【コンテスト応募作品】呼吸をするということ

白シャツ父さん

呼吸をするということ

意識して呼吸をすると息苦しい。幸せも同じではないだろうか。


 2月。葬儀は、咲さんの実家の山梨で行われた。咲さんの実家の庭からは、斜面に広がる葡萄畑が見える。流木の様に弱々しい幹から網目状に張られたワイヤーに沿って、自らを覆うように枝を絡ませている。真向いには富士山がそびえ、朝方には山頂を目指す登山客の灯りで、山道が浮かびあがり山頂までの道のりを示した。

咲さんには友人が大勢いた。あのふわりと暖かい笑顔に恋したのは私だけではなかった。それでも咲さんは、私のような人間を選んでくれた。記憶というアルバムの、どのページを開いても、あの頃の咲さんしか出てこないようなこんな私を。


 私と咲さんには、お気に入りの桜並木があった。

 東京の、都会でも田舎でもない町の片隅、商店街へ続く通り沿いにあるその並木を、いつも二人で散歩したものだ。春風が私達の肌を通り抜けていく中、スキップと歩行の中間程度の歩幅で歩く咲さんの後ろを一歩下がって私がついていくのだ。

 咲さんのキャメル色のステンカラーコートから、こちらを振り返る度に白い薄手のセーターが見える。くるりとステップを刻むごとに、ふわりと窓辺のカーテンの様にコートは揺らめき、私に春の暖かな午後を感じさせてくれた。

 咲さんが鼻歌を口ずさむと、私は決まってこう問いかけるのだ。


「気分が乗ってきたね、咲さん。何の歌だい?」


 すると咲さんはこう答える。


「今作った歌なの」


 咲さんはここで必ず振り返り、自慢の黒目が無くなる程目を細めて笑うのだ。

散歩の後は決まって桜並木に面した喫茶店に入った。天然パーマの小柄なマスターが一人で切り盛りしている店内。カウンター席の正面にずらりと並ぶ洋酒のボトルと、白い壁に飾られた映画スターの妖艶な笑み達がアルコール入りのチョコレートの様に私達を少し背伸びさせた。一番奥の窓際の席にいつも座りながら、外の桜を横目にコーヒーをすするのだ。海外の音楽なんかに興味はなかったが、咲さんの前ではおしゃれな洋楽好きを装い、昨晩、必死に覚えたギタリストや女優の名前を、タバコをふかしてはひけらかしてみせるのだ。

 真剣な表情で、まっすぐ私を見つめる咲さんの眼差しと合図地が、私をたまらなく高揚させた。聞いたことのないレコードから流れる柔らかい音と、咲さんの熱い眼差しは、まるで麻薬のように、苦いだけの黒い液体に甘みをつけて、私の体に染みていった。



クロが吠える。

 暖かい春の景色から、真冬の山梨に引き戻された。窓に吹き付ける風と、続々と別れの挨拶に訪れる咲さんの友人や近所の人々が、一層現実の風景を濃いものへしていた。咲さんの実家には、咲さんの姉と、姉の夫と子供家族、他にも桜の葬儀でしか会ったこともない、はるか遠くの親族が集まった。

 咲さんが眠る和室から、ふすまを挟んで隣の居間に親族が集まり、最後の挨拶に来た人々が、喪服に身を包んで訪れる度に、こたつから抜け出し正座をした。仰々しい枕飾りに囲まれた棺桶の中には、きれいに色を付けた花と一緒に、思い出の品々が咲さんの周りに収められている。

 咲さんの顔を見ると、皆、声を揃えて綺麗な顔だ、まるで生きているようだと言った。咲さんの顔の横に置かれたクマのぬいぐるみを見ると、また声を揃えて、桜ちゃんもいい子だったわと口にするのだ。さらに最後には“ご愁傷さまでした”という決まり文句を必ず添えて、それを合図に私たちは、“ありがとうございました”と正座から深々と頭を下げるのだ。

 これをほぼ半日繰り返すと、心の中は空っぽになり、お辞儀をする人形と化す。

 “決まり文句”という表現は言葉が悪いだろうが、今の私にとって、今まで見たこともない人間の最後の挨拶などどうでもよかった。家族を失った後に、深々と“ありがとうございました”などいったい何のお礼なのか。代わりにこれから来る人数分、私が棺桶の前で“今までありがとう”とひたすら咲さんと桜に伝えてあげたいくらいだ。しかも、挨拶に訪れては、私の知らない咲さんとの昔話を茶菓子代わりに楽しそうに話して帰る。しまいには、桜の話まで持ち出して、愛しい咲さんと桜の顔が見え隠れする、なんとももどかしい空間にしてこの家を去っていくのだ。話をなるべく頭に入れないように、こたつの上に積まれた蜜柑を剥いてみるのだが、いつまで経っても口に含もうとは思えなかった。


