君と仮初のしあわせを見る
一澄けい
第0話 しあわせの欠片を掴む日
「この子をね、預かってほしいの」
高校からの友人である彼女にそんなことを言われたのは、寒い冬の日のことだった。
「……え?」
思わず呆けたような声が漏れる。そんな僕に構うことなく、彼女は先程言った「この子」―要するに彼女の娘である―の頭を優しく撫でながら、言葉を続けた。
「うん、そう。この子……私の娘をね、貴方に、預けてもいいかな」
母親である彼女の膝の上で、彼女によく似た子供は、すやすやと安らかな寝息をたてている。その光景はまるで神秘的な宗教画のようで、触れてはいけない危ういもののように思えた。
「一応、理由は聞いておきたいかな」
預かるのは、別にいいんだけどさ。
そう前置きして言えば、彼女は困ったような笑顔を浮かべた。何時だって屈託のない笑顔を浮かべていた彼女の、そんな翳りを帯びた笑顔を見るのは初めてのことで、その表情はなんだか、僕に嫌な予感を抱かせる。
そして、数秒後。僕のその嫌な予感は、的中することとなる。
「私ね、もうすぐ死ぬんだって」
頭が、真っ白になった。かけるべき言葉も、何を言うべきかも分からなくなって、はくり、と動かした唇が、意味もなく空気を吸う。ひゅう、と喉が嫌な音を立てた。
彼女が、死ぬ。友達である彼女が。
大好きで、だけど終ぞその気持ちを伝えることの出来なかった、僕の、大切な、たったひとりの友人が。この世からいなくなってしまう。
そんなこと、急に言われたって、受け入れられるわけがない。
そんなの嘘だ、嘘だって言ってよ。そうやって喚き散らしたかった。
だけど、それはきっと、嘘ではないのだろう。
彼女が素直な正直者で、嘘が吐けない子だということは、嫌という程知っている。
だからこそ、嘘でしょう?なんてことは、聞けなかった。
その代わりに、吐き出されたのは、全く別の言葉だった。
「……どうして、僕なの?他に預けられる人だっているんじゃないの?」
その問いに、やっぱり彼女は困ったような笑顔を浮かべたまま、答える。
「私が結婚した時、何があったか知ってる貴方が、それを聞くんだ?」
「あ……」
失言だった。それに気付いた僕は、ごめん、と小さな声で謝る。
そうだった。自身の育った家から逃げるように自分の選んだ男と結婚し、子供を授かった彼女に、もう、頼れる人は殆ど居ないのだ。
きっと、僕以外には。
ちいさなちいさな謝罪の声に、彼女は、別にいいんだよ、って、感情の読めない声音で言葉を返した。
そして、ぽつりと、言葉をひとつ、吐き出した。
「私にはもう、貴方しか居ないんだよ。あのひとにも先立たれちゃった私は……ううん、私たちは、もう、貴方しか頼れない」
「だから、お願い。この子を、私の代わりに育てて欲しいの」
嬉しい。真っ先に浮かんだ感情はそれだった。
次に、嫌悪。その言葉を嬉しいと思ってしまう自分が、ひどく醜いものののように思えた。
最低だ。こんな時にさえ、君に頼られて嬉しいと思ってしまう自分が。僕しかいないと縋られることに、仄暗い歓びをおぼえてしまう自分が。
汚くて、醜くて、最低のいきもののように思えた。
だけど、彼女の願いを拒否することなんて出来なかった。
本音を言ってしまえば、子供のお守りなんてゴメンだ。子供なんて五月蝿くて嫌いだし、僕に子育てなんてものが出来るとも思えない。
だけど、他でもない、誰よりも大好きな、彼女のお願いだから。
彼女が、僕しか居ないのだと、縋り付いてくれるのなら。
そのお願いを、拒否することなんて出来なかった。
「分かった。いいよ」
そう言えば、彼女はよかった、と呟いて、心の底から、ほっとしたような表情を浮かべた。その姿は、子供を思う母の姿そのもので、友人のそんな見慣れない「母」としての姿に、少しだけ、もやりと心が曇ったのを感じる。
そんな僕の内心に、きっと彼女は気付いていない。気付いてないから、彼女は、寂しそうな笑顔を浮かべて、言葉を続けた。
「お願いだよ、ありす。どうかこの子のこと、幸せにしてあげてね」
ほら、指切りしよう。
そう言って、母親の表情で、小指を差し出す彼女。その大人びた表情と幼い仕草のアンバランスさに苦笑しながら、自分の小指を差し出された指に絡める。
夕暮れの小さなアパートの一室。ひんやりと冷えた空気が包むその場所で感じた彼女の体温は、驚く程に冷えきっていた。
嗚呼、本当に、彼女は死んでしまうんだ。彼女の体温と、記憶よりもいくばくか細くなった小指の感触に、僕はそんなことを思って、どうしようもなく、泣きたくなってしまった。
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