第2話

 ライラが天井を眺めはじめてどれほどの時間が過ぎたのだろう。


 何とも気まずい空気の流れる食堂の中に、息を切らして顔を真っ赤にした執事が飛び込んできた。

 白髪交じりの初老の執事は、食堂へやってくるなり呼吸を整えることすらせずに、ライラの元へと一目散に駆け寄ってくる。彼はライラの足元に散らばった陶器の破片を見て、驚愕の表情を浮かべた。


「た、大変申し訳ございません! お食事中にお騒がせいたしました」

 

 執事は駆けつけてきた勢いのまま、物凄い速度で頭を下げた。

 ライラは執事がこのまま倒れ込んでしまうのではないかと心配になる。


「……はあ、もう食べ終えるところだったから構わないわよ」


 ライラは慌てふためいた様子の執事に呆れながら、溜息まじりに口を開いた。


「し、しかし奥さま……。お、お怪我はございませんでしょうか?」


「ないわよ。こんなことで大げさに騒ぎ立てないでちょうだいな」


 ライラは、額から流れ落ちる汗を拭いながら頭を下げ続ける執事を落ち着かせるように、優しく声をかける。

 すると、恐縮しきりで頭を下げていた執事がようやく顔を上げた。彼はライラの機嫌を窺うように、怯えた様子で見つめてくる。


 ライラはそんな執事としっかりと視線を合わせて穏やかに微笑んだ。ようやく執事が安心したように笑顔を見せる。

 ライラは念のためにもう一度しっかりと口角を上げて執事に微笑みかけると、大きく頷いてみせた。

 それから、すぐに顔を引き締め、若く美しい女に視線を向けて冷静に声をかける。


「おはようございます。朝からいったい何事ですか?」


 この若く美しい女は、ライラの夫が屋敷の敷地内にある離れに住まわせている、いわゆる愛人である。


 ライラの夫であるクロードは、これまで数々の浮名を流してきた社交界では名の知れた色男だ。

 そのため、女を自宅の離れに連れ込んだことも一度や二度の話ではない。浮気をした回数など両手の指の数では到底足りない。

 愛人の一人や二人が妻であるライラの元へ怒鳴り込んでこようと、こんなことはすでに日常の一部となっていた。

 ライラにとってこの程度のことは、取り立てて騒ぐほどでもないのだ。


 しかしながら、いくら妻であるライラが愛人の存在など気に留めていなくとも、使用人たちにとってはそうはいかないらしい。

 使用人たちは、常にライラと愛人が屋敷内で鉢合わせしないように気を張ってくれているのだ。


 今ライラの目の前にいる美しい女は、ここ一年ほど屋敷の離れに滞在している。

 これほどの期間を、クロードが同じ女を離れに住まわせているのは初めてのことだった。


 深く考えるまでもなく、クロードがこの女に本気で入れあげているのは誰の目からみても明らかだった。

 使用人からすれば、この愛人は本妻の立場を脅かすには十分すぎる存在なのである。

 

「何事じゃないわ! 澄ました顔をして、本当に可愛げのないお方ですこと。お育ちが悪いと取り繕うのに必死なのね。まあまあ、なんてお可哀そうなのかしら」


 ライラの落ち着いた態度に、女は腹を立てているようだ。

 次々にライラを蔑む言葉が女の口から吐き出される。


 だが、こういった時にどういう態度を取るのが正解なのか、ライラにはよくわからない。

 

 夫が愛人を囲っていることを悲しめばいいのだろうか。

 それとも、怒ればいいのだろうか。

 どのように目の前の若く美しい女性に応対すればいいのか、答えが導き出せないでいた。


 使用人たちが女とライラを交互に見ながら困惑している。

 だが、困惑しているのはライラも同じだ。

 ライラには女がどれだけ口汚く自身を罵ってこようと、使用人がどれだけこちらを気遣ってくれようとも、どうすることもできない。


 ライラは、若く美しい女の言うことを黙って聞いていた。

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