28.合格発表(円)


 合格発表の日、母親は俺の受験の時よりソワソワしていた。


 部屋と台所を行ったり来たり。鍋の様子を見たと思ったら、出前の寿司の皿をクルクル回したり、冷蔵庫のケーキが傾いていないか確認したりしている。本当に落ち着きがない。


「ねえ、ニコちゃん、まだかなあ。ちょっと遅いよね」


「もうちょいだろ。手続きだってあるだろうし」


「どっかで途方に暮れたりしてないかな。万が一ってことだってあるし」


「そんなに心配なら一緒に行けば良かったのに」


「午前中は仕事外せなかったんだよう。それに早引けしたらサプライズになるじゃん」


 壁につけたモールの位置を直すと、母親は満足そうにうなずいた。パーティーの準備はばっちりで、冷蔵庫では缶ビールとぶどう味のシャンメリーを冷やしていた。


「まだかなあ」


 本日、何十回目かの「まだかなあ」が飛び出す。そう何度も言われると、こっちまでソワソワしてくる。


 と言うか、ここまでやって万が一不合格だったらどうするんだろう。ニコに限ってそんなことはないとは思うが。


 うーん、お陰で緊張してきた。

 それから5分くらい経って、ガチャガチャと玄関の鍵が開いた。


 きたきた、と母親が飛び出していく。


「ニコちゃん、おめでとう!」


 顔が見えた瞬間に飛びつきにいった。ニコが被っていた黒いキャップがぽんと取れた。


「わ」


 ニコが驚いたような声をあげた。


「あの。朋恵さん?」


「なかなか帰ってこないから心配したんだよ」


「そんなに遅かったですか」


「遅く感じた。さあさあ、入って入って。お祝いの準備できてるよ」


 ニコと家の中に入ってきて、母親の表情が凍った。俺と目があってようやく気がついてくれた。


「やべ。まだ結果聞いてなかった」


 さあっと青ざめた顔をすると、くるりと振り向いた。


「あの。結果どうだった?」


 ニコは目を丸くして、飾り付けられた部屋を見ていた。不思議そうに辺りを見回していた。


 それから、嬉しそうに笑った。


「もちろん。受かりました」


 カバンから合格証明書が出てくる。

 ホッと肩の力が抜けていく。めちゃくちゃ安心した。


「良かったあ」


「朋恵さん、どうしたんですか。今日仕事だって言ってませんでしたか」


「半休もらったの」


「あ。それで。こんなにすごい。お寿司もある」


「特上だよ。特上。早く食べよう」


「はい。はい!」


 嬉しそうにうなずいて、彼女は緊張したようにちょこんと正座した。冷やしたシャンメリーを持ってくると、丁寧に頭を下げた。


「ありがとう。飾り付けまで」


「悪い。はしゃいじゃって。先にシャワーとか浴びなくても大丈夫か」


「大丈夫。バス停から近かったし、ほら全然汗かいてないでしょ」


 薄いピンクのシャツを引っ張ってみせた。日傘も持って行ったの、と自慢げに言って彼女は自分の白い脚を撫でた。


「日焼け止めも塗ったからばっちり」


「それなら良かった」


「ねえねえ。早く乾杯しよう」


 母親が大量の缶ビールを持ってくる。


「一番大人なのに、一番子どもみたいだ」


 俺が言っても、聞く耳持たず。母親は俺たちのグラスにシャンメリーを注いで、ビールのふたを開けた。


「じゃあ、ニコちゃんの合格を祝って」


 チンとグラスをぶつけると、母親はゴクゴクと勢いよく飲みはじめた。


「はあ。うまい」


「飲みすぎんなよ」


「良いじゃん。ねえ、ニコちゃん」


「良いと思います。お寿司もありますし」


 ね、とニコは俺の方を見た。


「たまにはさ」


「まあな。分かってるけど」


 うん、とニコはシャンメリーを飲みながら目を細めた。


「ほらほら。ニコちゃん好きなの食べて良いよ」


 ラップをペリペリとはがすと、母親はニコにお皿を押し出した。


「お寿司、何が好き?」


「うーん。エビが好きです。あとはあじとか」


「お。渋いねえ。円なんか卵しか食べられなかったもんね」


「何年前の話だ。イクラもらうぞ」


 2貫しかないイクラを取ろうとすると、母親にかすめ取られた。


「ダメダメ。今日はニコちゃんの合格祝いなんだから」


「そんな良いですよ。円くん、イクラ食べて良いよ」


「大丈夫。円にはイクラちょーーーとっだけ分けてあげる」


 3粒のイクラをもらった。


「ひもじい」


 ついでにガリと卵をもらった。ニコの皿にどんどん寿司が盛られていく。箸を手に取ると、彼女はスンスンと鼻を動かしてキッチンの方を向いた。


「どうしたの」


「なんか美味しそうな匂いがするんです」


「あ。気がついた」


 母親が俺に目配せをした。


「何だと思う?」


「もしかして、これ。ボルシチですか」


「当たり。円が作ったんだよ」


「本当?」


 目をキラキラさせてニコが言った。俺がうなずくと、さらにパアッと顔を輝かせた。


「ありがとう」


「なんか円、急にボルシチ作ってやるんだって。張り切っちゃって。お寿司とボルシチって何か変な組み合わせだよねえ」


「前から約束してたんだよ。万が一失敗しても寿司あるから、どうにかなるだろ」


「本当にひねくれてるよね。この子」


「はい。でも、すごく嬉しいです」


 ニコが声を弾ませて言った。


「食べたい」


 身を乗り出して大きな声で言った。ニコがそんな風にはしゃぐのは珍しい。


 また緊張してきた。口に合えば良いけど。

 皿に盛ったボルシチを、彼女はゆっくりとスプーンで口に運んだ。湯気を立てるスープを、ニコはコクリと飲み込んだ。


「どう」


 しばらく何も言わなかったので、無性にドキドキする。彼女は深く息をはいた。


「美味しい」


「良かった」


「すごく美味しいよ。円くんらしくて好き」


「俺らしいって何だ」


「優しい味がする。お寿司とも合う」


 彼女はパクリとエビを口に入れた。頬を緩ませて、幸せそうな顔をした。


「頑張って作ったかいがあったね」


 ボルシチとお寿司をつつきながら、母親は次のビールを流し込んでいた。


「酒のあてになる。また作ってよ」


「つまみで作ったんじゃないけどな。あと、あんまり飲みすぎんなよ」


「飲みすぎても良いんだ。明日休みだから」


「どうなっても知らんぞ」


「はいはーい。ニコちゃんも、どんどん食べて。ほらイクラ残ってるじゃん」


「あ。これ、円くんにと思って」


「良いんだよ。ねー。可愛い妹にイクラあげるよね」


「あー。あげるよ。あげる」


「ええ。でも」


 ニコは俺の皿に、イクラを乗っけようとしているところだった。


「合格祝いだから」


 たった1人の妹が、こんなに楽しそうにしている。


「気使うなよ」


 それで十分だ。イクラなんていらない。

 ニコは迷った挙句に、おずおずとうなずいた。


「じゃあ」


 俺を見上げると、スッと箸を持った。


「いただきます」


 小さな口に、イクラを運んだ。

 もぐもぐと口を動かしながら、ニコは上機嫌そうに笑顔を見せた。美味しい、と言うと、彼女は俺が作ったボルシチを食べた。


「全部美味しい」


「それは良かった」


「ね。本当に」


 母親と一緒に大きくうなずく。

 それから入学案内を見ながら、制服を買いに行く日を決めたりした。彼女の新しい生活に、知らず知らずのうちに自分まで心が踊っている。

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