・なんとかは糾える縄の如し
夕方になると、茶畑さんが甘い香水の匂いを漂わせて上から降りてきた。
出勤前の彼はいつもながら男前で、平凡な男子高校生に過ぎない俺から高い身長を見上げると、親しみこそと同時にとても遠い存在に感じられた。
「JKは?」
「クロナなら友達と遊びにきました」
「ふーん……。せっかくの日曜なんだからよ、お前さんもくっついて行けば良かったんじゃねーか?」
「そんな最初から不可能なこと言わないで下さいよ。ギャルに囲まれて遊ぶなんて、俺には逆立ちしたって無理ですよ……」
そう答えると彼はやさしそうに笑う。
だけど彼の口からクロナの話が出ると、俺の方はどうしても複雑な心境になった。
俺はクロナやその友人たちとは遠い存在だ。
むしろ茶畑さんの方がずっとクロナに近くて、それに大人で、歳はいってるけどイケメンだ。
彼がその気になれば、クロナが茶畑さんになびいてしまうのではないかと、俺はつまらない不安をずっと抱えていた。
「そうかね? お前さん結構ちゃんとしてるしよ、一度混ざっちまえば、どうにでもなるんじゃねーか?」
「俺は兄ちゃんのまねして、ただ背伸びしてるだけですよ。それに彼女たちとは話題が合いませんよ……」
「だけどなぁ……自分で壁作ってたら始まらねーぜ?」
「……それより出勤しなくていいんですか?」
「おう、さすがに行かねーとな……」
茶畑さんはやさしく俺の肩を叩いて、居間の引き戸を開けた。
「んじゃ、そろそろ行ってくるぜ」
「いってらっしゃい」
「……与一。あえてもう一度言うが、黒那に壁を作ってるのはお前さんの方だ。もし遊びに誘われたらヘタレて逃げるなよ?」
「早く行って下さい。考えてはおきますから……」
「他にも何かあったら相談しろよ? じゃあなー」
うなづき返すと、茶畑さんは駆け足になって玄関を飛び出していった。
そんなに急いでいるなら、俺なんかにお節介焼いてる場合じゃないだろうに……。
「ただいまーっ!」
「あ……おかえり!」
俺が歓迎するよりも遙かに素早く、カマタリが縁側での日向ぼっこを止めて玄関に飛び出していった。
「カマタリもただいまーっ! おーっ、今日もういやつういやつ、出迎えご苦労ぞよー♪」
お前はいつの時代の人間だ。
俺は台所で水をくんで、居間に戻ってきたクロナにコップを差し出した。
いつも帰ってくるなり、クロナは水道の水を一杯飲む。
一緒に生活している間に、すっかり彼女の癖を覚えてしまっていた。
「あ、悪いね。カラオケ帰りだから助かるーっ!」
「カラオケ行ってきたのか」
「あ、そうだ! 今度は与一も一緒にくるっ!?」
「え……」
「今度与一も一緒に行こうよーっ! ユカナなら知らない顔じゃないでしょ?」
「い、いや……だが、うっ……」
誘いを断ったら気を悪くするだろう。
けれど、あのちょっと不良っぽいユカナと一緒か……き、きつい……。
「ユカナって不器用だけどいい子だよ。人の悪口とか言わないし、与一のことも気に入ってるって。だから今度一緒に遊ぼうよーっ!?」
「いや……本当に迷惑じゃないのか……? 俺は迷惑なら迷惑で、別にいいんだぞ!?」
「全然! じゃあ決まりね、今度誘うから覚悟しててね!」
「わ……わかった……。がんばってみる……」
「だから、ユカナは悪い子じゃないって言ってるのに、もーっ!」
壁を作ってるのは確かに俺の方みたいだ。
茶畑さんは楽観的に励ましてくれるけど、しかし……上手くやれるんだろうか、俺は……。
自分で言うのも妙な話だが、俺はスマホも十分に扱えない化石みたいなやつだぞ……。
話が決まるとクロナは満足して、2階の自室へと上がっていった。
「ダメだ、憂鬱になってきた……。勉強しよ……」
コタツ机に起きっぱなしの数学の参考書を開いて、シャープペンシルを手に取った。
やっぱり、ユカナと上手くやって行けそうな気がしない……。
「ミャー♪」
「なんだ、もう抜け出してきたのか?」
しばらく集中するとすっかり気がまぎれてきた。
そんな折りにうちのヤンチャ小僧が現れて、コタツ布団に爪を立てて机に這い上がってきた。
「いつも机に上っちゃダメだって言ってるだろ。……痛っ?!」
降ろそうと手を伸ばすと、遊びたいざかりの子猫が俺の手にしがみついて、連続にゃんこキックを入れた。
きっとコイツは雄だ、雄に違いない。悪ガキを抱き上げて隣の床に戻すと、軽くだけ遊んでやった。
「あーっ、いないと思ったらこんなところにいたっ!」
コタツ布団の下で指を動かすと、カマタリは猫の本能が刺激されるのか飛びかかってくる。
喉を鳴らしながら夢中で飛び回るその姿は、実家の弟と遊んでいるような気分にさせてくれた。
「とんだヤンチャ小僧だよな……。直しても直しても障子に穴開けるし、まったくコイツめ……」
「あは……ごめんね、与一……」
「別にいいよ。猫って損得勘定で飼うものでもないだろ」
「そうだね。だけどカマタリと遊ぶ権利はうちが貰う!」
「そんなの取り合うようなものでもないだろ……」
好きにしろとシャープペンシルを握り直して、お下がりの参考書に目を向けた。
国立の試験に受かったら、兄ちゃんは大学に行かせてくれると言うけれど……やっぱりそこまで甘えられない。
時折、横目ではしゃぐ1匹と1名を眺めながら、俺は勉強を進めていった。
いくら勉強しても、茶畑さんやクロナみたいな高度な社交力は身に付かない。
どうしたらあんなに上手く人とやり取りできるだろう。
「そういえばさ、来週明けから実行委員の仕事が始まるね……」
「そうだな。カマタリには少し悪いが、忙しくなりそうだ」
共通の楽しみを思い出したせいか、俺は無意識に微笑み返していた。
「そこは大丈夫だよ。おっさんに遊んでやってってお願いしたから」
「……仲良いよな」
「え、それっておっさんと? まあボチボチかな……」
また茶畑さんにつまらない嫉妬や劣等感を覚えてしまった。
無事にカラオケの誘いを乗り越えたら、こんな感情を抱かずに済むのだろうか。
「がんばろうね、与一!」
「そうしよう。やるからにはしっかりやり切りたいな」
「大丈夫だよ。ちゃんとやれるか、一人だったら心細くて頭が変になりそうだけど……与一と一緒なら、うち元気いっぱいでがんばれるよ!」
クロナが前向きに大きな声を上げると、カマタリは遊び疲れてきたのか、またテーブルにはい上がった。
目当ては蜜柑や小物に使っていた網かごだ。我が物顔で入り込むと、カマタリは胴体の短い身体を丸めてくつろぎだす。
おとなしくしてくれるなら、まあいいか。
クロナが口元をゆるゆるにして子猫を見つめる姿を横目で確認して、もう一度ペンを滑らせた。
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