 

 咲さんの様子に違和感を覚えたのは、8年程前の夜のことだった。

 咲さんがいつもの様に晩御飯の支度をしていると、急にぽつりと話し出したのだ。

「ねぇ、一樹さん。桜は、桜はどうして死んじゃったのかな、私がしっかりと学校まで送ってあげなかったからかな」

 突然の出来事に、私はそっと広げた新聞から咲さんへ一瞬視線を移した。

咲さんの頬には大粒の涙がボロボロと伝っていた。私はソファーに深く腰を掛け直し、咥えたタバコの火を灰皿へ押し消すと、誰のせいでもない、昔の話はよそうと、冷たくあしらってしまった。咲さんはその場にへたりと座り込み、今まで溜めこんだ涙と無念の思いを、エプロンの裾に染みこませていった。葬儀の日は、桜が悲しんではいけないからと、一滴も涙を流さず気丈に振舞っていたのを私は今さらになって鮮明に思い出していたのだった。

 咲さんは、この日を境に、蝉の抜け殻のように生気を失い、言葉を発し辛くなっていった。

見かねた私は、50歳手前で仕事を早期退職し、都会のマンションから郊外の小さな平屋へ移り住むことにした。そこそこの蓄えもあったし、自然に囲まれた方が人目も気にせず、気持ちも楽になるだろうと考えたのだ。この平屋は、商店などが立ち並ぶ町からは少し離れていたが、天気がいい日には敷地いっぱいに洗濯物を干せる庭つきで、縁側からは近くの山々が一望できた。

 この家へ移ってきてから、咲さんの表情に微かに光がさすようになった。東京とは思えない深い緑や、電車の騒音がしないこの場所が、どうやら彼女の心を癒すのに良い環境だったのであろう。それが証拠に、数年経つと、庭から鼻歌が聞こえてきたのだ。


「気分が乗ってきたね、咲さん。何の歌だい」

 

聞こえてきた鼻歌を聞きつけた私は、縁側から庭にいる咲さんに問いかけると、咲さんは言葉で表す代わりに、嬉しそうに笑顔を見せてくれた。これで良いのだ。きっとすぐに病気もよくなるだろうと、私はほっと肩を撫でおろしていた。

 数日経ったある日、私は少しでも咲さんの気持ちが晴れるようにと、クマのぬいぐるみをプレゼントした。普段プレゼントなんてしなかった私からとあってか、少女の様に喜んでくれた。彼女はそのクマに“桜”と名付け、ご飯のときも、テレビを眺めるときも、本物の娘の様に、何をするにも一緒にいるようになった。死んだ娘の名前を名付けることが精神医療的に良い方法かはわからないが、この頃の私は、咲さんの笑顔が少しでも多く戻ればそれでよかった。だから、あらゆる負担が少しでも軽くなるようにと、掃除、洗濯、買い物まで何でも私がやるようになった。なるべくお互いが笑顔でいられるように、毎日微笑みかけることにも努めた。ただ、その笑顔は、自分の最高潮の笑顔を型取って、樹脂で固めたお面の様で、それをつける度に多少なりとも違和感を覚えた。だからだろうか、この日以降の咲さんとの思い出は、戦後の白黒写真のように、ぼやけて肝心なところが薄いものになっていたのだった。



義兄さんが私の肩をそっと叩いた。ふと掛け時計に目を向けると、針は22時を指していた。私は火照った体を冷ましに風に当たろうと、片方がひっくり返った草履を履いて外へ出た。息は白く揺らめき、頭上に広がる星々からカシオペア座を見つけたとき、先ほど喉を通した河童巻きが夕飯であったことに気が付いた。大きく深呼吸をした後に、ぶるりと身震いをさせて玄関へ駆け込んだ。草履のかかとをきれいに揃えると、冷え切った廊下になるべく足を付けぬよう小走りで引き返した。頭が岩の様に重く感じた私は、居間ですっかり出来上がった親族達に、今夜は先に失礼しますと一声かけた。すると義姉さんが、今夜は下の階はうるさいからと、居間から一番離れた2階の角部屋へ案内してくれた。ギシギシと軋む階段や廊下を進み、年期の入った厚い引き戸を開けると、咲が子供時に使っていた部屋なのだと、義姉さんは私に教えてくれた。部屋には、咲さんが使っていた箪笥、壁のペナントは当時のままで、柱の傷は、幼い咲さんの背まで物語っていた。今夜はゆっくりしてくださいと、義姉さんは私を部屋に一人残し、下へ降りて行った。

