・ちょっとベトナム行ってくるわ
帰りを待ってくれる人がいるのは幸せなことだ。
喩えそれが現役ホストのちょい悪オヤジでも、冬の家をストーブで暖めて、夕げの美味しい匂いと一緒に俺たちを待っていてくれたら、人は喜びを噛みしめずにはいられない。
俺たちは鍵の開いた玄関を引き、明かりの灯った居間へと入ると、茶畑さんのやさしい笑顔にホッとした。
ちなみに今日は台所のテーブルは空だった。
「外は寒かっただろ、お帰り」
「ただいま」
クロナと俺はそれぞれの部屋に入り、荷物を片付けて居間にまた戻った。
もうじき生後3ヶ月ほどの子猫がコタツから這い出してきて、クロナに抱き上げられて甘えていた。
「おーよしよし、いい子いい子♪ 明日からは早く帰るからねー♪」
「また障子を破いたみたいだけどな……ほらここ」
子猫の手が引っかいたのだろう。ペロンとはがれていた部分をセロテープで応急手当する。
茶畑さんは慌ただしい俺たちを見て微笑んでいた。
「いや、見事だったよ。お前さんああいうの向いてるんじゃねーか?」
「もー、おっさんまで与一みたいなこと言ってる。急な話で大変だったんだからね……」
「へぇ……与一に口説かれたのか」
「うんっ、そう!」
「違いますよ、俺はただ思ったままのことを言っただけです。人前であれだけ動けるのは才能でしょう」
「まあな。次の公演を見れないのが残念だ……」
それは何気ない一言だったけれど、意味するところは重大だった。
ホストの仕事をサボったり、スーツを着込んで出かけたり、予兆はあったけれど……俺たちは認めたくなかった。
彼がここ出て行ってしまうなんて……。
「マジ……?」
「やっぱり、出て行くんですか……?」
おっさんはおっさんは苦笑いでうなづき、励ますように肩を叩いてくれた。
この家が気に入らなくて出て行くわけではないと、そう言いたそうだった。
「悪いな、明日ここを出る予定だ」
「そうですか……」
「なんでっ!? うちらのことっ、嫌いになったのっ、ねぇなんでっ、おっさんっ!?」
「んなわけねーだろ。お前らとの生活は楽しかったよ。若い頃の情熱も思い出せたしな……」
「もしかして、今の仕事辞めたんですか?」
「おう。ホストはどうも向いてないみたいでな、今週の頭に辞めたんだ。近いうちに酒で身体壊すのは見えていたからな……」
仕事を辞めたというのに、茶畑さんは誇りに満ちていた。
元からしっかりしていた人だけど、今夜の彼はこれまでにも増して立派に見えた。
「じゃあ、おっさんは新しい仕事のためにここを出るの……?」
「それなんだがよ……聞いて驚けよ? 俺は店の再起のために、ベトナムに行く!」
「べ、ベトナムゥー!?」
「えっと、ベトナムって確か、東南アジアの……社会主義の国でしたっけ……?」
「違うぜ与一。ベトナムはアオザイを着た綺麗なおねーちゃんがいっぱいいる国だ」
「……ブレませんね」
「それ知ってる。ちょっとエロいやつでしょ!」
「そうそう、今からアオザイのおねーちゃんが楽しみだわ!」
クロナも茶畑さんも立派だな……。
俺の取り柄と言ったら真面目さくらいで、彼らのがんばる姿がまぶしかった。
「ま、ちゃんとした会社のちゃんとした仕事だ。借金返して、再起の金が貯まったら帰ってくる。そんときは店に来てくれ。今度は潰さねぇよ」
「わかりました、必ず行きます。必ず」
「おっさん偉いよ! 大変そうだけどがんばってねっ、うちも与一と一緒に遊びに行くから、がんばって帰ってきてよっ、おっさんっ!」
俺たちの返答に茶畑さんが嬉しそうに破顔した。
俺たちの口から、彼が最も聞きたい言葉だったからかもしれない。
「うっしっ、これからいつものファミレス行かないか? お別れする前にパーティと行こうぜ!」
「行く行くっ、もちろんおっさんの奢りで!」
「だったらその前に、カマタリにご飯あげないと……」
ご飯の一言に、子猫が飛び起きて尻尾を立てた。
台所に俺とクロナが歩いて行くと、甘い声を上げながら足下にまとわりつく。
茶畑さんはそんな日常の風景を名残惜しそうに見ていた。
彼だって本当はここでだらだらと俺たちと過ごしたい。そう思っていると信じられた。
「そうやってるとよ、まるで新婚さんだな」
「マ、マジでーっ!?」
「おう、つがいのカモでも眺めてるような気分だわ」
「えーっ、何その喩え……」
「茶畑さんこそ、こんな時間に高校生を夜遊びに誘うなんて、内定が取り消しになっても知らないですよ」
反撃に痛いところを突いてみたけれど、彼みたいな大人には効かないみたいだった。
住み難い海外で仕事をしたがる日本人なんて、そういるわけもないだろうな……。
「大丈夫だ。疑われたらお前らのお父さんだと答えとく。口裏合わせ頼むぜ、息子に娘よ」
「うちの父さんはそんなに柄悪くないですよ……」
「茶畑パパー♪ こんな感じ?」
「……ダメだ、なんか犯罪臭いわ。そこはお堅く父上と呼べ」
「今どきそんな言葉使う娘いませんよ……」
俺たちはカマタリに食事を与えて、着替えて、十分に家を暖めてから夜の街に出た。
こんな非日常を楽しめる生活も今日で終わりだと思うと、冬の寒さも相まって目が泣けてきた。
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