第3話

中で何が起きたかと問われれば、今は特に何も起きていないと返せるだろう。


案内された椅子に腰掛け、自室と大して変わらない様を見渡していたリュヌの前に、簡易的な食器に乗った紅茶とクッキーが差し出された。紅茶の水面が軽く動いているのを見てここが船であることを再認識する。いただきますと紅茶に口をつければ、仄かな甘さが口の中に広がった。


テーブルを挟み置いた椅子にシスターが座る。自前の聖書を捲る姿は、早く説明に移りたいという気持ちを隠しきれていなかった。


だが、本業が異形な身としては正直聖書など聞きたくない。何とかして引き延ばそうと、近況の話に身を沈ませた。


「そういえば、同じ船に神父様が乗っているのもお見かけしたのですが。お知り合いでしょうか?」


「神父様……サン様のことでしょうか?」


「かと思います。お知り合いなんですか?」


「知り合いといいますか、これから知り合うといいますか……ハーフェンの街は知っていますか?」


「えぇ。……港町ながら、山に囲まれているため漁業も林業も盛ん。小さくはあっても存在感は確かにある……実際に降り立ったことはないので、本の受け売りですが」


「大丈夫ですよ。その通りです。そのハーフェンの町の教会を管理していらした神父様が、若い方に教会を譲ると進言されまして。その町の出身であるサン様が指名されたんです。なんですが、突然のことでしたので教会側もひとりで運営するのは厳しいだろうと。なので急遽私が共に行くことになりました」


「神父様はそのことを?」


「知ってはいますが、派遣されるシスターは知らないと思います……あとでご挨拶に伺わなければならないですね」


なるほど、と相槌を打ちながら先程の神父が語っていた話を思い返した。あの話と違う点は何もないし、嘘をついている様子も勿論ない。つまり、話を総合すると目の前にいるシスターも神父も互いに互いを知り得ていないことになる。


何かがないことに気づいたシスターが、失礼しますと立ち上がった。


どうぞと手で促しながら、この部屋にたどり着くまでに考えていた作戦を復習する。少々雑な仕上がりではあるが、きっとうまく行くだろう。



この世に神が実在するなら、失敗するかもしれないが。



シスターに近づき、肩を叩く。柔和な笑みで振り返った口がなんでしょう、と言葉を紡ぐ。


その清廉された細い首に手を伸ばし、彼女の首を手折りにかかった。


驚いて目を見開かれたシスターの目が首の圧迫感で苦しそうに細まる。それを無表情に眺めながら掴んだ右手の力を込めた。


苦しそうな息が漏れる音、ばたつかせ始めた足が床を蹴る。これじゃあ気づかれてしまうじゃないかと被害者が浮くよう腕の高さを調節する。


姿に合わない恨むような視線が届いてくる。息しか吐けない口でなんとか言葉を発そうとする。その姿があまりに滑稽で、異形が口を開いて無言で笑えば牙が見え隠れする。


それを見たシスターの目が一瞬驚きで大きく広がった。薄い息で必死に何かを伝えようと、そのためにリュヌの手を解こうとした両手が哀れに動く。


遺言くらい聞いてやるかと手を緩めれば、突然入った酸素にシスターの体が戸惑った。宙ぶらりんのまま大きく咳き込み、荒い息のまま発した言葉は


「吸血鬼……!!」


そんな平凡なものだったから。

正解、と返して穢れない首を締め上げる。


彼女の顔が歪み戸惑い怒り悲しみに揺れ動く。手も足も無様に動き回る。リュヌに抵抗を遺そうと必死に足掻く。


しかし結局は無意味なことで、可哀想なシスターは何とも言えない表情で止まる。同時に全ての抵抗が消え失せた。


最期の言葉はきっと、口端から溢れた液に含まれているのだろう。その言葉と、神に救われなかったシスターの体から手を離し床へ捨て置いた。


ゴン、という鈍い音を背に死人の小さな荷物を漁り始める。中に入っていたのは大変質素なもので、金目の物など0に近い。


だのに、吸血鬼の口元に現れた笑みは満足気なそれだった。中から引きずり出したのはシスター服数着。自分の肩に合わせ、丈の丁度良さに満足そうな笑みを深めると、今度はベッドに向き直った。


