29.跳ねる雨(円)
結局夕方過ぎくらいになると、カバみたいにビールを流し込んだ母親はダウンしてしまった。ぐうぐうと気持ち良さそうに寝入る酔っぱらいを寝室に押し込んで、温かいお茶をいれた。
「朋恵さん、楽しそうだったね」
ふすまの向こうから聞こえる寝息に、ニコは笑みを漏らした。
「すごくはしゃいでた」
「ずっとソワソワしてたから。「まだかなあ」って何百回も言ってた」
「なんか心配かけちゃったかな」
「俺の受験の時だって、あんなに心配してなかったのに」
ニコはふふと笑って、高校のパンフレットに目を落とした。
「9月から高校生かあ。なんか信じられない」
「すごいなあ、俺の時なんか本当ギリギリだったのに」
「色杏さんに手伝ってもらったから助かったの。ね、お兄ちゃんの高校、制服やっぱり可愛いね。青いリボンがきれい。楽しみ」
彼女がパンフレットの制服をウキウキした様子で指差す。
「そうだ、制服といえば。これ良かったら」
ちょうど母親も寝ているし、タイミングは今だ。
押し入れに隠しておいたプレゼントを取り出す。大きな包装紙を見て、ニコは驚いた顔をした。
「これ私に?」
「うん。プレゼント」
「開けて良いの」
「もちろん」
ニコはチラチラと俺のことを見ながら、丁寧に包み紙をほどき始めた。
正直、プレゼントを選ぶのにかなり時間がかかった。気に入ってくれるかどうか。ハラハラする。
パリパリと包装紙が開いていく。
「カバン」
茶色の合皮のカバン。袋から取り出すと、ニコはそれを膝の上にのせた。
「可愛い」
「そうか。ああ良かった。通学カバンに使えるかなと思って」
「すごい嬉しい」
カバンを抱き締めると少し視線を伏せた。
「でも。でもさ、これ高かったんじゃない?」
「まーな。でもせっかくだから」
「お兄ちゃんが頑張って貯めたお金なのに」
申し訳なさそうに、ニコは
「気にする必要はなし。ちょうど臨時収入が入ったから」
「臨時収入?」
「今度言うよ。いろいろあったんだ」
俺の言葉に、彼女は不思議そうに「いろいろ」と繰り返した。
「ありがとう。ありがたくもらう」
声を弾ませて言った。
「毎日使うね」
ニコはむぎゅうとカバンに顔をうずめた。喜んでもらえた。軍資金をちょっと超える値段だったけれど、これにして良かった。
「なんかもらってばっかりだなあ、私」
包み紙を折りたたみながら、彼女はポツリとこぼした。
「嬉しいけれど、申し訳ない」
「そんなことないって。こっちだって、いろいろお世話になってるから」
「そうかな」
「そうだよ。朝の弁当だって作ってもらってるだろ。晩ご飯だって、洗濯だってしてもらってる」
「そんなの大したことじゃないよ」
「それだけじゃなくてさ」
壁の飾り付けられたモールを見上げる。こんな飾り付けを見るのは、小学校の時のクリスマス以来だった。
「母さん。最近、ちょっと嬉しそうなんだ」
わざわざ押し入れの奥の方から引っ張り出してきた。子どもっぽいと言ったけれど「良いからさあ」と一緒に飾り付けをした。
「別に元気なかった訳じゃないんだけれど。ニコが来てからずっとウキウキしてる。今まで、つまんない息子しかいなかったからな」
「ううん。そう言うことじゃないと思うよ」
ニコはブンブンと首を横にふった。
「多分、お兄ちゃんが反抗期に入っちゃったからだよ」
「俺が? 反抗期?」
「そうだよ。前に言ってたよ。なかなか家に帰ってこなくて寂しいって」
「反抗期じゃなくて。バイトで忙しいだけだから」
「うーん。でも週5で働くこともないんじゃない?」
たまに夜も遅いし、と彼女は言葉を続けた。
「もう少し減らせば」
「無理じゃないけど、な」
「何か欲しいものでもあるの」
「そうじゃないんだけど」
稼いだ金は、ほとんど貯金してある。目的があるわけではなく、あると何となく安心する。
