・酒臭いおっさんのいる新生活

 その日の朝は子猫の鳴き声から始まった。

 どうやってクロナの部屋を抜け出してきたのか、ヤンチャで灰色の生き物が小さな舌で、人の頬をザラザラと舐めていた。


「……臭いな」

「ミャー♪」


 クロナはトイレを抱えて上と下を行き来するのが嫌になったようで、居間の端っこに新しいトイレを配置した。

 発生源はきっとそこだ。


「こらこらこら、頼むから障子はもう止めてくれよ……」


 和紙を破って遊びたい子猫の童心を、俺は布団の中に引きずり込んで封じた。

 温かいなコイツ……。


 眠気の第二派が訪れると、俺はそれに逆らい布団をはい出した。

 カマタリを抱えて居間へと向かい、コタツの電気を入れて、石油ストーブもちょっとだけ付けた。


 もちろんトイレも片付けて、子猫のために朝ご飯も作る。

 最近はキャットフードをふやかして与えていた。


 クロナがネットで調べてくれたが、生後2ヶ月過ぎた頃にはもう食べられるそうだ。

 カマタリが夢中でがっつくのを眺めていると、玄関の鍵が鳴って引き戸が開かれた。


「よぅ、与一ぃ、今帰ったぜぇ……」

「うっ……酒臭っ……」


 茶畑さんだった。すっかり泥酔した酷い姿で現れて、全身の毛穴という毛穴から酒の臭いがほとばしっている。

 ちょっとだけ、部屋を貸したのを後悔した。


「ははは、バカ言えや、そりゃ酒飲まされたんだからよぉ……酒くせーに決まってんだろぉー……?」

「それにしたって、どんだけ飲んだんですか……」


「飲んだんじゃねーよ、飲まされたんだよ。……水くれ、与一」

「もうくんでありますよ」


 酔っぱらいにコップを差し出すと、彼はアルコールで脱水症状に陥っていたのか、美味しそうに冷たいそれを飲み干した。


「昨日は飲み屋って言いましたけど……本当はなんの仕事してるんですか?」

「ホスト」


「え……。ぁ、ぁぁ……」

「キツいが給料が良いんだよ。はぁ……もう一杯!」


「はいはい、あんまり無茶しない方がいいですよ」

「そりゃ客に言ってくれ」


「ならその客をここに連れてきて下さい」

「わははは、言いやがるな、与一ぃー!」


 朝っぱらから酔っぱらいの息を嗅ぐことになるとは思わなかった。

 簡単に朝食の支度をして、そこに昨晩の残り物を並べた。


「食べますか?」

「うぷっ……吐いてもいいなら貰うぞ……」


「それは困ります」

「俺もだ。おーっ、今帰ったぞぉー、黒那ちゃーんっ!」


 そこにクロナが降りてきた。騒ぎに起こされたのか、いつもよりも早かい。


「うげっ、酒臭っ!? 何このろくでなし!?」


 しかしクロナは容赦ないな。

 アルコール漬けの朝帰りという時点でそうかもしれないけど、それが彼の仕事だろう。


「ホストやってるんだって」

「マジ……?」

「マジだぜぇ、俺の源氏名聞くかっ!? すげぇ痛いぜ!?」


「遠慮しておきます。クロナ、よかったら朝ご飯一緒にどう?」

「ミャー……」

「あ、だったら先にカマタリにご飯あげなきゃ」


 こうやって動物は二度食いにありつくんだな。

 俺は空になった餌皿を流しに置いて、もうソイツは食ったと無言の主張をした。


「おじさんもう寝るわ……」

「あの、だったら階段上がるの手伝いますよ……」


「大丈夫、大丈夫! まだそこまで酔ってない!」

「いや、うちらも転落死されても困るし……。うちがやるよ、与一は朝ご飯お願い!」


 おっさんは女子高生に尻を押されながら、二階の自室へと四つ足で這い上がっていった。


「手の焼ける人だったな」

「ユカナっちのお兄さんもホストやってるんだって。やっぱ超キツいみたい、しょうがないよ」


「けどなんかさ、ホストのイメージ変わったな」

「それわかるー♪ なんか親しみがいがあるよね、あのおっさん」


「……おじさんって呼んであげなよ」


 残り物をつついて俺たちは家を出た。



 ●◎(ΦωΦ)◎●



「あっ、全身が滑った」

「すっ、すすっ、滑るって言わねーよっ、これっ!?」


 玄関を施錠して軒先に出ると、ご近所様の目の前でクロナが腕にしがみついてきた。

 最近は控えめだったというのに、不意打ちで二の腕に胸を押し付けられて、俺は条件反射で硬直した。


「だって……なんか茶畑さんのペースに引っ張られて、あんまりイチャイチャ出来なかったもん」

「待て、俺たちは、イチャイチャするような関係だったのか……?」