 一人残されたこの部屋がなんとも居心地がよく感じたのは、寒さのせいで澄んでいると思う空気と、周りを取り囲む咲さんの面影のせいだろう。下階からは微かに笑い声が聞こえたが、疲れ切った私にとっては求めていた休息の場所だった。何枚も厚手の毛布を重ねて包まり、冷える足先をこすり合わせると、私はあっという間に眠りに落ちてしまったのだった。


 

 頭が痛く、体は重い、疲れた。

 鏡を見るたびに私は誰だと問いたくなる。この笑顔が似合わない町役場の受付のような男は誰だ。その汚れが染みついたエプロンはどうしたのだ。私はいつも誰のために何をしているのだろうか。そんな思考が脳内を駆け巡り、神経を逆なでて回る度に、めまいと吐き気がした。今となっては、散歩へ出かける妻を見送った後の一人になれる時間でさえ、夕飯の献立や掃除、洗濯で、日々、川のように流れていくのだ。妻が頼んだ訳でもないのに、私は何でも自分でやろうとした。妻がたまに心配そうな顔で私の様子を伺うようになったが、恐らく、今まで家事の一つもしなかった私が、台所に立つ光景に慣れていないだけなのだろう、きっとあの咲さんなら、私に笑いかけてくれるだろう、そうやって過去の咲さんを思い出しては、家事に勤しんだ。

その日は珍しく、私は疲れ果てたのか、死体の様にリビングの床でうたた寝してしまっていた。目を開くと心配そうに私をのぞき込む妻の顔があった。はっと起き上がり、時計を見ると、時計の針は17時過ぎを指していた。

「ごめん、寝てしまった。晩御飯これから作るからね」

 私は体制を起こす僅かな時間で、喉の奥で優しい声を作り上げ、懐からマジックの様に取り出したあの笑顔のお面でおどけてみせると、さっと台所に立ち、冷蔵庫を開けた。ごみの回収日が書かれたカレンダーや、書きなぐったミミズのようなメモだらけの扉とは裏腹に、中身は賞味期限切れの卵一つない状態だった。


「すまないが、今から買い物に出かけてくる」


 後ろに手を回し、エプロンの結び目を解こうとするのだが、妻の様子がどこかおかしい。

 今度はゆっくりと買い物へ行ってくるよと、言ったのだが、不安そうに顔を歪めたまま辺りを見回すだけだった。どうやら何かを探しているそぶりをし続ける。

 妻は大丈夫だと不自然な笑顔でゆっくり伝えようと私の方に振り向いた。

 その時、妻の目が大きく見開き、一目散に縁側に向かって駆けようとした。


「あぶない!どうした!」


 駆けだす妻を咄嗟に腕で受け止めたが、妻は必死にもがき、縁側へ行こうとする。


「あうあ!」


 外に向かって叫んだ妻の声のようなものに、私も外へ視線を走らせた。

 そこには、洗濯ばさみで耳を挟まれた、クマのぬいぐるみがぶら下がっていた。

 妻が帰る前に、桜を部屋に入れておいてやるつもりだった。しまったと、頭の中で一瞬、自分の非を嘆いている隙をついて、妻は私の腕を潜り抜け、クマのぬいぐるみに向かって駆けた。

 すかさず再度静止しようと振り返ると、クマのぬいぐるみに手を伸ばしながら、地面に飲まれていく妻の足の裏が見えた。


 病床の妻は、弱っていた。

 個室を用意して、周りを気にせずにいられるように最大限の配慮をした。

 窓からは公園が見え、子供たちが無邪気に遊ぶ声が微かに聞こえるが、その声をすべて反射しそうな純白な壁で部屋は包まれており、妻もまた、まっさらな表情のまま外を眺めるだけだった。私が何を話しかけても笑顔を見せてはくれなかった。まるで笑顔の作り方を忘れてしまったようにも見えた。お見舞いで持ってきたリンゴにも手を触れてはくれなかった。私が帰る頃、一口大に取り分けられた小さなリンゴは、窓辺に置かれた桜の影で覆われ、毒りんごのように黄ばんでいた。