シスター服を上に広げ、自身のドレスを静かに脱ぎ始める。鼻歌を歌いながら着替えに勤しむ様はついさっき人を殺めたとは到底思えない。白い柔肌を晒し、聖職者の服に包まる吸血鬼とはなんと不思議な光景か。


ひとつ残さずボタンを留め、しゃがみこんで死した頭を持ち上げる。頭についているベールの形を確認し、見よう見まねでつける最中の口は、どうつけてるか聞いとけば楽だったとぼやきを見せた。


足を支えていた赤いヒールを脱ぎ、茶色く平べったい靴を履く。サイズの問題よりも視界がやや低まったことの方が不快だったらしく、名残惜しそうに赤いヒールを眺めている。


しかし、気持ちの切り替えは随分と早いようだ。抜け殻となったドレスとヒールを適当な扱いでシスターの荷物に詰めると、聖書を重石にと強く押し込む。


鍵を閉め、立ち上がった。その姿を窓越しに確認する。何処からどう見てもシスターで、中に吸血鬼が潜んでいるとは到底思えない完成形にさすが私、と口笛を吹く。


完璧なシスターに成り代わった姿で振り返り、哀れな羊を見下ろした。茶色い靴に元の主人を蹴らせながら、腕を組んで計画を確認し直す。


「成り代わりは完成。あらかた必要な荷物も手に入れた」


最早何の反応もない頭を踏み躙る。


「ここに死体があるのはまずい。私の部屋に連れてって事件沙汰にするのもまずい」


しゃがみこんで頭を持ち上げれば、最期に溢れた涎が床に垂れる。その胸元に光る赤いロザリオに気づくと、涎がかからないよう注意しながら失敬した。


「都合のいいことに、この船は降りる人数を数えない。乗った時に予約数と合っていて、最後0になっていればいい。ハーフェンの街へは1番に着くから早くさよならできる」


片手でロザリオを首からかけ、空いている手で抜け殻を持ち上げる。


「荷物は少ないみたいだし、私のと合わせて降りればいい。……1回私の部屋戻るか」


人は死ねば魂分軽くなるというが、寧ろ重い。舌打ちをしながら窓際へ近づいて行く。転落事故防止のために頑丈に閉められた錠に力を込めれば、錆びたそれは簡単に命を終える。


窓を開けると風が勢いよく室内を巡った。ベッドのシーツははためき、ベールは暴れ、ロザリオの十字架は逃げるように後方へ流される。


目を細めながら身を乗り出し下を確認する。船が作る波は大きく、波を生み出す音と蒸気船特有の音は想像以上に大きい。誰かが間違って落ちてもわからないほど。


身を引き、窓を大きく開け放つ。人ひとりがやっと通れる道が出来る。哀れな羊の頭を突き出す。涎が船の外装に触れる。そのまま一気に体を押し出せば、無抵抗に落ちて逝く。


再度身を乗り出せば、哀れな羊が波に飲まれたのが視界に刻まれる。一瞬できた孤は船のリズムに掻き消されながら元いた場所から引き剥がされる。それを窓枠に頬杖をつきながら優雅に眺めるシスターは、まごうことなき異常者だろう。


彼女が落ちたであろう地点が見えなくなった頃になってようやく窓を閉めた。鍵は最初から壊れていたことにしようと思いつつ自室に荷物を取りに行こうとするが、行動が何かに阻害される。