「ほら1人で働くよりも、2人が働いてた方が何かあった方が楽だろ。父さんいないし。母さんだけ無理させるわけにもいかない」
「言いたいことは分かるけど」
カバンを抱えたまま、ニコは壁に寄り掛かった。姿勢を崩して、ちょっとだけ俺の方を向いた。
「家族との時間は大切にした方が良いよ」
ね、と彼女が言う。
「できることなら。できるうちに」
「うん」
「私が言うと重みがあるでしょ」
「確かに」
「約束ね」
クスクスと笑いながらニコは言った。カバンの
「ニコは部活とかやらないのか。もしかして映画研究会に入るのか」
「それは考えてないよ。文化祭は手伝うけど。バイトしよっかなって」
「おいおい。自分で言っておいて」
「私は良いんだよ。お兄ちゃんみたいにたくさん働くつもりはないし。ある程度自分で稼いでおかないと」
「それって気使ってる?」
「気持ちの問題。ほら、何となく安心するでしょ」
「それは分かるなあ」
「だから、ほどほどに」
彼女はゆらゆらと揺れながら、改めてカバンに目をやった。結構、気に入ってくれたみたいだ。
「ワクワクするな。あ。私たち一緒に登校するのかな」
「どうなんだろ。俺と一緒に行くのはやめた方が良いかも。俺なんかの妹って思われるのは可哀想だ」
「どうして。色杏さんと天道さんには本当のこと言ったのに」
「あの2人には言っても良いんだよ。自分のことしか興味ないから」
「私は構わないんだけど」
「いや。もっと立派な兄だったらなあ。我慢してくれ」
「そっかあ」
ニコは残念そうにうつむいた。
「円くんは、立派なお兄ちゃんだと思うよ」
「そう言ってくれるだけで十分。まー、俺なんかが引っ付いてたら邪魔だろ」
「邪魔?」
「あー」
ちょっと悩んでから口を開く。
「ほら恋人とか。できたらさ」
「別に作るつもりはないよ」
「絶対にモテるから。保証する」
「いやいや。お兄ちゃんこそ好きな人とかいないの」
彼女は悪戯っぽく笑って、近づいてきた。
「気になる女の子」
ちょんと足の先が触れる。ひんやりと冷たい。
「ひとりくらい」
「前にも言ったけど、俺、女が苦手なんだよ」
「私とは普通に話してるよ。天道さんと色杏さんとも普通に話してる」
「ニコは家族だろ。色杏先輩と天道さんには話しかけられてるんだよ。俺は聞いてるだけ」
「でも最初のとき、私に話しかけてくれたの、お兄ちゃんだよ」
雨の日を思い出す。
足元でポツポツと雨粒が跳ねている。
「あの時はまだ家族じゃなかったよ。あれは、どうして?」
地図を見るニコの横顔を見た時、ぼんやりと灯った感情を思い出す。
それは気がつくと、胸をじりじりと焼いていたりする。
「道に迷ってて困ってたから」
まさに今とか。
「困ってる人見ると放っておけないんだよ」
「そっか。お兄ちゃん優しいもんね」
彼女は無邪気に笑った。
「あの時はこんなことになるだなんて思ってなかったね」
口元を隠して笑っている。長い髪が手の甲に触れる。首を傾げてこっちを見ている。
そんな仕草を可愛いと思う。
「どうしたの? 黙っちゃって」
「あ。いや」
視線を逸らすと、壁にかけられた時計が目に入った。短い針が9の文字を刺していた。
窓の外はとっぷり日が暮れて、夜になっていた。
「わ。もうこんな時間だ。シャワー浴びてくるね」
慌てたようにニコが立ち上がる。タンスからタオルを取り出すと、風呂場に入っていった。
シャワーの音が聞こえる。
1人、すっかり
「うわあ」
自分でも思ったより深いため息が出てくる。甘い。甘すぎるのも考えものだ。
これからニコと一緒の高校に通うことになる。すごく楽しみだけれど、この感情の落とし所が分からない。
ニコが隣にいることに早く慣れたいと思う。
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