第2話

船員に見送られた女性の金髪がゆらゆらと、身体に合わせて左右に揺れる。


旅の友にと選んだ茶色い鞄は荷物を食べすぎたのだろうか、主人の体を左へ右へと揺らしにかかっていた。


そろそろ両手で持つべきか、とため息とともに両手に持ち帰れば途端に安定を見せてくる。横着はよくないとでも言うように。


ヒールで体重と荷物を支えながらゆっくりと歩き、部屋に向かっている最中。前方の声につられて目をあげると、そこにいたのは黒い装束に身を包む若い神父と初老の男性だった。


距離が縮まれば聞き耳を立てずとも声が届く。その法則はここでも当てはまり、彼女の耳に話し声が届いてきた。


「ハーフェン町の教会ね……あそこは長いこと気難しい爺さんが管理してたとこだろ? よく君みたいな若いのに譲る気になったな」


「ハーフェンは私の地元なので、それも理由のひとつかと思います。それに何かと通い詰めていたので」


「小さい時に?」


「えぇ、小さい時から大きくなるまで。私の方もまさかそんな話がくるなんて思ってもいませんでしたが。けど、急な話でしたのでシスターが1人助けに来てくれるそうです。同船だそうなので、あとで探しに行こうかと」


謙虚な姿勢に嘘偽りのない澄んだ声、故郷を懐かしみつつある柔和な笑顔。どの行動を取っても非の打ち所がない、誰から見ても模範的な神父を上から下まで眺めた男性はどこか憂うような声で


「しかし、その歳で神父を選ぶとは……あんなことをした教会にいい噂はないだろうに」


すれ違いざま一瞬顔を覗けば、神父が初めて翳りを浮かべていることに気がついた。教会の汚点といえば彼女にも関係があることだ。どう返事をするものかと、今度は意図的に聞き耳を。


距離が開いて行く中で声も緩やかに遠ざかっていく。それでもはっきりとわかる口調で、神父は自身の思いを口にした。


「まぁ……はい。存じています。今の教会もあまりいい話は聞きませんから。ですが、あの教えに惹かれたのも、なりたいと思ったのも事実です。それならその思いに従う方がいいと思いましたし、それに」


スカートを直すふりをして振り返り神父の顔を見やれば、柔らかい笑みを称えているのが視認できた。


「人の所業のせいで、例え教会のせいとしても。それで神の評価が下がる所以はありませんから」


だからせめて私くらいは、敬虔に仕えていたいなと思います。


そう締めくくった声は、確かに女性の耳まで届いていた。だからこそ、離れ行く背中への感想は


「馬鹿な神父」


そんな小さなものだった。


***


部屋につくと同時に、古めかしいデザインの鍵で一時の主人であることを差し伝える。開かれたドアの向こうに入れば、シングルベッドと簡易的なテーブルに2脚の椅子、これまた簡易的なティーセット。


鞄をベッドに放り投げ、ワンテンポおいて自身も倒れ込んだ。主人を中心に生まれた弾みで、床に落とされた鞄にざまぁみろと内心毒づく。


「……にしても重かったな」


白い長手袋に包まれた小さな手を上げ伸ばす。目を閉じて暫しほぐせばいくらか楽になった気がした。


解きベッドに降ろすと、左手がコツンと何かにあたる。目を向けると、小さなランプが乗った棚の上に分厚い本があった。


寝返りを打ちながら近づき本を引き寄せる。こんなオプションはつけていない、前客の忘れ物だろうか。暇潰しになるだろうかと開けば、並ぶ文字へ抱いた嫌悪感を隠せず眉間に皺が寄った。


ほんの少しの力加減の間違いで破けそうなページ、2本の栞、文章に妙な区切りで打たれた小さな数字、なんとか記やらなんとかへの手紙やらが多い書物。


先程の神父が好み彼女が嫌う、聖書だった。


数行読むだけで限界と元の位置へ押し戻す。もう一度寝返りを打って天井を仰ぎ見た。


ぼんやりと記憶を巻き戻せば、聖書に引きずられ思い出すのは神父の姿。


嫌いで嫌いで仕方がない、教会に属し愚直に神へ仕える馬鹿な神父。


先程の純粋な声を思い出せば鳥肌が立つ。あの笑みを思い出せば吐き気がする。


だが同時に。


穢れなく優しい敬虔な神父様は、穢れたらどんな声を出すのだろうとか。


どんな言葉を持つのだろうとか。


想像すれば、新しいものを見つけた子どものように心臓が高鳴るのもまた事実。



唇を舐めれば、隙間で鋭い牙が輝き踊った。


そんな彼女の頭を掠める、何時ぞや同胞から聞いたとある噂。


あぁ、と牙を舌で軽く押した。自分でも感じる鋭さが、神父に突き刺さる快感を想像するだけで心が躍る。


「……ちょうどいい、暇潰しにはなりそうだ」


あの神父が首から下げていた十字架を思い出す。一瞬見えた裏側に刻まれていた「Saint(サン)」を声でなぞり、改めた感想を言葉にする。









「穢しがいのある名前」











金髪の異形はある部屋の前で静かに歩みを止めた。躊躇うことなくドアを数回ノック。中から滲み出る声は弾んだ女性の声だった。


自らの緑色のドレスを見下げ、暫しお別れかと寂しさを抱く。背中が大きく開いたこのデザインは翼を広げるのにももってこいで、布が多い服を好まない彼女にはもってこいだったのに。


ふわりと広がっているスカートを撫でているとドアが開き、全身を黒でまとめた女性が顔を覗かせる。突然の来訪、しかも若い女性であることへの戸惑いを隠しきれない笑みを浮かべるシスターだ。


「なんのご用事、でしょうか?」


「突然申し訳ありません。私、以前から聖書に興味があったんですけれど字が読めなくて……同じ船にシスターさんが乗ってらっしゃると聞いて、いても立ってもいられなくなって。船員さんに聞いたら部屋はここと。その……」


しおらしく、字を読めないことを恥じつつも好奇心を隠せない演技をする。演技があまりにも上手かったのか、それともシスターが疑いの気持ちを持たないのか。そうだったんですね、と共に浮かんだ笑みは純粋なものだった。


「でしたら、私でよければお伝えします。聖書は……」


「持っています」先ほど部屋で見つけた聖書を取り出し「持ち歩いていたので……読めないのに」


「大丈夫ですよ。基本的なルールがわかれば、誰だって読めるものですから」


ところで、お名前はなんていうのでしょう?


シスターの問いに金髪の異形は柔らかな笑みでリュヌ、と答えた。


良い名前ですね、と笑顔で返しながら扉を開き己の部屋へ招き入れる。


ありがとうございます、失礼します。


丁寧な物腰で入り込み、背後で外と中が分けられた音を聞いて唇を軽く舐めた。

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