第2話
100万回「負けヒロイン」を経験したせいか記憶がここのところ混濁としてきましたが、次の宇宙へと向かう間、なんとか昔話をしてみましょう。
この宇宙においては今から3年前、中学2年生の頃、朝の食卓でことは起こりました。
「あなたさァ、このまま”勝って”ばっかりでいいの!?」
机を囲んで正面に座る、専業主婦の母親からそう言われたのです。最初は私に向けられた言葉とすら捉えていなかったので、箸を伸ばしかけていた焼き鮭のピンク色をぼんやりと眺め込むばかりでしたが、やおら朝に似つかわしくない静寂に感づくと、これはいつもと違う一日が始まったなとようやく私は顔をあげました。
次に視界に入ってきたのは焼き鮭よりも顔を紅潮させた母親です。なんと泣いております。歳も14を数えるようになった私は寛容と分別の類を身につけはじめている故、無敵のようであった母親でも感情の波に呑まれる瞬間があることを存じております。しかしその瞬間が朝の食卓にやってくるのは果たして適当なのでしょうか。ここ半年は家族喧嘩もしていませんし、予防接種による発熱の経験もないので、言ってしまえば泣かれる筋合いにおよそ見当がつきません。きっと14の私にはまだまだ年の功が足らぬのでしょう。
などと考えながら鮭の身を咀嚼し、口の塩気をまぎらわすべく白米に手をつけようとしたその時、
「あああぁ育成に失敗したわ!!!!チクショウ!!この子には勝たせすぎたんだわ!!!」
どうしたのですかお母さん。箸を突っ込んだままの味噌汁がこぼれますよ。
「普通に産んで、ハイハイ歩行自転車と覚え込ませて、幼稚園小学校中学校…順調にルート進んでいると思ってたけどとんだ勘違いだったわ!!これじゃあ何のフラグも立たないじゃない!!!チクショウ!!私は我が子をモブキャラにしたくなかったのよ!!!」
何をおっしゃるんですかお母さん。いつも苦労かけていることは謝りますので、どうか味噌汁をお椀ごと投げつけてくるのをおやめください。豆腐が耳の穴に入ってしまいます。
「ねえ、あなたも悔しくないの!?」母親は今度は白米のはいった茶碗をわしづかみにして食卓へ叩きつけました。なかなかお目にかかれない美技でございます。「このまま誰にも気づかれない”勝ち”を繰り返して、その延長に何があるってのよ!?」
なるほど、一理あるやもしれません。私の母親はただただ疲労性ヒステリーに犯されているものと高をくくっておりましたが、どうやら彼女の言葉は傾聴すべきいっぱしの真理を含んでいるようです。すなわち、14の私もちょうど迷っておりました……私の人生、あまりにも平凡であり「モブ」であると。
宇宙の摂理によれば、世の中には3種類の人間しかおりません。「正妻」と「負けヒロイン」そして「モブ」でございます。
「正妻」は世の主人公のハートを射止めうる天性を備え、ただ息を吸っては吐いての日々を費やすだけで、自然とトゥルールートに進む資格を有します。「負けヒロイン」は世の主人公の近くにいつも加わることができますが、トゥルールートに参与することの適わぬ運命の十字架を背負っており、ノーマルルートの道半ばにして存在を否定されます。
「モブ」とはかれらの余事象で、それ以外に語ることはございません。「モブ」は自らが「モブ」であると頑なに認めず、トゥルールートへと一向につながらない無駄な勝ちを積みあげては、何かに向けて前進しているのだという錯覚に溺れます。私はそんな「モブ」に生まれつきました。齢14にして、誰かに教えられるわけでもなくすっと自覚したのです。
そんな「モブ」道をせっせと邁進する我が子を母親はついに見かねたのでしょう。朝っぱらから外聞を忘れて怒鳴り散らす母親を見ては居たたまれぬ心地になります。ああ、どうにかして母親を立ち直らせることはできないのでしょうか……
「そんな”平凡な宇宙“に苦し悶えるあなた達に、ぴったりのプランが!」
食卓に現れたのは父親でした。どうしたことでしょう、彼はもう働きに家を発っていたはずですが……いつものカジュアルスーツはどこへやら、ぱっきりとした黒燕尾服に身を包んでおります。和やかな垂れ目はx軸について線対称に移動しており、大変いかつい様相に身の毛がよだちます。
父親は味噌汁を被った私と白米を浴びた母親を捉えながらこう言いました。「今まで隠してたが、俺は実はマッドサイエンティストだったんだ。平凡なサラリーマンの振りをしていて悪かった。お詫びに俺の実験結果を見てくれ」
なんと、我が尊敬する父親は実はマッドサイエンティストだったのです。これまでそんな素振りがありましたでしょうか。しかし100万回の「負けヒロイン」を経験した今になって振り返ると、気づけなかった当時の私が阿呆だったと言わざるを得ません。何しろ黒幕は身近で優しい男性であるというのが宇宙の摂理ですから。
父親はポケットから手のひらサイズの蒼い球体を取り出し、親指と人差し指でつまんで、私たちに見せつけてきました。蒼い球体は凝視するときらきら細かく輝いて見え、昔屋台でプールより掬ったスーパーボールのようでした。
「愛しき我が子よ、これを飲め!これは「正妻」になれるポーションだ」
「ええ!?あなた今「正妻」と言ったの!?我が子のために、ずっと頑張ってくれていたのね…」母親はまた泣きだしました。うれし涙でございます。「ほら、さっさと飲みなさいよ!このまま普通に勝つだけのモブで良いってわけ!?」
良いはずがありません。これ以上尊敬する両親を悲しませる「モブ」でいたくはないのです。それに、何の努力も苦労もせずに主人公と寄り添える「正妻」へのあこがれが、わずかに残存する幼心より捨てきれぬことを否定できません。長々弁舌を振るってまいりましたが、要するに私は勝ちたいのです。私が勝てる宇宙に行ってみたいのです。
そうして、私は父親より蒼い球体を受け取り、口に含むにはいささか大きいサイズであることに戸惑いつつ、すっかり冷えてしまっていた私の味噌汁を使って胃に流し込みました。これで私は「正妻」になれる!
ところが父親の話とは違い、それは「負けヒロイン」になれるポーションでした。かくして今に至ります。
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