 同じ日の晩、一人食卓で妻が残したリンゴにかぶりついていた。テレビをつけたが耳に入らないし、今噛んだばかりのリンゴでさえ味を感じない。消えそうな妻の表情や、今までの後悔を頭の中から消し去ろうとするたびに、音のない悲しみが目から零れ落ちた。それでも私は妻に会いに行った。いつか、妻が笑ってくれると信じて。


数週間が経つと、妻の身の回りの世話のためではなく、一緒に話をしたい一心で会いにいくようになっていた。車で病院へ来る途中、曲がる角を間違えてしまった話、手先が不器用で鶴が一羽もきれいに折れなかった話、どんな些細なことでも、真っ白いキャンバスのような妻に話続けたのだった。


 数か月経ったある日、私はあるサプライズを思いついた。


「なぁ、今日はプレゼントを持ってきたよ」


 外を眺めて静かに横になる妻にそう言うと、紙袋の中から水筒を取り出し、中身をそっとマグカップに注いだ。妻は鼻をピクリと動かすと、驚いたようにゆっくりとこちらへ体を反転させた。


「わかるかい?昔通ったあそこのコーヒーだよ。マスターの息子さんに事情を話したら、喜んで入れてくれたよ」

 

まっさらな妻の表情に、驚きの黄色が水で溶いた水彩絵の具の様に薄く広がっていく。ゆっくりと上半身だけ起き上がると、妻はそっとコーヒーに手を伸ばした。熱いぞという私の言葉に小さく頷くと、香りをすっと鼻へ入れ、小さな吐息で少しずつ冷ましながら優しく口に含んでいった。温かいコーヒーを口に運ぶ毎に、幸せそうな赤色や、なごんだ桃色が、妻の顔に塗り重ねられ、春のような柔らかい表情になっていった。

 恥ずかしながら、この時の私は、そんな妻に見とれていた。まじまじと妻を見たのは久しぶりかもしれない。そっと丸椅子から、妻のベッドに腰かけ直すと、妻の目をじっと見つめた。桜並木をくるりと踊った時より、皮膚がたるんでしまっているが、黒々とした瞳には、同じように年を取った私がくっきりと映っていた。

私は大きく深呼吸をすると、たった一言だけ妻にぽつりと言ったのだった。


「咲さん、仲直りがしたい」


 両手でコーヒーをつかんだまま、咲さんは固まってしまった。

 私は恥ずかしさのあまり、駄目だよなとベッドから丸椅子へ戻ろうとすると、咲さんは、私のシャツの裾を力強くつかんだ。私と視線が合うと、ゆっくり裾から手を離し、代わりに人差し指を私の前に力強く突き立てた。

 ……もう一度?

 コーヒーをもう一杯だと思った私は、空のマグカップに手を伸ばすと、咲さんは首をぶるんと横に振った。息を吐きながらゆっくり私の目の前まで体を乗り出し、一音ずつ、はっきりと自分の気持ちを発した。


「なまえ」


はっとした私は、ベッドに腰を下ろしたまま姿勢を正し、改めて咲さんの瞳を見つめてゆっくりと繰り返した。


「咲さん、咲さん」


 すると咲さんは、葡萄のような大粒の涙をぽろぽろと流しながら私に言った。


「ぜんぶごめんね、いつもむりさせちゃってごめんね、ありがとう、かずきさん、かずきさん……」

 

ゆっくりと発音される咲さんの声を、私は必死で聞き取ろうと努め、一つ一つの単語を奥歯で何回も噛みしめた。3度目に私の名前を繰り返そうとした咲さんを、私は精一杯抱きしめて、耳元で何度もごめんと繰り返した。私達のわだかまりや、病室特有の清潔な臭いは、思い出のコーヒーに砂糖の様に溶けていった。窓辺に座る桜も、今日は一段と愛おしく見えた。少し疲れたと眠りに落ちる咲さんの寝顔と、少し微笑んだ口元を見たのはこの日が最後となった。病院からかかってきた電話を受けた夜の事は今でも思い出せない。


 

「一樹さん、一樹さんってば」


 咲さんが私の体をゆすった。ぱっと目を開けると、私をのぞき込む咲さんの顔が見えた。


「気持ちよくて寝ちゃったのね。こんなお天気がいいと私も眠くなっちゃうわ」

 

 春のような草原の上、咲さんはぐいっと背伸びをする。いきいきと動く天使のような咲さんは、膝の上で眠りこける私の前髪を優しく撫でてそっとつぶやいた。


「私ね、本当に幸せなの。ずっとこうしていられるような気がするの」

 