首に違和感。視線を辿れば、ピンと張ったロザリオがある。どうやら窓を閉める際巻き込んでしまったようだ。


窓を開けロザリオを外せば、十字架の一辺が外枠に傷をつける。まるで持ち主が聞けなかったことを聞くかのように。


何故こんなことを、と問うように。


十字架を持ち上げたこれからの持ち主は、室内に体を向け後ろ手に窓を閉めると口元をにんまりと歪ませた。日光を受けて輝くそれを回しながら、君らは知らないのかいと逆に問う。


「私等のような異形の間に流れる噂さ」


ロザリオを指で辿る。頭の中で今までの教会の動きを再生しながら。


「私等はね、教会やらが大っ嫌いでね」


その昔、人が異形の存在を認識しつつも嫌っていた時代。このままではいけないと、声を上げたのが教会だった。異形も生きやすくなるべきだと言ったのが教会だった。


「いつか全滅できたらなんて思うほど、だいっきらい」


天秤になろうと言った。人と異形の間に立ち、両者の誤解を解く天秤にと。それを信じ、人も異形も身を委ねたのに、結局教会は人の子だった。


何か不可解な事件が起きれば異形のせい。人の子は救うが異形の子は救わない。そうして淡々と、着実に、異形が嫌われる世界を正当化した。


「だからか、とんでもない噂が流れててね」


それに黙する口ではない。忌避された異形は教会を許さず、何度も刃向かい殺そうとした。だが、全知全能の神に守られた彼らは強く、闇にとっては毒だった。


そんな中、突然流れ始めたひとつの噂。


「『闇を生きる異形にとって、聖職者の血肉は毒である。だが、7日間継続して食された聖職者は、“最大の裏切り行為”と神に見放され、最上級の餌に堕とされてしまうらしい。』」


阿呆らしいひとつの噂。実現するには己の命もかける必要がある、ひとつの噂。


誰も実例にあったことがない、ただの噂話。


「だけど私は気になるんだ。最上級の餌とはどんなものなのか」


いつからか持っていた漠然な欲を、わざわざ敵陣に入った上シスターに成り代わり命を懸けて成功するかもわからない噂を現実化しようなどと思ってしまうほどに膨らませてしまったのが、堕とし甲斐のありそうな敬虔な神父だった。


だから、なんとまぁ哀れなことに


「君の主人は死んだ」


それだけの理由さと十字架を離すと、自然の摂理に従って彼女の胸前に大人しく収まった。この我儘で身勝手な吸血鬼の言葉に呆れたように、諦めたように。


それでいいよと笑いながら歩き、ドアノブに結ばれていた部屋の鍵を外しながらドアを開ける。


ほんの少し薄暗くなった廊下が、嘘つきシスターを出迎えた。






シスターに成り下がったリュヌが本当の荷物を回収し終えあの部屋に立ち、鍵を差し込んでいた時。あの、という声が彼女を呼び止めた。


声の方へ向けば、かの神父が安堵の表情を浮かべて立っていた。ハーフェンへ向かわれているのですか、と問うてくる。


慣れない表情にほんの少し戸惑いつつ、自分の思う1番の優しさを讃えながらそうです、と笑んだ。


「神父様、挨拶が遅れてしまい申し訳ありません。この度、共にハーフェンへ向かうことになりました。シスターのリュヌと申します」


スカートを摘みそうになるのを堪え、手を膝に添えお辞儀をひとつ。その頭上から降る言葉は優しいもの。


「いえ、こちらそ遅れてしまい申し訳ありません。同じようにハーフェンへ向かうことになりました、神父のサンと申します」


リュヌの前の空気が動く。きっとお辞儀をしたのだろう、頭をあげたのは同じ時。ゆっくりと向かい合えば、互いに笑顔を讃え合い。


これからよろしくお願いいたします、と呟き合った。









この後神父と吸血鬼がどうなったかを真面目に語る気はないに等しいが、きっと何処かで耳にすることだろう。




そんな記録人が最後に言い残したいことはひとつ。





この世に神がいるならば、きっと性根が腐っているということだ。



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アイビー・ブラッド 高戸優 @meroon1226

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