26.私の話(ニコ)
「何か良いことでもあった?」
向かいに座る
「随分と嬉しそうな顔をしているけど」
「そうですか」
「そう見える」
コーヒーを飲みながら、色杏さんはこくんとうなずいた。
色杏さんが行きつけと言っていたポンヌフという喫茶店は、こじんまりとしてお洒落なお店だった。むき出しの木の柱は、つやつやと茶色くて、日の光が当たるとぼんやりと光る。
今日は小論文の添削をしてもらっていた。私が書いてきた文章を読み終わると、色杏さんは赤ペンをテーブルの上に置いた。
「言うことなし」
「本当ですか」
「うん。完璧だよ」
文句ない、と彼女は言った。
「8年もブランクがあるとは思えない。漢字も完璧だし、向こうでも勉強してたの?」
「いえ。でも、ママが持っていた本が沢山あったから」
「文学の研究してたんだっけ?」
「日本文学が好きらしくて。源氏物語とか。私もそれを読むと懐かしい気持ちになって。日本に帰りたいなあって思ったり」
バーバの家には、ママの部屋があった。
隅から隅まで本で埋め尽くされていた。本の虫だったのよ、とバーバは懐かしそうに言っていた。
「ママはこれを読んでた時、どんな気持ちだったんだろうって。日本に帰って来たのはそれもあります」
「
「ですよね。ていうか、ごめんなさい。私自分の話ばっかり」
「良いよ。ニコちゃんさえ良ければ、もっと聞きたい」
彼女は私のことを見つめていた。
「ヒロインを知るのは、監督として大事なことだから」
「本当に映画が好きなんですね」
「大好き。ただ今回はそれだけじゃないけれど」
「他にあるんですか?」
「単純にニコちゃんのことを、知りたいと思ったから」
店員のお婆さんがガトーショコラを持ってきた。フォークを入れるとふんわりと柔らかった。
「私のこと」
ほろ苦いカカオの味がした。
「あんまり良い話じゃないですけど」
「聞きたい」
「じゃあ話しますね」
店内に人は多くなかった。店の奥でさっきケーキを持ってきたお婆さんがお皿を洗っている音が聞こえた。
私は自分の話をした。
「バーバの家はチェリャビンスクって言う街から、ずっと行ったところにあるんです。いわゆる田舎で、冬になると一面真っ白になるんです」
この町は歩けば人がいる。
反対にバーバの家は歩いて誰かに会うことは多くなかった。世界からポツンと取り残されたみたいだな、と私は思っていた。
「学校にはバスで行ってました。ロシア語はあんまり上手じゃなくて、外から来る人もあんまりいなかったから、珍しがられて。仲良くしてくれる子もいたけれど、あの時の私はそんな余裕もなくて」
色杏さんは「うん」と
「家に帰って、バーバと話す時間が大好きでした。ママの話とか、自分の話とか」
私が一番好きだったのは、家族の話だった。今まで知らなかった自分の家族のこと。
「バーバは子どもの頃サンクトペテルブルクにいたんです。そこで家族をみんな失って。バーバはひとりぼっちになっちゃったんです」
大きな戦争の後で、ひとりぼっちだったバーバは施設で育った。大人になって、国営農場で働いていたおじいちゃんのお嫁さんになって、ママを産んだ。
ママは飛び出すように家を出て、パパと出会って私を産んだ。
「私たち似ているねって、バーバはすごく可愛がってくれて。良く言ってた言葉があるんです」
「なんて言葉?」
「家族の愛情に変わるものはないんだって」
死ぬ間際もずっと私の心配をしてくれた。ひとりぼっちでかわいそう、と涙を流していた。
「日本に来たのも、バーバの言葉がずっと引っ掛かってたからで。家族の愛情って何なんだろうって。だから、私は家族に会いにきたんです」
「たったひとりで」
「はい。パパには会えませんでしたけれど」
温かいお味噌汁の匂い。
朝起きると「おはよう」って言ってくれる。
「信じられないくらい良くしてもらってます」
ママと暮らしていた時のことを思い出す。バタバタして慌ただしい暮らし。あー今日も疲れたって、笑いながら言うのはそっくりだった。
「図々しいなあって思います。だって昨日までは他人だったのに。一緒に暮らすだなんて」
「そうかな」
「そうですよ」
「でもニコちゃんは一緒に暮らすことを選んだ」
「はい。自分でも何でか分かりませんけれど」
「どうして?」
「どうしてでしょう」
自分でもなぜかと考えたことがある。
あの感情は、色杏さん風に言うなら、郷愁に近いのかもしれない。
「お味噌汁ですかね」
「お味噌汁?」
「円くんの作るお味噌汁が、パパの味にそっくりだったんです」
あの時、どうして涙が出たのか分からない。あそこまで自分の気持ちがわからないのは、初めてだった。
「言っちゃえば、愛情に
ここでなら自分が失ってしまったものを取り戻せる。それが何なのかすら分からないけれど、そんな気がしていた。
その予感は今も胸のどこかにある。
話を始めてから、だいぶ時間が経っていた。窓から差し込む明かりは、西日に変わっている。
色杏さんはガトーショコラを食べ終わっていた。
「良い話を聞いた」
「ひょっとして映画にしちゃうとかですか」
「うーん。それは無理かな」
色杏さんは笑って、自分の三つ編みをくるくると回して遊んでいた。
「良くできた話は、物語にするのが難しい」
「そうなんですか」
「うん。ちょっとくらい欠けていた方が可愛げがある」
それに、と彼女は言葉を続けた。
「まだニコちゃんの物語は終わっていないように思える」
「受験もありますしね」
「そうそう。それに。さっきの嬉しそうな顔」
「え」
「何かあったんでしょ」
「あ。あー。そうでした。この前、家族でお出かけしたんです」
色杏さんに水掛神社に行ったことを話した。絵馬を間違えて書いてしまったことと、ゴマまんじゅうを買ったこと。
「すごく楽しかったです」
天道さんと円が付き合ってると勘違いしていたことは、言わないことにした。
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