それは良いと、私が微笑み返すと咲さんはこう付け足した。


「私ね、一樹さんにお礼をしたいの。きっと喜んでくれると思うの。でもね……」

 

ここまで言うと、一瞬何かためらった表情を見せた。暖かい風が無言の私達を通り過ぎると、咲さんは大きく深呼吸をして私に言う。


「今の私を愛して欲しい、今のあなたを愛して欲しいの」


 咲さんの真剣な目と見つめ合ってから、私は笑顔で大きく頷いた。それを見て安心したのか、ニコリと笑って、春の風に溶け、咲さんは草原と共に私の前から消えてしまったのだった。


 

 底冷えで目が覚めた。

鼻先は、冷凍保存した鶏肉に触れている様な程冷え切っていたが、胸の内は咲さんの夢のおかげか妙に暖かい。

 今朝何を食べたかも意識せず、外を見るでも見ないでもなく、呆けて昨夜の夢を引きずったまま、火葬場までの山道を親族と一緒にマイクロバスで登って行った。しばらくうねりながら登っていくと、開けた場所に、火葬場がたたずんでいた。妙に広い駐車場と、おまけのように生える植栽、飾り気のないコンクリートの外観は、寂しさをそのまま形にしたようだった。

 マイクロバスを降りて早々、私たちは火葬場のスタッフに案内されて、空っぽのエントランスから伸びる短い廊下を通り抜けた。開けた空間に鋼鉄の扉があり、扉の前には、鉄の台車に乗せられた棺桶があった。火葬場のスタッフから、最後の挨拶ですと促されると、皆、順番に棺桶の蓋に施された小さな窓から、咲さんの顔を覗いていった。御経を読み上げる平坦な声と、涙をすする音、親族達の本当にきれいな顔だねという、消えてしまいそうな会話だけが空虚な部屋に響いた。しかし、私は、これが最後の別れの挨拶になるとわかっているのだが、一滴も涙を流せなかった。また、すぐに咲さんに会えるような妙な確信が私から離れなかったからだ。

 お坊さんの御経が終わると、鉄の台車に乗せられた棺桶がゆっくりと重い扉の奥にしまわれていく。皆、口々にさよならという中、私は小声で“またね”とつぶやいていた。


 火葬場のスタッフが、私達を20畳はあるであろう、広い畳敷きの控室へ案内した。お骨になるまでに時間がかかるので、1時間程ここで休憩をして欲しいとのことだった。親族は皆、革靴や黒いヒールを玄関で脱ぐと、部屋に行儀よく並んだ立派な机を囲んでいった。女性たちがお茶の準備に立つ中、義兄さんがスタッフに、煙が上っていくところを見ることができないのかと聞いていた。私は茶菓子を各テーブルへ運びながら、2人の会話に聞き耳をたてた。話によると、火葬場より離れた場所から煙は出るので、ここから見ることはできないとの返答だった。しかし、今から15分後程度で煙は上がるだろうとスタッフは言い残し、さっと自分の持ち場へ戻っていった。

 親族達は、お茶や茶菓子をつまみながら、また昔話に花を咲かせていた。彼らの思い出は尽きないらしい。いや、半分は同じ話を繰り返しながら、何回も咲さんという暖かな余韻に浸っているのだろう。30分ほど経つと、義兄さん夫婦が私にタバコを吸いに行こうと外へ誘った。タバコを吸うことが本当の目的ではないことをわかっていた私は、その誘いを快く承諾した。


 冬の山はやはり寒い。

エントランスの自動ドアを出ると、空気の肌触りが変わった。上に羽織ったコートが役に立たないくらいの風が、容赦なく私達に吹きつけた。目の前に見える白い煙が、自分の鼻息かタバコの煙かほとんどわからなかった。


「天に昇っていくところを見たかったんだがね、今頃、この風に乗って、ここいらに来ている頃かもな」


 義兄さんの独り言のようなはつぶやきに、私と義姉さんはそうですねと静かに返した。

 それと同時に空を見上げると、青い板ガラスのような空に、風に乗った薄く細長い雲が、飛行機よりも早く横切っていく。そんな雲を目で追っていると、何やら急に体が熱くなっていくのを感じた。

