でひとりごとを言いながら、ライラは床にトランクケースを置いた。


「流されるまま、ついついここまで来ちゃった……。本当にお世話になっていいのかしら?」


 先ほどトゥールに頼ったことを後悔したばかりなので、ライラは頭を抱える。


「そりゃ冒険者章も発行されていないし、宿を取るのには苦労するだろうけど……」


 ライラは悩みながらゆっくりと部屋の中を見て歩く。

 部屋の中は下手な宿よりもよほど綺麗で広々としている。

 格安の食事つきというならば、これほど恵まれた宿は他にないだろう。


 ライラは信じられない気持ちで窓際に置かれたベッドに腰掛けた。

 普段からきちんと手入れされているのだろう布団からは太陽の香りがした。


 すると、ライラはそれまで悩んでいたことなど吹き飛んでしまうほどの強烈な眠気に襲われる。

 ライラ自身に自覚がなくとも、一か月に渡る馬車の旅は身体に支障をきたしていたらしい。


 気がつくと、ライラはそのまま眠ってしまっていた。

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