アイビー・ブラッド

高戸優

第1話

その日は快晴。風も波も穏やかで、まるで夢のような船出日和。


こんな日に操縦をするのはどんな気持ちなのだろう。そう考えるのは、海の男になってから日が浅い見習いだった。デッキで寄りかかり天に手を突き出していると、海の男としては数年分歳上の乗組員の声が耳に届く。


「今日はいい天気じゃないか」


目を向ければ、無精髭を生やした男が笑んでいた。今にもボタンが弾け飛びそうな姿を見ながら、変わらず制服が似合わないことで、と心の中でこっそり呟く。

そんな感想を察されないよう、笑みを繕いながらひとつ頷いた。


「ええ。船長の心労がいくらか減りますね」


「だといいがな。今回の航路には人魚やセイレーンがいるらしいから」


「……女好きの船長には地獄の航路ですね」


「ちゃんと避けられるかねえ……」


「避けてもらわないと……俺嫌ですからね、自分が操縦してない船で死ぬの」


「そりゃ俺もよ。何が嬉しくて他人が操縦してる船で死ななきゃならねえんだ」


「まあ乗ってるみんな嫌ですよね」


「死ぬこと自体嫌だしな」


会話に終わりが見えて互いに口を噤んだ。訪れる沈黙に、話を振るべきか悩んでいると仕事に入れと怒号が飛ぶ。


救われたと感じながら、軽い会釈をして乗船口へと移動した。


***


若い彼の仕事は客のチケットを確認し、乗船を促すことだった。渡されるチケットを受け取っては、名の分からない鋏のようなもので確認したことを切り記す。そうして笑顔を振りまいて「良い船旅を」と送り出す。そんな単純作業の繰り返しだ。


単調な流れを何度か見送った後、ちらりと待機列に目をやった。視野に入るのはスーツをまとった男や相手のいる年季の入った女ばかりで、楽しみはまるで見出せない。

美人の独り身の女がいたら楽しくなるのに。そんなことを思い、ため息を殺しながら作業を再開する。だが、単純な流れというものはいつだって人を壊す達人で、それは彼にだって例外ではなかった。


五十数人に良い船旅をと笑顔を向けて、ついに自分が何をしているかわからなくなった時


「いい船出日和ですね」


突然訪れた声に顔を上げると、黒、黄、白と緑で構築された男が笑んでいた。


歳は二十前半だろうか、清潔感を匂わせる整えられた黒髪が日光を受けて輝いている。スクエア型の黒縁眼鏡の奥、緑の光が優しく細まった。


「こんな日なら其方も楽しみでしょう」


「……ええ、そうですね。チケットを拝見」


流れ作業を壊す展開に戸惑いぶっきらぼうに答えてしまった彼に、お願いしますとチケットを差し出す顔や声は何処までも優しかった。


受け取って行き先と名前を確認してから確認印を切り記す。名の所には『Saint(サン)』と書かれていた。


チケットありがとうございました、と返しながら彼の風貌を確認する。ゆったりとした黒い装束に胸元にかかった木製のシンプルな十字架。


「いえ、こちらこそご丁寧にありがとうございます」


そう言い柔和な笑みを浮かべる彼は、名と身なりから察するに神父だろう。


神父が乗る船に船員として乗るのは初めてだ。少し胸の高鳴りを覚えながら、良い船旅をと送り出す言葉をかけると


「ええ、ありがとうございます。この船に神のご加護がありますように」


笑みを絶やさずにひとつお辞儀し、脇に置いていた小さな鞄を持ち歩き出す。その姿に何処までも敬虔な神父だと感心した。


その背を横目に見送りながら流れ作業を再開し、仕事とは関係のないことを考える。


そうだ、あとで船長と先輩に神父が乗ったことを教えよう。神の加護があるよう祈っていたことも。そうすれば、少しは安心できるはず。


これはいい案だ。さてどう切り出そうと思考を働かせていると、目の前に伸びてきた手に目が止まった。


白手袋に包まれた、小さな手だった。


思わず目をあげれば、1人の女性がそこに立っていた。


日傘で落とされた影の中に光る鮮やかな金髪は丁寧に三つ編みに編まれており、左右で微妙に違う赤系統の瞳は日差しの強さで細まっている。暖かいというのに羽織った茶色いコートの下は黄緑のドレス。白く細い素足に履いた赤いハイヒールは、日光を受けてやけに目立っていた。


チケットを確認している前で日傘を閉じてくるりとしまう。一連の動作が絵画じみているこの女性は、どうやら『Lune(リュヌ)』というらしい。


まるで絵から逃げ出したみたいだ。そんな感想を持ちながらチケットを返すと、これまた絵画じみた笑みでありがとうと囁かれる。


「リュヌさん、良い船旅を」


せっかくの独り身美人だ、特段の笑顔で送り出すと彼女もそれを察したのかありがとうと笑んできた。


それはやはり作り物のようだったが、美しいものだったからよしとしよう。


茶色いコートをなびかせながら船へと向かう姿を見送った見習いは、次の客と向き合う。


その頭の中は、敬虔な神父と不思議な女性で満ちていた。

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