第3話
しばらくして、女はライラへの罵詈雑言を一通り吐き出し終えたようだ。忌々しそうにこちらを睨みつけながら、口元を引き結んで黙りこんでしまった。
数秒の間、ライラは女と見つめあう。
すると、女は大きく舌打ちをした。もう一度ぎろりと力強くライラを睨みつけてくると淡々と言い放った。
「昨晩クロードさまはこちらであなたと過ごしたのでしょう?」
女の発言にライラは首を傾げた。
クロードは、この女が離れに住み始めてからの一年ほど、妻であるライラのいる本宅で寝泊まりしたことなどない。
「今まではずっと私のところに帰ってきてくれていたというのに! 愛想の尽かされた妻が今さら出しゃばってきて……。そっちこそ一体なんだっていうのよ!」
この一年の間、妻であるはずのライラは、夫のクロードと共に夜を過ごしたことなどない。
それどころか、ろくに顔を合わせてすらいないのだ。
女がどうしてそのようなことを言い出したのかまったく意味がわからない。ライラが悩んでいると、執事がそっと近付いてきて耳元でささやいた。
「……実は、旦那さまは昨夜いちどお戻りになられたのですが……」
どうやら昨日の夜遅くに、クロードは屋敷に戻ってきていたらしい。
ライラは、クロードはここひと月ほど仕事が立て込んでいて職場で寝泊まりしていると聞いていた。
だが、昨日はどうしても仕事で必要な資料が本宅の書斎にあり、それを取りに一時帰宅をしたそうだ。
「……はあ、資料くらい誰か使いを出せばよいものを。余計なことをするからこんな面倒なことになるのよ」
小さな声でぼやきながら、ライラは頭を抱える。
クロードは、目的の資料を手にするとすぐさま屋敷を出て行ったそうだ。
それを聞いて、ライラは呆れかえって盛大に溜息をついた。
女がどんなことを考えてこんな行動を起こしているのか想像がついてしまったのだ。
ここ最近、我が国は隣国と緊張関係にある。
外交情勢が非常に悪化しており、いつ開戦してもおかしくないというひっ迫した状態だ。
クロードは、軍で要職についている。そのため、万が一に備えて王城で寝泊まりをしている。
きっと女は、ろくに自宅に帰ることのできないクロードの身を案じていたのだろう。
毎日いじらしく、今か今かと彼の帰りを離れで一人寂しく待ちわびているのだ。
そんな風に帰宅を待ち続けている中、夜中に屋敷の門が開いた。
待ち焦がれた思い人が久しぶりに帰宅してきたと、女は歓喜したに違いない。
女は嬉々としてクロードを迎え入れる準備をしたが、いつまで経っても離れに姿を見せない。
そこで女は、屋敷の門を潜ったクロードが向かった先は、ライラの元だと考えたのだ。
忙しい仕事の合間を縫って、クロードがわざわざ妻に会いに帰宅したと思い込んだに違いない。
そうして女は激昂し、花瓶をライラに投げつけるに至ったのだ。
「……はあ、何か勘違いなさっているようですわね」
ため息まじりにライラが口を開くと、女はぎっと睨みつけてくる。
ライラは女の様子に構わず、執事から聞いたことをそのまま伝えた。
「旦那さまは書斎に立ち寄られただけで、すぐ城にお戻りになったそうですわ。私は寝ていたので旦那さまが帰宅したことにすら気付きもしませんでしたわ」
ライラの言葉を聞いて、女は顔を歪める。
こちらの言っていることが本当なのか疑うように見つめてくる。ライラはこのやり取りがくだらないと思いつつも、そのまま言葉を続けた。
「私はとっくに旦那さまに愛想を尽かされた身です。それはあなたが一番ご存じでしょうに、何をご心配なさっておられるのですか?」
「――っは、それもそうね。あははははははは、そりゃそうよねえ!」
淡々と話し終えたライラの言葉を聞いて、女が狂ったように笑い出した。
すると、女にしがみついていた使用人たちは、気味が悪そうにしながらそっと手を離して拘束を解いた。
「ふふふ、嫌だわ私ったら……。こんなことで取り乱して情けないですわ。あなたみたいな可愛げのかけらもない年増がクロードさまに愛されているわけがないものね」
女はライラを馬鹿にするように笑い続ける。
そんな女から、ライラはそっと視線を逸らした。
そして、食堂の窓に映った自分の姿を見て溜息をついた。
まだ朝だというのに、何度溜息をついたのだろうかと嫌な気持ちになる。
「……そうねえ。私はあなたのように若くも美しくもないものね」
ライラがクロードと結婚してから五年の月日が過ぎた。
今でも結婚式のときの情景は、目を閉じると頭の中に鮮明に浮かんでくる。
五年前のあの日に鏡に映ったライラの姿は、本当に美しかったと断言できる。
自信に満ち溢れ、これから訪れる未来の日々に希望を持っていた。
クロードから愛されているという喜びで、自然と無邪気な笑顔がこぼれていた。
だが、今の食堂の窓に映るライラの姿にその面影はない。頼りなさそうでとても疲れ切った顔をしている。
頬はこけ肌色が悪く、茶色の髪は艶がなくぼさぼさだ。
身に着けている物ばかりが高価な品物で、なんとも滑稽な姿だなと呆れてしまう。
溜息ばかりつくライラを見て、愛人は自由になった手を腰に当てて踏ん反り返った。
「ふん! わかっているならさっさと別れてちょうだいよね。いつまでもあなたみたいな女がクロードさまを縛り付けておくなんて……。まったく、みっともないったらありゃしないわね」
女は得意げにそれだけ言うと、ライラに背中を向けて食堂から颯爽と去って行った。彼女を追うように食堂へやってきた使用人たちも慌ただしく出て行ってしまう。
室内に残ったのはライラと執事の二人きりだ。
「……はあ。旦那さまもとんだ女に惚れたものね」
ライラは、腕を組んで溜息まじりにぼやいた。
すると、傍に立っていた執事がひどくうろたえた様子で、再び必死に汗を拭って愛想笑いをしている。
「ふふふ、私も似たようなものだって顔に出ているわよ?」
愛想笑いをするだけで何も言わない執事に、ライラは意地の悪い笑みを浮かべて声をかけた。
執事は途端に顔を真っ青にして俯いてしまう。
ライラはそんな執事を残して、自分もさっさと食堂をあとにした。
「……あの女、簡単に別れろと言ってくれたけど、いざ別れるとなったら手続きだって楽じゃないってのに……。ちゃんとわかって言っているのかしら、まったく!」
侯爵家の嫡男であり軍でもそれなりの役職に就いているクロードは、離婚など外聞が悪いと言い張っている。
どんなにライラが別れたいと訴えても、手続きの煩雑さもあって、ちっとも話を取り合ってはくれないのだ。
「そもそもクロードが私と顔を合わせることから逃げているから、ちっとも離婚の話が進まないんだっての。こっちに帰ってきたなら顔くらいみせろってのよ」
クロードは、離婚の話し合いには頑なに応じない。
だというのに、社交の場にはさきほどの愛人同伴で出席しているのだから、ライラとしてはどうにも納得がいかない。
表に出せない、妻としての役割も果たせない女など、侯爵家には必要ないではないか。
ここ数年の間、ライラはやりきれない思いを抱え悶々として過ごしていた。
だが、ライラのやりきれない日々は、ある日を境に意外とあっさり終わりを告げたのだった。
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