 ……なんだろう、この胸騒ぎは。

 私は、いてもたってもいられなくなっていった。体の疼きが止まらないのだ。

 ふと、麓から続く道路の街路樹に目を向けると、今にも折れそうな枝の先に、小さな一輪の桜の花がゆっくり開いていていくのが目に飛び込んできた。


「そんな馬鹿な」


 私は目を疑った。

 力一杯に見開いた目で、体を乗り出しながら街路樹を見た。目の前で開いた桜が、枝の根元に向かって次々に開いていくではないか。

 開いては舞っていく花弁が隣の木へ降り注ぐと、またその木が花開き、しまいには、通り一面の木が満開の桜となったのだった。


「義兄さん!義姉さん!桜です!咲さんが言っていたのはこれだったんです!桜がこんなにも!行ってみましょう!」


 私は、街路樹を指さし、義兄夫婦に叫んだ。一目散に桜の方へ向かいたかったが、私の腕は何かに拘束された。


「離してください!咲さん!咲さん!」


 私は、拘束から無理矢理振りほどき、春の様な心地よい風と、暖かな木漏れ日を受け、マフラーもコートもすべて投げ出した。雨の様に降り注ぐ桜の花びらをかき分けながら足を踏み出すと、自分の体が若返っていくのを感じる。体は軽く、腕もこんなにも振れるではないか。そして、聞こえるのだ、あの咲さんの鼻歌が。追いかけよう、そうだ、迎えに来てくれたのだ、こんなどうしようもない私でも、咲さんは桜と一緒に私を連れて行ってくれるんだ。

 燦々と降り注ぐ太陽の下、私は生まれて初めてくるりと踊った。ダンスのステップなど一つも知らなかったが、昔から私の目の前で踊って見せてくれた咲さんのおかげで、最後のこの瞬間は華麗にステップを踏み込むことができた。鼻歌に徐々に近づいていく、今日は私も一緒に踊るから、隣に並んで歩くから、どうか姿を見せておくれ。


絡みつくように桜は舞っていく。そして、地面をけり上げるたびに、花弁は何度でも、何度でも巻き上がった。今、この瞬間の咲さんを私は愛している。

 約束は守るよ、咲さん。


「あぶない!」


 義兄さんの声が、耳から神経を伝い、脳を大きく揺らした瞬間、目の前に一台のマイクロバスが現れた。私の体が驚いた拍子に後ろへ倒れていく。体の傾きが増すごとに、今まで遡った幾年もの年月を、一気にとっていくように足の力が抜け、その場に尻餅をついてしまった。その衝撃が体中を駆け巡ったかと思うと、私は何も感じ取れなくなってしまった。辺りは闇で包まれ、何も見えないし、何も聞こえない。指先に触れるものも何もない。暗闇の中、桜の木を必死に探した。さっきまで、たしかに握りしめたあの桜を。

 私は嗚咽交じりにつぶやき続けた。


「桜が咲いていたんです、歌が聞こえたんです、桜が咲いていたんです」


 ふと、肩に微かな暖かさを感じた。私の目の前に、運転手らしき人と、義兄さん夫婦が見えた。私が脱ぎ捨てたコートやマフラーを肩にそっとかけてくれたらしい。混乱して震える私に、義姉さんが優しく声をかけてくれた。


「……一樹さん」


 目を真っ赤にした義姉さんの優しい笑顔と、背中に添えられた義兄さんの手の暖かさを感じたとき、初めて私は、辺りに広がる銀世界をこの目でとらえた。赤くかじかみ、震える指を見た。寒さで裂けた唇ににじむ、生きた血の味を感じた。そしてわかった、自分がなぜ無念を縫い込んだ黒い服に身を包んでいるのかを、どうして咲さんは歌っていないのかを、どうして棺桶の咲さんの横に、クマのぬいぐるみがあったのかを……私は、今まで見つめてこなかった私自身を感じた。

 かけがえのない家族の名前を振り絞ると、私はあふれ出る涙を止める術がわからず、すっと天を仰いだ。泥交じりの雪が染みこんだ薄茶色のYシャツで何度も頬をぬぐった。

 “さよなら”と、天国の2人に伝えようとしたが、冷え固まった横隔膜からは、かすれた声も出なかった。ガラスに息を吹きかけたように、私の吐息は青い空に広がりながら薄く消えていった。2人がもういないという事実が、私の中の彼女達の呼吸を、確かな物へと変えていった。


 意識して呼吸をすると息苦しい。幸せも同じではないだろうか。


 私達の幸せは、無意識に呼吸をするということだ。

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【コンテスト応募作品】呼吸をするということ 白シャツ父さん @mutouryouta

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