第4話
目の前には勝ち誇った顔の美しい女と、なんとしてもライラと視線を合わせないようにしているクロードがいる。
「では、これで書類上の手続きは全て滞りなく済みましたわね」
ライラはそう言いながら、自らのサインが入った離婚の届け出をしっかりと確認をしてから立会人に差し出す。
「はい。クロードさまとライラさまの婚姻関係は本日を持って終了となります」
立会人が離婚に関する全ての書類に目を通した後に、大きく頷きながら事務的に言った。
すると、それまで黙っていた女が満面の笑みを浮かべて流暢りゅうちょうに話し出した。
「まあまあ、それはようございます。それではさっそく私とクロードさまの婚姻の準備をはじめましょう」
愛人だった女は、これまで見せたことのない無邪気な仕草でクロードの身体にもたれ掛かった。
これでもかと仲睦まじい様子を、ライラに見せつけてくる。
ライラは、離婚の話し合いの場に愛人を同伴させる男などこっちから願い下げだと呆れながら、二人の様子を極力視界に入れないようにして席を立つ。
そして、同じように若干呆れた様子の立会人にしっかりと頭を下げると、その場を後にした。
最後までクロードはライラと視線を合わせてはくれなかった。
「……おかしいなあ、あんなに大好きだったのに……。一生傍にいるって誓ったはずだったのに、どうしてこうなっちゃったのかなあ?」
ライラは腕を組んで頭をひねりながら、ついそんなことをぼやいて自室に向かった。
自室にたどり着き、静かに扉を開けて中に入る。そこには部屋の真ん中にトランクケースが一つだけぽつんと床に置かれている。
いつでも出ていけるようにと、以前からライラが用意してクローゼットの奥に隠していたものだった。
いよいよ本当にこの屋敷から出ていくと決まって、クローゼットの奥から引っ張り出したのは今朝のことだ。
「まあ、庶民出の私が五年間も侯爵夫人をできたのは奇跡よね。平民と貴族の結婚なんて、最初から無理な話だったのよ」
着の身着のままで侯爵家に嫁いできたライラには、屋敷を出ていくとなっても持ち出す荷物がほとんどない。
トランクケース一つに収まりきる結婚生活だったのかと思うと、情けない気持ちが込み上げてきた。
ライラはそんな思いを断ち切るように、それまでしていた結婚指輪を外した。
「今までありがとう。どうか元気で」
指輪をテーブルの上にそっと置きながら、クロードにかけられなかった言葉をつぶやいた。
そうしてライラは、最低限の生活に必要な荷物と着替えだけの入ったトランクケースを抱えて、五年間住んだ部屋をあとにした。
ライラは人気のない廊下を静かに歩き、そのまま屋敷の正面玄関にむかおうとして、ふとその場で立ち止まった。
もうこの屋敷の女主人ではないライラは、屋敷の正面玄関を使うことが憚はばかられたのだ。ライラは方向転換をして屋敷の裏口に向かう。
「……見送りはなしか。けっこう侯爵家の奥さまとして頑張っていたつもりだったけど、やっぱり平民出の女じゃ嫌だったのかしら。そりゃどこの馬の骨ともわからない女は嫌よねえ」
ライラは誰もいない裏口の扉を見つめながら肩を落とした。
だが、本当のところはライラが自身で思っているほど、使用人には嫌われていなかった。
ライラが屋敷を去った日、彼女を慕っていた侯爵家の使用人たちは、元女主人を見送ろうと正面玄関に集まっていたのだ。
しかしながら、人知れず裏口からこっそりと屋敷を出たライラがそのことを知ることはなかった。
こうしてライラの五年に渡った結婚生活は幕を閉じた。
体裁を気にしてライラとの離婚を渋っていたクロードは、隣国といよいよ開戦するという事態にまで国情が傾くと、とつぜん考えを改めた。
隣国との戦となれば、クロードの地位と軍人としてのこれまでの実績から、彼の出兵はほぼ確実だ。
そのことを知った愛人が、帰宅してきたクロードに取り乱しながら詰め寄ったらしい。
万が一のことがあって戦地でクロードが命を落とした場合、自分はどうなってしまうのかとわめき立てたのだそうだ。
正式な妻であれば軍人である夫が亡くなれば国から補償がある。
それに、クロードは侯爵家の当主なのだ。いざとなれば夫人は領地で隠居することが可能だ。
だが、愛人いう立場ではそんなことはできない。
それどころか、侯爵家の当主交代に伴い、屋敷の離れから追い出されることになるだろう。
どうか戦が始まる前に私を正式な妻にして欲しいと、愛人は泣き喚きながら訴えた。
ライラはどんなに愛人が妻にしろと訴えてみせても、クロードはこれまで通り体裁を気にして離婚をするともりはないのだろうと思っていた。
ところが、愛人が暴れた翌日にクロードはいそいそと本宅のライラを訪ねてきた。
使用人から離れでの出来事を耳打ちされた直後だったため、ライラはひどく驚いたのを今でも覚えている。
クロードはライラの考えとは裏腹に、あっさりと離婚を切り出してきた。
「彼女は弱い人だから、守ってあげなくてはいけない。君は強いから、一人でも生きていけるだろう?」
そうライラに問いかけながら、クロードは分厚い書類の束を渡してきた。
その書類の束に視線を落としてライラは肩を落として笑った。
到底一晩で用意できるようなものではない。あまりに完璧な離婚に関する取り決めの書かれた書類だった。
クロードは体裁がどうのこうのと言って離婚しないと口にしてはいても、いつでもそうできるように書類を用意していたのだとこのときに気がついた。
互いの愛情が冷め切っていたことを痛感した。クロードの目の前で書類に目を通している間、ライラはあふれ出る涙が止まらなかった。
こぼした涙で書類の文字が滲んでいく。クロードは愛人の涙にはほだされても、ライラの涙に気持ちを変えることはなかった。
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