・陰キャの俺とギャルの一つ屋根の下の朝
こうして毎朝目覚めるたびに、必ずといって寂しさにかられるのがこの家の困りどころだった。
それは寝起きの鈍った頭が爺ちゃんの家を認識してから、記憶の中の現実が、時間差で爺ちゃんの他界を突きつけてくるせいだ。
その寂しさや一人暮らしの環境が俺の弱い心を揺さぶって、『もしかしたら家の相続は間違いだったのではないか?』と、そう自分自身を疑ってしまう日もこれまでは多かった。
だがそれも全て、昨日までの話だ。
今はこの家の二階に藤原黒那がいる。その小さな事実が今日からの朝を様変わりさせた。
彼女と俺はただの同居人の間柄に過ぎないが、故人への寂しさを吹き飛ばすのに十分過ぎるほどに、この関係は刺激的だった。
布団を雑にたたんで、俺は居間へと続くふすまを開いた。
朝食は昨晩と変わらない残り物だ。味噌汁が温かくホッとする香りを台所に飽和させると、洗面所の方から藤原黒那が姿を現した。
「起きてたのか。そうだ、残り物でよかったら食べるか?」
「えっ、いいの……っ!?」
「ああ、味噌汁を腐らせるよりずっといいな」
「わぁっ、助かるーっ! 実はうち、昨日の夜からお菓子しか食べてなくて……」
腹を満たすよりも先に、化粧を優先するところが女性らしいともいえるのだろうか。
味噌汁の豊かな芳香に、彼女の甘ったるい香水の匂いが混じっていた。
「こんなことならもっと多く炊いておくべきだったな。ほら、残りはやる」
「ウソッ、君ってぐう聖っ!?」
「ぐう……なんだって?」
「ぐうの音もでないくらいの聖人ってことだよっ、ありがと、与一くん!」
ネットスラングか何かだろうか。
パソコンとインターネットは下の兄弟が夢中で使っているので、あまり縁がない。
「そういえばカマタリは?」
「うちの部屋だよ。あ、カマタリにもご飯あげなきゃ……」
「なら連れてこい。ミルクの湯煎はこっちでしてやる」
「……うんっ!」
いやに素直な声でうなづいて、クロナは子供みたいな足取りで二階へ駆けていった。
……味噌汁の鍋で湯煎したら機嫌を損ねるだろうか。……まあいい、朝から鍋を洗っていたら遅刻コースだ。
すぐに彼女は下りてきて、自由にも掘りゴタツのテーブルの上に灰色の子猫をちょこんと座らせた。
「あのさ、君ってぶっきらぼうだけど……なんか、お母さんみたい」
「おい、それは男子高校生が喜ぶ言葉じゃないと思うぞ?」
「だってそう思っちゃったんだもん。その歳で自炊って凄くない? 塾無しで自習もできるとか、自己管理能力高すぎでしょ?」
「おだてるなよ、単に生活の中で自然と身に付いただけだ。下に弟と妹が4人いるからな」
「マジでっ、それいくらなんても多過ぎないっ!?」
「そういうそっちは兄弟とかいるのか?」
湯煎はこんなものでいいだろう。
味噌汁風味の哺乳瓶を取り出して、俺はカマタリに向かって舌を鳴らした。
「ダメだよっ、ミルクあげる役はうちが――」
「早く食わないと遅刻するぞ」
「う……そうだった……」
「ミャー」
ゴロゴロと小さな身体でいっちょ前に喉を鳴らす子猫を、俺は人間の赤子にするように抱き込んでミルクを与えた。
もうそろそろ行かないと遅刻だ。明日はもう少し早く起きるべきだな……。
「見てないで食え、遅刻したらお前のせいだぞ」
「ぅぅぅぅ……ミルクあげるの、ちょー楽しみにしてたのに……無念……」
「大げさなやつ……」
「そんくらい楽しみにしてたのーっ!」
昨晩の様子が嘘のように、カマタリはたっぷりとミルクをがっついた。
おかげで俺たちの出発はさらに慌ただしいものになってしまったが、今日ばかりは仕方がない。
「俺は戸締まりがあるから先に行け」
「あ、そのことなんだけどさ。もしよかったら、うちと一緒に行く?」
「スクールカーストの、下の下の下~の方の俺と一緒にか? つまらんやつにつまらん噂をされるのが見えるな……」
「別にそんなのいいよ。待ってるから一緒に行こ?」
わからん……。コイツは何を考えているのだろうか……?
俺たちが一緒に通学だなんて、それこそ男女の同居人としての距離感を間違えまくった最悪の選択なのではないか?
「それは困る……」
「なんでー?」
「なんでって……お、女の子と一緒に登校なんて、小学生以来で、恥ずかしいからだ……」
「ウソーッ!? なんか意外……。モテそうなのに、なんでモテないの?」
「んなのこっちが知りてーよ……っ!?」
「へへへ……そっか、わかった! 外で待ってるねっ、うちっ♪」
「人の話を聞け! こ、困ると言っているだろっ!」
「いいからいいから♪ マジメくんは可愛げないけど、可愛いとこあるなぁ♪」
「いやどっちだよそれ……」
言い合っているうちに戸締まりが済んだ。
そうするとどうも自動的に、騒がしいギャルと一緒に玄関をくぐることになった。
さらに付け足すならば、家を出るなりいきなり腕を組まれたとも言う……。
いったい、なぜ……?
「待て待て待て待てっ、おまっ、何考えてんだよっ!?」
「媚び売っとこうかなって」
自己申告によるとこれはわざとだそうだ。
高校生とは思えないほどの豊かな胸の膨らみが、抱き込まれた俺の腕に当たっていた。
「んなもんは即クーリングオフだっ!」
「返品不可、ノークレームでお願いします」
「んなもんっ、全部っ、売り手の都合じゃねーかっ!」
「だってー……。だって、死ぬほど感謝してるもん……。だから感謝感謝、サービスサービスッ♪」
ぼよよんぼよよん……。
朝っぱらから脳味噌が溶けてアホになりそうだった……。
ちなみに子猫を家に置き去りにするのは心配なので、実家に電話を入れて、専業主婦の母に頼むと、いい歳こいて超はしゃいでいた。
子供欲しさに6人もこさえる母親だ、さもありなん。子猫の一言でテンションマックスだった……。
「お、観念した?」
「お前、世間体という言葉を知っているか?」
「うん、知らなーい♪」
「知らないで済むか……っ。同い年の男女が、同じ家をシェアしている時点でまずいのに、その二人が腕を組んでご近所を歩いてみろっ、噂話に餓えたご近所様の餌食にされるぞ……っ」
彼女の耳元に口を寄せて、小声で具体的な問題点を解説してやると、クロナは甘えるような上目づかいでこう言った。
「だってくっつきたいんだもん……。うち、死ぬほど感謝――」
「それはもう聞いた……! 離れろ……せめて、ご近所を離れるまで頼む……。頼むから、勘弁してくれ……」
前に笑いかけてくれた若い奥様に見られた。
顔を合わせるたびに挨拶をしてくれるお婆ちゃんに見られた。
集団登校をする小学生の一行もだ……。
「へへへ……与一くんってさ、恥じらい深いところがいいよ。男なのに嫌らしくない感じ?」
「慎みとかじゃねーよっ、世間体を気にしてるんだよっ、俺はっ!?」
もしかするとそれは、本当のことなのかもしれない……。
止めろ、おっぱいは止めろ! それ男子高校生特効のやつだからっ!
ぷにょん、ぷにょん、ぼよよん! ぼよよんぼよよんっ! 寒いはずの朝の通学路は心も体もポカポカだった……。
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