「うんっ♪」

「うんっ、じゃねーよっ! ご近所さんに誤解されると何度言えば……うぐっ」


 近所のおばちゃんに、あらやだ若いわねと笑われた。

 通勤中のサラリーマンからはリア充シネみたいな怒りの目を受けて、小学生の女の子が指くわえてこっちを見ていた……。


「ねぇねぇ、茶畑さんの源氏名ってなんだと思う?」

「それまた、すっげーどうでもいい話題を振ってきたな……」


 朝の通学路を歩く。茶畑さんが来て良かったことといえば、あの料理と、カマタリの心配が減ったことだろう。


「茶畑だから、お茶に関係ある名前だと思うんだよね。例えば……茶太郎とか?」

「そんな名前のホストは嫌だ」


「じゃあ……ダージリン?」

「いやおっさんはダージリンって顔じゃないだろ……」


「だったら玉露! ウーロン茶! 利休!」

「だから、んな名前のホストがいるわけないだろ……。どうもご指名ありがとうございます、貴方のウーロン茶です。とか言うのか?」


「それ面白くないっ!?」

「面白いだけで終わりだわ」


 しかし気づけば茶畑さんの話題ばかりだ。

 あれだけ個性的な姿を見せつけられたら、当然といえば当然だろうけど。


「なあ、それよりクロナ」

「なになにっ、与一の方から話振ってくれるとか珍しいね!」


「それはクロナが普段から一方的に喋りまくるからだよ……」

「だって、与一には聞かせたい話がいっぱいあるから!」


「よくそういうことを恥ずかしげもなく言えるよ……。いや、そうじゃなくて、クロナはさ……」


 茶畑さんみたいなタイプが好みなのか?

 そう質問しかけて、俺は言葉を引っ込めた。そんな質問をしたら、変な風に思われるに決まっている。


「今夜の晩飯、何がいいと思う?」

「ハンバーグ食べたい!」


「ハンバーグか。だったらご馳走しようか?」

「ホントッ!? 喜んでゴチにになるよっ、なんかこういうの新婚さんみたいだね!」


「おま……デカい声そういうこと言うなよ……っ」


 ご近所の注目が痛かった……。

 お前たちはどういう関係なのだと、疑いや興味本位の目線が最近絶えない……。



 ●◎(ΦωΦ)◎●



「それじゃまたね!」

「ああ、また今度な……」


 いつものように校門で別れて、自分の教室に向かった。


「今日も見たでござるよ、与一殿」

「教えてくれ! どうやったら! あんなかわいい嫁が見つかるでありますか!?」

「黒那ちゃん、最初は怖い子かと思ってたけど……お、おっぱい大きくて、これは妄想が、はかどりますなぁ……デュフフ!」


 教室に入ると、いつもの仲間から茶々を入れられた。

 クロナをエロい目で見られていることに、ちょっと腹が立ったが妄想は個人の自由だ……。


「だから付き合ってないよ……」

「なんだ、だったら遊ばれてるのでござるかぁ~」

「納得であります!」


「それはそれで酷いぞ、お前ら……」


 遊ばれている……。その可能性もあるのだろうか。

 ああいう気まぐれな子だから、ある日手のひらを返すようなことも……。


 よくある話では、仲間内の罰ゲームでオタクと付き合わされるような一件も、聞かなくもない。


「だっておかしいでござる! なんて与一にあんな可愛い子が惚れるでござるかっ!」

「そうだそうだーっ、不公平でありますぞ!」

「黒那ちゃん……おっぱい大きいね、グフフ!」

「だから、あっちは俺になんか惚れてねーって……」


 付き合い切れずに着席すると、クロナの友達のユカナがヤツらを睨んでくれた。

 たったそれだけで解散だ。ユカナに世話が焼けるとばかりにため息を吐かれた気がした。


 遊びじゃないよな……。

 遊びであんな笑顔、俺に向けてくるはずがないよな……。


 少しすると担任がやってきて、駆け足でホームルームを進めていった。


「……おおそうだ、忘れるところだった。今、秋の学園祭の実行員を探している。希望者は願い出てくれ。もし集まらなかったら、くじ引きだからな、そこは覚悟しとけ」


 もうそんなシーズンか。

 普段なら何気なく聞き流して、何気なくスルーしていた行事だったけれど……。


 学園祭……学園祭か。

 どうしてか今回ばかりは、とても楽しそうな響きに聞こえてくるから不思議だった。

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